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001:アンパンと魔法使い 一

「ええええええ」


 あたしはほとんど涙目だった。


「だから早くシャッター閉めろって言ったのに」


 母はこちらにタオルを放ると、そう言って珈琲を啜る。ずずずーと音を立てながら。


「こんなんふつう有り得る? 有り得なくない? なんでおかーさん落ち着いてられんの、だって異世界だよ異世界っ」

「あほたれ、どうして落ち着いてるように見えんのよ」

「落ち着いてるじゃん! あたしだったら珈琲なんか飲んでらんない、まちがいなくむせる!」


 ふんと鼻を鳴らし、母はマグカップをテーブルに置いた。


「あわあわしてたってしょうがないでしょーよ、来ちゃったもんは来ちゃったんだから。しばらくここで暮らすしかないわ」

「しばらくって。戻れんの?」

「ま、たぶんそのうちね」

「たぶんって! そのうちって!

 やだもう泣ける、おかーさん昔から言ってたじゃん、『普通が一番、普通であることは偉いこと』って。

 だから生まれて今まで十八年、普通に暮らしてきたのに……ちょっとシャッター閉めるのが遅かったからってぇぇ」

「あーもう、泣くなうっとおしい!」


 泣き出したあたしをばっさり切り捨て、母は最後の一口をぐびっと飲み干した。

 あたしは店の片隅に作った、たった三席のイートインスペースで頭を抱えていた。母は向かいに座ってのんきに珈琲なんかしてる。

 うちのパン屋、ブーランジェリー松尾。

 そのブーランジェリー松尾は、さっきの地震で異世界にトリップしてしまった。

 異世界にトリップって、漫画やアニメじゃないんだから!


「ホントに異世界なの? 夢とか気のせいじゃなくて?」

「疑うんなら、もっぺん外見てみ」

「……いや、べつにいいです……」


 あたしの目に、母はやっぱり落ち着き払って見える。

 どっしり構えた職人気質のおかーさん──小学校に上がる直前に父を亡くして以来、あたしはこのおっかない母と暮らしてきた。

 学校で泣かされた時、友達とケンカしたとき、先生に怒られたとき、母は決まってこう言うのだ。


「しっかりしな、サトコ」


 そう、今も。


「しっかりしな」


 そしてこう続けた。


「起きちゃったことは変えられないんだから。あんた良かったじゃない、店に一人じゃなくて。私が一緒でさあ」

「そうだけど……」

「ほら、ぐずぐず言うな。珈琲飲む? ブラックでいいんでしょ」


 あたしが鼻をすすっていると、母は立ち上がって店の奥に入った。

 ごりごりと豆を挽く音。

 ちょっと酸味のある豊かな香り。

 コポコポと音を立て、ポットからお湯が注がれる。


 ──え、ポット?


「ね……ちょっと、おかーさん」

「あーん?」

「もしかして……もしかして、電気使えるの?」


 母はひょいと顔をのぞかせた。

 その手にはうちのポット。『あっとゆーまにすぐに沸く』が売りの、うちの電気ポット。

 こともなげに母は言った。顔には「それがどーした」と書いてある。


「使えるよ」

「えっ。じゃあガスは、水道は?」

「ぜんぶ使えるよ」


 えーっ。

 あたしは絶句した。

 なんだこの異世界。電気、ガス、水道、使えるの?

 だって普通、異世界にトリップって身一つで剣と魔法の世界に放り込まれちゃうんじゃないの?


「……でたらめすぎない?」

「使えないよりいいじゃないの。パン焼けなかったら困るもん」

「えっ」


 ふたたび絶句。

 異世界にトリップなんてとんでもない一大事のはずなのに、普通に店をやるつもりでいるらしい。

 口をぽかんと開けていると、母は呆れたような顔で珈琲片手に戻ってきた。

 どーぞと言ってカップを置くと、どかっと椅子に腰掛ける。


「サトコ。うちはパン屋だよ」


 そしてさらっと言い放った。

 まるで珈琲の口当たりのように、さらっと。


「何度ここにトリップしたって、うちがパン屋ってことに変わりはないんだから」

「えっ」

「お父さんも、おじいちゃんも、そのまた前のおじいちゃんも、粛々とパンを焼いてたんだから」


 みたび絶句。それから頭を抱えた。

 目の前が真っ暗、頭の中は真っ白、きっと顔色は真っ青だ。

 ──つまり、先祖代々ここにトリップしてるってこと? そのたびに普通にパン屋をやってたの?


「は……初耳なんだけど」

「聞かれなかったもん」

「や、ふつう聞かないよね……っていうか思いつかないよね『うちって異世界トリップしてもパン屋なの?』とか」

「震度5越えるとダメなんだよねえ」


 しみじみ呟き、母は大きく息をつく。


「時々あるでしょ、大きい地震。そのたびにトリップしちゃうんだよ。店ごと」

「そのたびに、って」

「安心しなよ。ちゃんと毎回戻ってきてるんだから、ブーランジェリー松尾は」

「でもいつ戻れるかわかんないんでしょ?」

「わかんないけど、せいぜい数か月ってとこだわよ。まあ何とかなると思ってがんばるしかないさ」


 数か月、だって。

 ということは半年以内には戻れるのかな。おおよそ二、三か月ってことなのかな。けれど二、三週間や二、三日では終わらないということだ。

 ぐるぐる考え込むのを横目に、母はあたしのマグを取る。ぐびっと音をたてる豪快な飲みっぷり。

 ネコ柄のマグカップを虚ろな目で眺めながら、あたしは「ぶえぇぇ」と呻いてテーブルに突っ伏した。

 そういえばあのカップ、高校の修学旅行で買ったやつだ……当時の彼氏とお揃いで。


「山野くん、地震大丈夫だったかなあ……」


 元カノの家が異世界トリップしたなんて、まさか思うまい。


「なにあんた、まだあの子のこと好きなの?」

「……や、べつに」

「そんな手もつなげなかった元彼のことなんか心配してないで、明日からの暮らしの事でも心配したら?」

「ちょ! 手はつなぎましたよっ」

「チューもしないで別れちゃったんでしょ、友達でいようとか言って」


 母はにやりと笑い、あたしは視線を泳がせる。頬のあたりがかーっと熱い。

 そりゃーたしかに山野くんとはチューしませんでしたよ。

 だってしょうがないじゃん、恥ずかしかったんだもん!


「な……な……なにようー。自分を安売りするよりよっぽどいいじゃない、むしろ褒めてよ身持ちが固いって」

「まっ、そりゃー確かにそうかもね」

「でしょ、そうでしょ? だからはい、もう終わ」

「それで山野くんって四月から何してんの?」


 なんでその話を引っ張るかな。

 恨めしげにそちらを見ると「で、何してんの?」と促されてしまった。


「山野くん四月から大学……東京行っちゃった」

「あー、じゃあもうダメだわ」

「ダメって!」

「大学生とパン屋じゃねえ。住む世界が違う上に、場所まで離れちゃったらねえ」


 あたしの元彼、山野くん。

 ついこの前の卒業式で答辞を読み上げたんだった。勉強もできたし、運動もできたし、顔はまあ……普通だったけど。

 国立の大学に合格して先月末に引越してしまった。あたしは高卒でブーランジェリー松尾に就職──住む世界が違うなんてこと、言われるまでもない。

 そんなことは当事者たるあたしが一番、よーっくわかってる。


「あきらめなサトコ、あっちは東京、こっちは異世界。それぞれ頑張って生きてくしかないんだから」


 しかも物理的に『世界』が違ってしまうという、まさかの事態なわけで。

 がっくりうなだれるあたしを横目に、母はずずーと珈琲をすする。あたしはまだ一口も飲んでいない。


「頑張って生きてくったって……何をどうすればいいのよぉ」


 テーブルに突っ伏したまま溜息つくと、目の前にごとりとマグが置かれた。

 ちらっと見上げれば視線が絡む。

 イートインの椅子にどかっと腰掛けたまま、母は重々しく口を開いた。


「……松尾サトコさん、あなたの職業は?」

「へっ」

「はい、ちゃんと返事。あなたの職業は?」

「あ、えーと……パ、パン屋です」


 母はふんっと鼻を鳴らし、腕を組む。


「業務内容は?」

「品出しとレジ打ち……ですけど」

「他には?」

「み、見習いです……パン職人見習い」

「わかってんじゃん」


 そう言われて、あたしは顔を上げた。


「何を頑張ればいいかわかってんじゃん。

 よく聞きな、サトコ。頑張って生きてくってゆーのはね、とどのつまり自分の仕事をしっかりやることだよ。

 仕事ってのは生業だ。生業ってのは、生きるための(わざ)だ。

 手ぇ抜くんじゃないよ。

 場所がどこでも、時代がどんなでも、やるべきことをきちんとやるの。

 芸は身を助く。

 私たちにとって、それはパン作りなんだよ」


 あたしはぽかんと口を開けたまま、母の顔を見つめていた。

 なんか、いいこと言ってる。

 こんな夜中の、異世界の、小さなパン屋の片隅で。

 そう思ったらなんだか妙に感動しちゃって──あたしは「うん」と頷いて、タオルの端で涙をぬぐった。

 そして。


 ちりん

 ちりん

 ちりりん──


「いらっしゃいませぇ」


 母が明るい声で席を立った。

 あたしは座ったまま。

 立てなかった。口をぽかんと開けたまま、イートインの隅で腰を抜かしていた。

 だって。

 だって。

 店のベルを鳴らし、ぎぎいと扉を押して入ってきたのは──


「おおお、なんと懐かしい! 十五年前と同じじゃわい」


 二メートルはあろうかという縦長の体躯に、工事現場の三角コーンのごとく尖った帽子をかぶり、白いひげを胸の下まで垂らし、曲がった樫の杖を持った──


「まだ残ってるかのう。ワシの大好きなあれ」


 ──まるで絵本から抜け出したような、『魔法使いのおじいさん』だったのだ。




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