026:ブートニア
昔々あたしがまだ小さくて、自分で字が読めなかった頃。
「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」
寝る前には必ずおかーさんが絵本を読んでくれた。そこで出てくるこの一節。
柴刈りっちゅーのは薪を拾ってたんだ、川で洗濯っちゅーのはそこまで行かなきゃ水が無いからだ、というおかーさんの解説に「ものの無い時代って大変だったんだなー」なんて思ったものだ。
「おじーちゃんはおじいさんだから柴刈りするの?」
厨房にいたおじいちゃんにそう訊ねると、
「あたぼうよ、自分で刈ってこなきゃ火も熾せやしねえ」
「じゃあ川で洗濯もしたの?」
「したさ、したした。うっかり手を離して流されたりなんかしてなあ」
というやり取りをしたんだけど……それもきっと異世界でのことだったのだろう。
あたしはおじいちゃんのノートから顔を上げると「ぶひゃぁっ」と可愛くないくしゃみをして、くるまった毛布の前をかき合わせた。
某月八日、大河渡る。水中に大蛇の影あり。
大蛇の影あり……かあ。
視線を巡らすと川で洗濯をするおばあさん──ではなくコジマくん。
ネト河を渡って少し先の小川で、あたしたちは馬車を止めていた。
まるで日本の風景百選にでも出てきそうな、美しい小川。咲き乱れるミモザの黄色い並木、足元には小さくて可憐なピンクの花の絨毯。芝桜の花によく似てる。
お花見するのにうってつけ。
そんな雰囲気。
「大丈夫ですか、サトコさん」
馬車の荷台で鼻をぐずぐず鳴らすあたしに、レオニさんが淹れたての珈琲を持ってきてくれた。といっても、あたしが家から持参したインスタントだけど。
ありがとうございます、と受け取って口をつける。
あったかーい……
「なるべく早く宿場に着くようにします。今日の所は立派なお風呂がありますから、体を温めてください」
「え、あるんですか。お風呂」
「ええ。龍の洲は温泉の洲でもありますから」
おおさすが、地形が似てるだけのことはある。
温泉、と聞いただけで顔が緩んでしまうあたり、あたしもよくよく日本人だ。
はあー良かったぁ。
河に浸かって冷え切ったもんだから、くしゃみは出るわ震えはくるわ、濡れた服を着替えてもイマイチ具合が良くなかったのだ。指なんかキンキンに冷えちゃって氷のよう。
それにしても、ほとんど同じ目に遭ってるコズサ姫はどうしてあんなに元気なんだろう。やっぱり体が若返った分、暑さ寒さにも強いのかしら……
「アルゴよ、先ほどは大儀であった」
そのコズサ姫は馬車から下りて、三歩後ろに従うアルゴさんにお褒めの言葉を賜っていた。
質素な恰好をしていても、そこはやっぱりお姫様。姿勢の良さや声のハリは隠しきれない。体は小学生くらいでも、中身は十八歳なのだ。本当の小学生だったら小川で遊び出しているだろう。
ああ……春だなあ。
日本だったら桜と菜の花が広がる、春の水辺。思い出すなあ。一昨年の春、山野くんと一緒にお花見したっけ……
……と雑念が頭をかすめたところで、あたしはまた「ぶひゃあっ」とくしゃみをした。隣でレオニさんが笑いながら「ああ、これは風邪ですねぇ」だって。
うう、恥ずかしい。寒い。
「ねーコジマくん、風邪に効く何かないー?」
「ないですぅー。暖かくして早く寝るのが一番!」
コジマくんは一通り洗濯を終えたのか、濡れた衣服の山を抱えて戻ってきた。先ほど鍋やマグカップを出した魔法のリュックから今度は洗濯紐を取り出して、荷馬車の骨組みにくくれば簡易物干しスペースの出来上がり。
惚れ惚れするようなたくましさだ。ちょっと見る目が変わりそう。
あたしだけでなく矢傷を負った船頭さんも救助、治療してたし……実は本当に優秀なのかもしれない。
「アルゴよ」
コズサ姫は芝桜の絨毯を踏みながら、もう一度アルゴさんに声をかけた。
「其の方の働き、まことに見事であった。改めて礼を言う」
「恐れ入りまする」
「……だがのう、アルゴよ。ネト河の水は冷たかったぞ」
「然様で御座いますか」
「御座いますか、ではない。放り込んだのは誰じゃ」
くるっと振り返り、姫様は唇を尖らせる。ああこれ、あたしのくしゃみのせい?
「どうなることかと見ておれば、あッというまに片付けておったではないか。ならばいくら舟に火をつけられたからとて、何もわらわたちを河に放ることはあるまい。
だいたい、おぬしはおおげさじゃ。心配しすぎじゃ。冷たい水に入ってガタガタ震えるくらいなら、多少熱いのを我慢した方が後が楽だったやもしれぬ」
「お言葉ですが、ひいさま」
言われ放題のアルゴさん、冷静に切り返す。
「ひいさまをお守りすることが、アルゴの役目に御座います」
「知っておる」
「火のついた舟にて火傷でもなされば上様に顔向けできませぬ。死んで詫びたところで、先代様にも顔向けできませぬ」
「おおげさじゃのう」
「万が一槍が御身をかすりでもしたら如何致します。穂先には毒でも塗ってありましょう」
「それならば河に入った方がマシということか」
「然様」
「だがサトコどのの顔を見よ、土気色じゃ」
「それはもう、暖かくして早めにお休み頂くしかありますまい」
コジマくんと同じこと言ってる。あたしとレオニさんは顔を見合わせて笑った。
僕のマネしないでくださいよー、と言いながらコジマくんは洗った衣類を干し始めた。あたしと姫様が、河に落ちるまで着てたやつ。
「まったく、おぬしの頭はカッチカチじゃ。岩のようじゃ。もう少し物事を柔らかく捉えればよかろうに、四六時中一緒におると肩が凝って仕方ないわ」
「何と仰られても、それが私の役目に御座いますれば」
「肩凝りでは済まぬ、頭痛じゃ頭痛」
「それではその旨上様に申し上げ、暇を頂くことと致しましょう」
口ではそう言いながらも、アルゴさんは笑っている。初めて会った時もこの人、姫様にぽかぽかぶたれながら笑ってたっけ。
その向かいでコズサ姫は、腰に手を当てて仁王立ち。
ふわーっと風が吹いてつやつやの黒髪が揺れる。ミモザの花が散って、すごく綺麗。
「乾けー乾けー」
馬車の中ではコジマくんが呪文を唱えながら、杖をぶんぶん振り回している。
暖かいな。
お日様って偉大だな。
体の芯は冷たいけれど、表面が温まってきて頭がぽわーんとする。
ぽわぽわした気分のまま珈琲を傍らに置き、あたしは膝に置いたままのおじいちゃんのノートを開けた。どこまで読んだっけ……
某月八日、大河渡る。水中に大蛇の影あり。
そうそう、これだ。
大蛇の影。
「ねーコジマくん」
「何ですー?」
「コジマくんはさ、河の主って見たことあるの?」
馬車の中は濡れた衣類がカーテンのようにぶら下がっている。その後ろからひょいと顔を出し、コジマくんは首を横に振った。
「無いですよ。そんな簡単に姿を見せてくれるわけ無いじゃないですか。なんたって神の眷属ですからね」
「巨大な爬虫類でしょ……? 蛇とかワニとか、そーゆーの」
「わにって何です?」
そう言って首を傾げ、馬車の中を膝歩きで寄ってくる。読めもしないおじいちゃんのノートを覗き込むと、隣のレオニさんもつられたように覗き込んだ。
あたしはノートに挟んでおいたボールペンを取って、余白に絵を描くことにした。言葉で説明するよりビジュアルで見せた方が手っ取り早い。
もっとも、あたしの美術の成績は三止まりだったけど。
「さっき見たのよ、ネト河で。それっぽいの」
「ああー溺れたときですか? 僕びっくりしちゃいましたよ、人が溺れるときって静かなんですね。あわあわ手を動かしてるなーと思ったらすーっと沈んでって、そのまま出てこないんだもん。泳げない人のことカナヅチって言いますけど、本当に金槌を水に入れたような沈みっぷりで」
「う、うるさいわねぇー」
「コジマさん、ずっと落ち着いてましたけどね。自分はかなり驚きましたよ、あの水竜巻。サトコさんよく御無事でしたね」
「や、ホントだめかと思いました。河に叩きつけられたときなんて手足取れそうでしたもん……でね、そのとき見たの! こーゆーやつ」
あたしの指先はまだかじかんでいて、上手いこと線を引けない。
引けないなりに線を引き、あたしは小さなイラストを二人に見せた。
「ほらこれ。これがあたしを助けてくれたの」
んー、ワニでも大蛇でもなくトカゲみたいになってしまった。横に米粒みたいな棒人間を添えて出来上がり。
いかに巨大な生き物だったか、これで伝わるはず。
「うわーへったくそですねえ」
あたしが描いた渾身のイラストをバッサリ切り捨て、コジマくんはあたしの手からボールペンとノートを受け取った。「ここに描いていいですか?」と裏表紙をめくり、さらさらとペンを走らせる。
「つまりサトコさんが見たのってこーゆーのでしょ?」
おおー、と感嘆の声が上がる。
大きな口に鋭い牙。口元には髭が生え、頭には鹿のような角が二本。大きくうねる長い体に、小さな手足。尖った爪。びっしりと全身を覆う鱗、そしてギョロリと大きな二つの眼。
──“龍”だ。
浮世絵にでも出てきそうな八方睨みの立派な“龍”が、ノートの裏表紙に姿を現したのだ。
「すごいですね、コジマさんにこんな特技があるとは」
「ふふふ、自慢じゃないですけど僕の手先はかーなーり器用ですからね。実を言うと彫刻とかも得意なんですよ、あっもちろんお裁縫も。あーそうだ思い出した、帽子の穴繕わなきゃ!」
あたしはノートから顔を上げ、高鳴りはじめた胸をぎゅっと押さえた。
龍。
河の主。
龍の洲。
神の眷属とコジマくんは言った。河の主がイコール龍神でも、何にも不思議じゃない。
だけどそれが実際目の前に現れるあたり、さすがは異世界だ。不思議と驚きに満ちている。
「でもなんで、こんなすごいのが助けてくれたんだろ……」
「決まってますよ、僕が誠心誠意心を込めて祈願したからです!」
「そうなの? 自信満々すぎるでしょ」
コジマくんは馬車の奥に引っ込むと、今度は魔法のリュックから裁縫箱を取り出した。
不思議と驚きに満ちてるのは世界だけじゃない。このリュックも同じだ。
「でなきゃサトコさんの運がよほど強かったんでしょうね。ラッキーですよ、聞いたことないですもん。河の主が命を取らず、逆に助けるなんて。
たしかに僕はサトコさんのことも併せて祈願しましたけれど、どうしたってメインはコズサ姫の御無事ですから。河の主のご機嫌がよっぽど良かったのか知りませんけど、何にせよ幸運です」
ひいさまを飲まないでくれと、それだけ伝えられればよい──アルゴさんはそう言っていた。
きっとあたしはラッキーだったのだ。コジマくんが言うように。
八方睨みの龍から顔を上げ、視線を美しい水辺に戻す。さっきまであーだこーだと言い合っていたお姫様とその忠実な家臣は、今は穏やかな様子で芝桜の絨毯を踏んでいた。
「仲が良いんだか悪いんだか……」
「そうですねえ……」
呟いたレオニさんの横顔を見上げると、なんだか妙に真面目な顔で──その視線の先にはやっぱり、コズサ姫とアルゴさん。
芝桜の絨毯を歩むコズサ姫が、ゆっくりと立ち止まる。
その前には今まさに咲き誇るミモザの花。
ああ、まるで絵画みたい──
「お二人の間のことは……そうですね。自分には語れません」
姫は背伸びしてミモザに手を伸ばすが、届かない。
代わりにアルゴさんが手折り、手渡した。
受け取って微笑み、声をかけ──アルゴさんはすっと跪き、わずかに頭を垂れた。
「単純な良し悪しでは、ないんです」
跪いたアルゴさんの襟元に、姫は幼い指でミモザの小枝を挿した。
あたたかな光と風。
つややかな黒髪が揺れる。
二人の姿を隠す、黄色とピンクの花吹雪。
あたしは何だか見とれてしまって──
「ぶひゃあっ」
と、可愛くないくしゃみをした。
んもー乙女とは思えません、とコジマくん。隣でレオニさんが笑いを堪えている。
うあー、いやんなっちゃう。
視線を落として恥ずかしいのを誤魔化しながら、あたしは傍らのマグカップを手に取った。珈琲はすっかり冷めちゃってる。
ずずーと啜って一息つくと、姫と騎士がまた歩きだすのが見えた。
黄色の花束と、ブートニア。
桜色の絨毯を踏みながら。
静かに。
ゆっくりと。
何事も──なかったように。




