025:河の主
すべて同時だった。
コズサ姫が振り返り、コジマくんは目を見開き、あたしはぽかんと口を開けた。
さっき舟歌を披露してくれた船頭さんの肩に矢が刺さる。
ぐらりと傾く身体。
何が起きたのかわからない。
困惑の色を目に浮かべたまま──船頭さんは、舟から落ちた。
「伏せろ!!」
アルゴさんが叫び、あたしの身体はレオニさんの手で舟底に押し付けられた。
ひゅんひゅんと矢が飛んできて、ガツンガツンと船体に刺さる。
「アルゴよ、如何する」
鈴を鳴らしたようなお声にコジマくんが「ハッ!」と振り返る。
「ひ、姫様ぁ。いらっしゃるなら、そう仰って下さればいいのにぃ!」
「おおコジマ、久しいのう」
「僕、楽しみにしてたんですよ、姫様とネト河渡しの舟歌聞くの。なんだぁ一緒に聞けたんですね嬉しい、あっでも船頭さんがやられちゃった! 大丈夫かな、どうしよう助けなくちゃ!! 僕行ってきます、これでも魔法医のはしくれですからねっ、人命救助が魔法医の」
「馬鹿者、今出て行ったところで良い的になるだけだ」
コズサ姫の小さな体を自分の体で覆うように、アルゴさんは舟底に伏せている。その頭上を矢がかすめ、舟の縁に突き刺さった。
「ちょっと隊長さん、そんな言い方無いじゃないですかー! さっきの船頭さんを助けなくちゃ。家族のところに帰してあげなくちゃ。何と言われても僕行きますよ! 行かねば男がすたるってもん……」
そう言って立ち上がろうとした途端、とんがり帽子を矢が貫く。「きゃー!」と舟底にへばりついたコジマくんを、アルゴさんは「愚かな……」と呆れたように首を横に振った。
ああ、これは相性が悪いわけだわ……
そうこうしてる間にも矢はガツンガツンと舟を揺らす。ひえぇぇ、もうやだあ。
「どうしますか、隊長。このまましのげるとは思えませんが」
「……」
「遅からず相手は火矢を放つでしょう。舟ごと沈めにかかるはずです」
「……ひいさま」
声をひそめ囁くように、アルゴさんはコズサ姫に問いかけた。
「泳げますか」
「わからぬ」
「泳いでくだされ。馬船まで」
次いでコジマくんに。
「そなたの実力を私は知らぬ。だが仮にも典医どのの弟子だ。河の主の力は借りられるな」
「ええ! ネト河のですか!?」
「ひいさまを飲まないでくれと、それだけ伝えられればよい。できるなッ」
「わ……わかりました、やってみます。仮にも大魔法使いマーロウの弟子ですからね、森羅万象と心を通ずるのは魔法使いの基礎中の基礎、いくらネト河が龍の洲随一の大河でも二心なき真の言葉をもって語りかければ」
「サトコどの」
コジマくんの言葉を遮り、アルゴさんはあたしを見た。
うわああ。
何だろう何言われるんだろう、戦えとか言われるのかしら。ああ無理、それは無理、喧嘩とかしたことないんです!
動揺するあたしの目を、アルゴさんはまっすぐ見つめる。そして曰く──
「舟から下りて頂けるか、サトコどの」
「お……下りる!?」
「ひいさまと馬船まで泳いで頂きたい。我々はあちらの舟を討つ」
「泳……!」
顔から血の気が引くのを感じた。
正直、泳ぎには自信がない。だってあたしの体育の成績は三止まり。それに波立ち流れる中を服着たままって!
「大丈夫、なんとかなりますよ」
「レオニさんまで!?」
「溺れそうになったら力を抜いてじっとしてください。そうすれば浮きますから」
「えええ」
「大丈夫です。信じてください」
渋ってはみせたけど……
わかってる、本当はわかってる。あたしはこの河に飛び込まなきゃならない。
舟にとどまったって足手まといになるだけだし、矢の餌食にならずに済んだところで、火なんかつけられたら手も足も出ないのだから。
あたしはぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めた。
「わかりました。あたし、行きます」
答えるのとほぼ同時に、またしても舟に矢が放たれる。
オレンジ色で、熱い──火矢だ!
それを合図にアルゴさんとレオニさんが立ち上がった。
そしてアルゴさんはコズサ姫を、レオニさんはあたしを「ぐわしっ」と抱え上げ──ぽーん! とネト河に放り込んだ!
ばしゃーん!!
「舵を取れ」
アルゴさんの指示でレオニさんがゴンドラの櫂を握るのと、河にぶん投げられたあたしがもがきながら水面に顔を出すのは、ほぼ同時。
火矢が飛び、河面が波立つ。
コジマくんは両手で樫の杖を握り、舟の真ん中に座った。頭のとんがり帽子には矢が刺さったまんま。
──かけまくもかしこき ネト河の大主よ──
呪文のような神主さんの祝詞のような魔法の言葉で、コジマくんはネト河に語りかける。火のついたゴンドラを中心に、一瞬、水が波紋を描いた。
あたしはコズサ姫の姿を探して辺りを見回す──あっ、いた!
「姫様!」
「大事ないか、サトコどの」
──深き流れの暗きところにおわします ネト河の大主よ──
「あ、あたしは平気です。ちょっと寒いけど……」
「然様か。行こうサトコどの、馬船まで」
馬船の船頭さんは真っ青な顔でへたり込んでいる。そりゃそうだ、仲間の船頭さんは矢が刺さって河に落ちるし、あちらのゴンドラからは火矢が飛んでくるし。
あたしだって、きっと真っ青だ。もう泣きそう。いや、ほとんど泣いてると言っても過言じゃない。
でも泳がなきゃ。
「近づけろ!」
飛んでくる火矢をマントで払いのけ、アルゴさんは舳先に立った。
矢が尽きたのか、襲撃者は弓を捨てて槍に持ち替える。船頭に扮して弓を引いていたもう一人も慌てて櫂を握った。
逃げようとするあちらのゴンドラに、レオニさんはどんどん舟を近づけていく。
目視で5m、4m、3m──
襲撃者は槍を構える。腰を落として穂先を下に。
── 一の小さきもの 名はコズサ エードなる国の王の娘──
ばしゃばしゃと犬かきで、あたしたちは燃えるゴンドラから少しずつ離れていく。
水を吸った服が重くて、腕も足も思うように動かない。わずかに進んでは押し戻され、また必死でもがく。
その繰り返し。
──二の小さきもの 名はサトコ 姓は松尾 異界より参りしパン屋の娘──
水中でバタバタもがきながら、はたとあたしは気付いてしまった。
アルゴさんは剣を帯びていない。よくよく考えればレオニさんも丸腰だ。武器っぽいものといえば、コジマくんの樫の杖だけ。でもこれは使用中。
ど、どうするんだろう……
近衛士二人が丸腰で、しかも槍なんて長いモノを相手に、しかもしかもこちらの足場は燃えていて、これって圧倒的に不利なんじゃないの?
──猛き流れに身を投じ 流されゆくを護りたまえ──
ああだけど、一部始終を見守る余裕はない。
コズサ姫は馬船まであと少し。
あたしもここを離れなきゃ。
泳がなきゃ。
でも進まない、全然進まない、濡れた服があたしを水中に引きずり込む!
「サトコどの!」
馬船によじ登ったコズサ姫があたしの名を叫んだ。
口にも鼻にも水が入って、すごく痛い。
ごめんなさい、ちょっと返事できない……
「泳ぐのじゃ、早う!」
必死でもがくと、視界の隅に火のついたゴンドラが映った。
襲撃者が槍を構える。
アルゴさんは舳先に立ったまま、動かない。
舟が近づく。3m、2m──襲撃者が槍を横に薙いだ!
── 一身以て泰平なさんとの志 叶えたまえ導きたまえと聞し召せ──
その瞬間。
溺れかけているからだろうか。
時が止まったように──すべての動きがコマ送りに、あたしの目に飛び込んできた。
足を薙ぎ払うように迫る槍。
それをアルゴさんは片足で踏みつけた。
膝を曲げ、腰を落とし、大きく跳躍し向こうのゴンドラへ。
誰かがごくりと息を飲む。
襲撃者が持つ槍の柄を掴み、アルゴさんは漕ぎ手を河へ突き落とした。
あっけにとられたように襲撃者はまだ槍を掴んでいる。
驚くほど滑らかな動きで、アルゴさんはそれを奪った。
そして切っ先を相手の喉元に突き付けた。
──すべて一瞬──
だけどその一瞬で、あたしは足を吊った!!
「い……痛い! 痛い、痛たた……」
うそーうそー何でこんな時に吊るの!
あたしは一生懸命、腕を動かした。
進まなきゃ、前に進まなきゃ。
ああー本当どうしよう、信じられない。
水の入った靴が重石みたいに、容赦なくあたしを水中へ引きずり込む。
口と鼻から空気が全部出て、代わりに水が入ってきた。
肺にも。
咳き込めない。苦しい。
助けて、助けて。
あたしの身体はどんどん沈んでいく。
暗くて深いネト河に。
ああ、これはきっと死んじゃう。
あと何分かしたら、あたし絶対に死んじゃう。
──魔法使いマーロウの弟子 名はコジマ 恐れながら畏み畏み申す──
おかーさんごめん……石釜までたどり着けないよ。
お店も継げない。
着衣泳、一度学校でやったのに……ほんとの河だと全然ダメだった。
先にお父さんとおじいちゃんに会ってるね。
本当にごめんなさい。
あたしの身体、探さないで。
きっとふやけて魚たちが突いて食べちゃうと思うから。
……ほら、向こうにはワニもいる。
あたしを食べようと狙ってる。
すごく大きい口、目もらんらんと光って……怖い、角も生えてる。
齧られたら痛いだろうな。せめて生きてる間は齧らないで……
でもワニってとどめを刺す前に獲物を食べるって聞いたような……
……ああもしかしたらワニじゃなくって熊だったかも……
それにあんな鯨みたいに大きいワニならきっとあたしなんか一飲み……
……
……
……えっ、ワニ?
「……!!」
その巨大な生き物は、確実にあたしの“目”を見ていた。
ただの爬虫類ではない、知性のある瞳で。
暗い水の中その全容は見えない。
見えないけれど巨大だということはよくわかる。その瞳の大きさ、きっとあたしの頭よりも大きいはず。
あたしは今まさに鯨に飲まれんとするピノッキオ状態で、なすすべもなく水中に漂っていた。
あああ、おねがい。
あたしを食べないで。
髭の生えた鼻先であたしを突かないで。
遊ぶくらいなら、いっそひと思いに息の根を止めて。
食べるつもりがないなら助けてほしい。
水面まで連れてってほしい。
あたし、まだ、生きていたい!
──ごわあ──
水が鼓膜を震わせ、あたしの耳には確かにそう聞こえた。
巨大な生き物は水中で口を開け、そのように喋ったのだ。
その『一言』が、ネト河を震わせる。
水を動かす。
渦を巻く。
な、何が起きてるんだろう。全然わからない。
あたしの体は河の中に現れた水竜巻に巻き込まれ、ぎゅんぎゅん回転しながら上へ、上へと昇って行った。
目が……目が回る……!
「サトコどの!」
ざばあっ!! と激しい水の音。
そして水しぶき、いや水柱とともにあたしの全身は水面に躍り出た。
水面どころか、空中にまで飛び上がった。
驚愕の声はたぶんコズサ姫。口をあんぐり開けて、こちらを見ている。
燃えるゴンドラの櫂を握ったレオニさんも。
襲撃者の背を踏みつけ、腕を後ろに捩じり上げたアルゴさんも。
皆「えー!?」と言わんばかりの顔であたしを見ている……ただ一人、落ち着いて座したままのコジマくんを除いて。
ばしゃーん!!
あたしの身体は錐揉みしながら着水した。
四肢がもげそうな衝撃のあと、体の中心から手足の指先まで、じぃぃーんと痺れが走る。
助かったのかな……
たぶん、助かったんだ……
力が入らずうつぶせ状態でぷかーと浮きながら、あたしは水中に影を見た。
あたしを助けた河の主。その巨大な長い影が、悠々と泳ぎ去るのを──




