020:ノートとお団子
幌をめくって眩しさに目を細め、あたりを見回す。
そこは美しく整った松並木の道だ。
あたしはノートを閉じて馬車の荷台に引っ込むと、ごろんと仰向けになってあくびをひとつ噛み殺した。
「もぉーサトコさんたら、あくびばっかり……」
「なによぉ、そう言うコジマくんこそ……」
ふあー、と二人で同時にあくび。
寝転んだまま「うーん」と伸びをすると、春の陽ざしが御者台のレオニさんの影を幌に映している。
そう。
あたしたちは退屈していた。
コジマくんもあたしの隣でごろんと転がって、さっきからあくびを繰り返している。だってやることが何もないんだもん。
「サトコさあん……」
「なによう……」
だるそうな声でコジマくんが話しかけてくる。
寝違えた首はもう気にならないみたい。秘伝の薬の効果なんだろうか。
「それ……何が書いてあるんですかあ……」
顔の横にポロンと置いたノートを再び手に取り、あたしは「よいしょ」とうつぶせになった。
表紙をめくると、コジマくんものそのそ這ってきてヒョイと横から覗き込む。
「これ……異世界の文字じゃないですかあ」
「あたしからすれば、ここが異世界だわよ……」
「で、なんて書いてあるんですかあ……?」
この日本語の文字列を見て「異世界の文字」だと言い切れるのは、さすが大魔法使いの弟子ってところなのかな。
けどこれが異世界の文字だとわかったところで、内容まではわからないようだ。
「あたしも解読中……おじいちゃんのノートなんだけど、字が下手すぎて読めないの」
「えー。お師匠様のメモ帳みたいな感じですね」
「マーロウさんも悪筆なの?」
「そりゃーもう! 書いた本人が『コジマや、これは何て書いてあるのかのう』とか言ってるんですから」
へえーと笑って、あたしはノートに視線を落とした。
インクは青く変色している。時々絵みたいなのも描いてあるんだけど……ぐちゃぐちゃの字を眺めていると、頭がぼーっとしてきちゃう。
「ぜーんぜん読めないんですか、一個も?」
「そんなことないけど……なんかね、基本的に一行日記みたい。最初の方はコレ、お店で普通にパン焼いてるっぽいし」
某月五日、今日も忙しい。小銭ばかり増える。
だって──首を傾げ頭を捻って解読した結果が、この何の変哲もない一行日記。
その後も「忙しい」だの「焼き上がり良し」だの、読み物としてはハッキリ言ってつまんないのだ。
眠くなってしまうのも無理はない。
「なんか面白いこと書いてないんですかあ……?」
「そう言われてもねぇ……だいたい何よ、面白いことって」
「たとえば、そうですねえ……先代様のこととか、若い頃のお師匠様のこととか」
もういちどノートに目を落とし、パラパラとページをめくる。
某月二十日、魔法使い来る。
だって。えっ、これだけ?
「魔法使い来る、とは書いてあるけど」
「えー」
「しょうがないわよ一行日記なんだから……」
某月二十一日、魔法使い来る。アンパン。
「あ、二日連続で来てるわマーロウさん。魔法使い来る、アンパン……だって」
「あー、やっぱりアンパンですよね。わかるわかる」
某月二十二日、魔法使い。御供あり、アンパン。
「その次の日は御供を連れてきたみたいよ」
「御供!?」
びっくりしたように、コジマくんは眉をひそめた。
「御供なんて。当時お師匠様に弟子はいなかったはずですよ」
「弟子とは限らないんじゃないの。誰か知り合いとか友達かもしれないじゃない」
某月二十三日、昨日の連れは若様とのこと。
あたしはコジマくんに「弟子じゃなくて若様だってさ」と言おうとして──おじいちゃんのノートを二度見した。
若様?
もしかして、先代の上様の若い頃?
日記にはそのあと『魔法使い』とも『若様』とも書かれない日が続いた。そして月を跨いで何日か後の記述が、コレ。
某月三日、若様より旅の誘い有。断る。
「おじいちゃん、断ったんだ……」
「え、なになに? 何をです?」
某月四日、若また来る。断る。
「若様から旅のお誘いがあったんだって。断ったって書いてある」
「若様!? それ、あれですよね。先代の……」
某月五日、バカ来る、三顧の礼か。困ったことになった。
「先代の上様のことだと思うけど、バカって書いてあるわ」
「げー! サトコさんのおじいさん命知らずなんですね。先代の上様といったら気が短いことで有名で、手に持つ剣はいつでも抜き身、逆らったら一族郎党皆殺しの上さらし首、とかそりゃもう色んな話がある御方なんですよ!」
「あたしのおじいちゃんも気が短かかったわ。おかーさんと取っ組み合いのケンカ、しょっちゅうだったもん。あだ名が“瞬間湯沸かし器”ってくらいでね」
「瞬間湯沸かし器! お湯が? 一瞬で? へえーそんな道具あったら便利ですね! 火を熾すのがまず面倒だし、でもお湯がほしい場面てちょくちょくあるし、かといってご飯作るわけじゃないから我慢しちゃうし、ああーいいなあ瞬間湯沸かし器。お茶を一杯、とか使う時だけすぐ沸かせたらこれは重宝しますよぉ」
おじいちゃんの一行日記はそこで一旦途切れた。日記は途切れたけど、代わりに少し長めのメモが添えてある。曰く──
移動、馬? チャリ可。
行先ファタル、かまど現地で作成か。
「コジマくん、あたしたちの行先って……」
「ファタルの霊廟でしょ?」
そっかあ、おじいちゃん……
時を超えた一致に不思議な感慨が湧き上がり、あたしは遠い日に思いをはせながらノートを閉じた。
続きはまた後で。揺れる中で乱雑な文字を眺めていたら、目が悪くなってしまう。
ところが魔法使いの弟子はもう少し読みたかったのか、ノートを開いて仰向けに寝転んだ。
「見たって読めないでしょ、コジマくん」
「そんなのわかりませんよ。聞けばノートが教えてくれるかもしれないじゃないですかあ」
「ノートに聞く?」
「そう、ノートに聞くんです」
旅の目的地、ファタル──おじいちゃんは当時の若様と旅をして、そこにパン焼き釜を作ったのだ。ノートにはそのあたりのことも書いてありそうだ。
日本列島で言えば日光にあたるその場所、どんなところなんだろう。
「ねえコジマくん、そのファタルって」
「……」
「コジマくん?」
「……ぐー……」
ばさ、とコジマくんの手からノートが顔に落っこちた。
ノートを持ってた手もぼてっと落ちて、とんがり帽子も頭から外れてる。
「なによ、寝ちゃったの?」
顔に被さったノートをどけると、むにゃむにゃ言いながらゴロンとあっちを向いてしまった。どうやら何も教えてもらえなかったみたい。
しょうがないなあ……読めもしない異世界の手書き文字を見てれば、そりゃ眠くもなるでしょーよ。
あたしは体を起こし、馬車の片隅で荷物にもたれた。ノートは膝の上。
お日様に温められて、幌の中は温室のようにあったまっている。あ、まずい。このままじゃあたしまで眠ってしまう。
「換気しよ、換気……」
呟いて伸びをして、幌に映る松並木の影をぼんやり見つめる。
後ろの幌をめくって紐でとめると、涼しい風が入ってきた。前の幌は……めくれば御者台があってレオニさんがいる。
どうしよう。
閉じとこうかな。
いやいや一体何を尻込みしてるんだろう、開ければいいじゃない。
開けて「お疲れ様です」って言えばいいじゃない、ずっと御者してくれてるんだから声くらいかけなくちゃ。
ねぎらいも労りもせずに荷台でゴロゴロしてるなんて論外だ。
「お疲れ様です、レオニさん」
前の幌をめくると、レオニさんはいつものようにニコッと微笑んだ。
「コジマさん、寝ちゃいましたか」
「あ、はい。あれじゃまた寝違えるんじゃないかしら」
「そうですか。疲れたんでしょうね、ずっと馬車ですから」
いえいえ、疲れたんじゃなくて読めないものを読もうとしたからです。
あたしは幌を紐でくくって、レオニさんと会話ができる位置に座り直した。
──とはいえ、話すようなことも特になく──
しばらく沈黙。
気まずい。
あたし、気にしすぎ?
「……あの」
声をかけるのはお互い同時だった。
あらら。これはこれで、また気まずい。
「あ、ごめんなさい。先どうぞ」
「いえ、自分のは大したことじゃないんですが……この先にお団子屋さんがあるんです。寄りませんか?」
「え、あ……はい! 食べます、お団子」
「良かった。それじゃあ寄り道しましょう。コジマさんは……寝かせておきましょうか」
馬車はガタゴト、やがて松並木を抜けた。
道沿いには川が流れ、岸には荷を積んだ舟が行き来している。
その船頭さんたちを相手に商売しているのだろう。街道の両岸には商店が立ち並び、急ににぎやかになってきた。レオニさんが言うお団子屋さんも、きっとこの並びだ。
「レオニさんはこのへん来たことあるんですか?」
「ええ、はい。三年前の例大祭の時、自分もこの道を通ってファタルに御供しました」
「例大祭?」
龍の洲の様子を先代の上様の御霊に報告し、一年間の御加護への御礼と、これからの繁栄を祈願する。
──というのが、“ファタル霊廟例大祭”だそう。
エード王御一家とその重臣たちがそろって参拝し、舞や流鏑馬や花火なんかの神事を行うという。
「流鏑馬ってアレですよね、馬に乗って走りながら弓を射るっていう……あたしのいたところにも有りました。すごい難しいんですって」
「ええ、一歩間違えれば大事故ですからね」
昔ニュースで見たことがある、流鏑馬の事故──矢が的をそれて観客の目に当たり、結局失明したという。
当時子どもだったあたしは、その報道に震えあがったものだ。
「事故になったらまずいから、ものすごく訓練するんだってテレビで見ました。やる人は緊張するんでしょうねえ」
「ええ、ものすごく緊張しましたよ」
「えっ」
「三年前、務めさせて頂いたんです」
そう答えたレオニさんはふと微笑むのをやめ──すぐに前方を向いた。そして手綱をくいと引いて馬車を止め、ひらりと御者台から下りてまた微笑んだ。
「お団子買ってきます。コジマさんにも一本買っときましょう」
あ、はいと返事して──あたしはレオニさんの背中を見送った。馬車の中を振り返れば、コジマくんが丸まってすやすや夢の中。
なんだろう。
レオニさんはお店の軒先で、お団子焼いてるおばあちゃんに声をかけている。
気のせいかな。
あたしの目には、微笑むのをやめたレオニさんの顔がすごく物憂げに見えたのだ。何か嫌なことを考えてしまった、そんな顔。
……理由、聞いていいのかな……
コジマくんならごちゃごちゃ考えず、その場で聞くんだろう。
おかーさんなら何て言うかな。
そういえば山野くんとつきあい始める前、こんなことを言っていた。
『男の人ってさあ、あんまり自分から大変だったこととか言わないんだよね。
とくに“今まさに大変!”って時なんて、絶対言わないんだよ。男らしいタイプほど、だんまりになる。
いい女はそこを上手いこと聞いてやるんだけどね、いやー中々難しいわな』
あたしは別にいい女でも何でもないけれど。
そのうちレオニさんはお団子を片手に戻ってきて、あたしに一本渡すと身軽な動きでまた御者台へ。
「じゃ、行きましょう」
ぱくりとお団子を頬張って、もう片方の手で手綱を操り、レオニさんは馬車を動かした。
聞いてみようかな。
そうだ、お団子食べたらにしよう。コジマくんが起きてくる前に。
三年前の例大祭で、何があったのか。




