序:閉店直前、震度5
「毎度ありがとうございましたー」
言い終わった時にはもう、お客さんはお店の外だった。
今の人が最後みたい。
じゃあそろそろシャッター下ろそうかな。
あたしはシャッター棒を掴み、店の奥で珈琲をすする母の姿を探した。
「おかーさん、もう閉めちゃっていいかな?」
「あーいいんじゃない? 閉めたらさあ、売れ残り持ってきてよ。全部パン粉にするから」
うちはパン屋だ。
小さなパン屋。
駅ビルに入ってるような、洒落てて大きくて焼き上がりに行列が出来ちゃうような──のとはまったく逆。住宅街の住宅に埋もれそうな、古くて小さい町のパン屋だ。
扉の上には古びた看板。かろうじて読み取れる文字は『ブーランジェリー松尾』、これがお店の名前。
一階が売り場と厨房、二階には住居。よくある住宅兼店舗のこのお店、今はあたしと母の二人で切り盛りしている。
「えーでもアンパンとかどうすんの、粉になんないじゃん」
「アンパンを粉にするやつがあるか。あほたれっ」
店長でもあるうちの母、気が強いうえに口が悪い。
もー、そんなんわかってるよ──なんて言い返したら最後、大演説『サトコのあほたれ』が始まってしまう。
やめやめ、言い返すのはやめ。
触らぬ神に祟りなし。
「どんくらい残ってんの、アンパン」
店の奥から声がする。
商品棚に残るのは、アンパン、コロッケパン、レタスサンド、食パンは四枚切りが二袋に、バゲットが一本。その通りに伝えると、母はふうーんと呟いて珈琲をずずずと啜った──ような音がした。
朝も日が昇る前から働き出して、閉店間際のこの時間が数少ない息抜きの瞬間。
シャッターを下ろしたらすぐに夕飯・お風呂だから、パン屋の一日は本当に忙しない。
「じゃーさあ、そろそろほんとに閉めてくるね」
「あら、あんたまだ閉めてなかったの?」
「えええ、だっておかーさんがアンパン……いーよ何でもない、閉めてくる」
そう声をかけ、シャッター棒を掴み直したその時だった。
トングが。
トレーが。
売れ残りのパンが。
店の扉に吊るしたベルが。
──揺れた!!
「おかーさん、地震!!」
「いいからシャッター閉めな!!」
えええ、なんで!?
けっこう大きい地震なのにシャッター閉めろって!
地震の時は避難経路を確保するためドアは全開が基本です、って避難訓練でやったじゃん!
なんて心の中で言い返す間もなく、揺れは激しさを増してくる。縦に揺れてるのか横に揺れてるのかも定かでない。
あたしは思わずその場にしゃがみこんだ。
立ってられないほどの揺れなんて初めてだ。
ちょっと……ちょっとちょっと、これもしかしてヤバイんじゃないの!?
「サトコ、シャッターは!?」
「でも……ちょ、トレー落ちたっ」
「拾うな! ええい、自分でやるわ!!」
店はぐらぐら揺れ続ける。
扉のベルがチリンチリン鳴る。
トングががっしゃんがっしゃん音を立て、商品棚の中身が「さーっ」と右から左へ滑っていった。
その混乱の中、母が厨房からよろめき出てきた──なんだか、鬼気迫った顔で。
「間に合え……間に合え……!」
あたしの手からシャッター棒をもぎ取り店の扉を開ける。そしてシャッターを──
半分下ろし──
──揺れはそこで止まった。母の手も。
「……あ、おさまった」
あたしはほっと胸を撫で下ろした。こわごわと体を動かし、散らばってしまったトレーを重ねる。
けっこう大きい地震だったな……震度5はありそうだった。
ちょっとこんなの久々じゃない?
いや、久々どころか初体験だ。
ああ怖かった、正直びびった、汗かいた……
「ねーお母さん、テレビつけようよ。震源どこだろ、近いんじゃない?」
「……つながんないよ」
「え?」
「つながんないよ、あほサトコ」
母は溜息──それも特大の「ぶへぇぇぇ」みたいなやつを一つ。半分下ろしたシャッターをなぜかまた開け戻ってきた。
その眉間には、深いシワ。
「つながんないよ、テレビなんか」
「……なんで」
「外、見てみ」
親指でくい、と表を指す。
おかーさん何言ってんだろ……停電したってことかしら。
それにしてはお店の中は明るいし、物が散らばった以外におかしなことは無さそうなんだけど。
訝しがりながら、あたしは扉に近づき暗闇に目をこらした。
遠目にぼんやり見えたのは──
「……なあに、あれ?」
「見ての通りだよ。あーあーもう、やってしまった……」
──白亜の城だ。
そう、まさにお城。
どっかのテーマパークみたいな、おとぎ話みたいな、なんかお姫様とかいそうな、ゴージャスなお城。
あたしは目を瞠り、ごくりと息を呑む。
後ろで母が呟いた。
「だから早く閉めろって言ったのに……」
「こ、こ、これは一体、どういう……」
あたしは動揺して噛みまくる。
母は腕を組んで仏頂面。
そして思いもよらぬことを、真顔で告げた。
「サトコ、落ち着いてよく聞きな。私たちはね……異世界にトリップしたんだよ」