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010:コジマくんの歴史講座 一

 遠くで目覚ましが鳴っている。

 止めたい。

 止めたい。

 でも体が動かない。

 体だけじゃない、頭も動かない。

 あーでもうるさい、限界だ、もう止める。

 もう止める、止める、止め……


 ……よし、止めた。


 目覚まし時計は止めたものの二度寝をするほどの眠さでもなく、あたしはもそもそと体を動かした。

 明かりをつけるべくリモコンを探して、暗い中で目を凝らし──部屋の隅にポヤーンと光る何かを見つける。

 ああ、あれはコジマくんが貸してくれた“鬼の眼”だ……後で返さなきゃ。

 部屋の蛍光灯をつけると、眩しさに頭がグラッと痛む。

 やっぱりまだ眠い。

 昨日の疲れが残っている感じ。

 “鬼の眼”を首から下げ、のろのろ支度して厨房に下りると、とっくに母がいて食パンの成形を始めていた。


「おはよー……」

「おはよ。サトコ、あんた昨日粉屋さん行った?」

「……あ。行ってない」

「なぬー?」

「ごめーん……なんか昨日は色々想定外だったんだもん」


 うあー、と大きなあくびが出る。

 食パンの型を出しながらホワイトボードを確認すると、今日はプレーンなパンや甘いパンの中に“何かのパイ”と書いてあった。

 “何かのパイ”って……あ、市場にも行ってない。


「サトコ、粉屋さん今日こそ頼んだからね」

「ん……わかった」

「で、何が想定外だって?」


 プレーンなパンの成形をあたしに任せ、母はミキサーの方へと向かった。

 あたしは食パンの型に生地をどんどん収めていく。


「うん、あのね。会ったんだ……コズサ姫」

「あ、そうなの? よく会えたね」


 生地を詰めた食パン型を発酵室に運び入れ、次はロールパン。冷蔵庫から生地を出してミキサーの方に目をやると、母は小麦粉の袋を傾けてさらさらと中身を流し込んでいる。


「うん……いや、それがね。お城の門は魔法で見えないし、近衛士の隊長さんはあたしを剣で斬ろうとするし」

「なぬッ!?」

「その窮地を助けてくれたのがコズサ姫だったの」


 母は小麦粉の袋を傾けたまま、手が止まってしまった。

 眉間にすっごいシワ。まるでマリアナ海溝。

 あたしはロールパンの生地をくるくる巻いて、プラスチックのケースにどんどん乗せていく。


「……で、あんたそれでどうしたの?」

「うん。メロンパンでお茶してきた。マーロウさんもいたから三人で」

「……あ、そう。よかったじゃない」


 ロールパンのケースも発酵室へ。

 よかったじゃない、と言いつつ母の眉間にはまだマリアナ海溝が刻まれてるし、作業の手は止まったままだ。代わりに、あたしが次の材料をミキサーに流し込む。

 小麦粉の次は、砂糖、イースト、水、塩、バター……


「おかーさん、パイ生地はどうすんの?」

「……ああ、それは後で私がやるわ」

「中身は?」

「冷蔵庫見てあんたが決めて。……それで話の続きは? マーロウさん、何か言ってた?」

「コジマが小麦粉で遊んですいませんだって」

「コズサ姫は?」

「そうそう、それなの。あたしが言いたかったのは」


 ミキサーを動かし、生地を捏ね始める。

 捏ね上げた時の生地の温度も重要で、これは長年の経験がないとわからない。あたしはぺーぺーだから、まだ全然。

 母は横からミキサーを覗き込み、時々指先でつまんでは感触を確かめている。


「コズサ姫ね、メロンパンすっごい楽しみにしててくれてさ」

「ああ、なんかマーロウさんが言ってたね。そんなこと」

「美味しー美味しーって食べてくれて」

「うんうん」

「毎日二つずつ配達して、だって。甘いのと甘くないの、一つずつ」


 母はミキサーを止め、目をまん丸くしてあたしを見た。

 眉間のシワが取れている。


「すごいじゃない。お姫様相手に営業してきたの」

「いや、営業したっていうか勝手に注文が入ったっていうか」

「やるじゃんサトコ。店、繁盛しちゃうんじゃない? 王室御用達パン屋だよ」


 お花畑な発言が昨日のあたしとまるっきり同じで、ちょっと笑ってしまう。

 なんというか、親子だなあー。


「でもさ、毎日十斤くらい納品しないと王室御用達とは言えないんじゃない?」

「何言ってんの。塵も積もれば山となる、千里の道も一歩から、昔の人は良いこと言うわあ」

「えー、浮かれすぎでしょぉ」

「そんなこと言って、あんたも少しは浮かれたんじゃないの?」


 ずばり言い当てられ、あたしはほんのり赤面した。

 まぁその通りなんですけど。

 さっきとは打って変わって、母はうきうきとパン生地を運んだり丸めたり、ついには鼻歌まで出てくる始末。


「まさか注文を受けてくるとはねぇ……守衛さんに挨拶してサンプル渡すくらいがいいとこだと思ってたのに」

「あたしだってたまには活躍するってことですよー」

「ほんと、いつまでも子どもだと思ってちゃいけないってことだわ。自分ちに就職ったって、一応社会人だもんねえ」

「一応、じゃなくて正真正銘の社会人!」

「あはは、そうだそうだ。同い年のコズサ姫なんてご結婚だもの、うちのあほたれも大人になるわけだ」


 あっ、とあたしは母の方を見た。

 洗面器より大きいボウルと小麦粉、それにバターの塊を出してきたってことは、これからパイ生地に取り掛かるんだろう。


「あのさ、それなんだけどね」

「あーん?」

「コズサ姫、子どもだったよ」

「あん?」

「十八歳には違いないみたいだけど、見た目十歳くらいだった」


 母の眉間にまたしてもマリアナ海溝が出現した。

 ステンレスの薄い板をボウルに突っ込んでバターをカットしながら、何言ってんのあんたと言わんばかりの顔でこちらを見る。


「何言ってんのあんた」


 あっ、本当に言った。


「見た目は子ども中身は大人なんて、漫画やアニメじゃあるまいし」

「でもおかーさん、ここ異世界だよ。魔法使いも龍もいるんだよ」

「そりゃまあ、ねえ」

「見た目は子ども中身は大人のお姫様がいたって、おかしくないんじゃない?」


 バターの粒を小麦粉とすり合わせながら母は首を傾げている。

 たしかに、聞いただけじゃすぐには信じられないだろう。実際見てみないと。


「そりゃまあ、そうだけどさ……なんで子どもの姿なわけ?」

「そんなのあたしにはわかんないけど」


 パイの中身はどうしよう。昨日は果物を調達できなかったし……

 あたしは冷蔵庫を開けて中を確認した。

 そうだ、パイは甘いものと決まっているわけじゃない。これにしよう、ジャガイモと玉ねぎと、それからベーコンを少し。

 材料を抱えて戻ると、母はステンレスの板を大きなヘラに持ち替えたところだった。そのタイミングを見計らって水を渡すと一気に流し込み、手早くまとめていく。


 早いなあ。


 パイ作りを教わったのはもうだいぶ前。一昨年のバレンタインの時だった。

 その時言われたのが『絶対に捏ねないこと』と『くれぐれもバターを溶かさないこと』。

 でもあたしが作ったパイ生地は全然サクサクにならなくて、結局母が作った生地をわけてもらったのだ。その時作ったたくさんのチョコパイのうち一つを『余ったからあげる!』なんて言いながら山野くんに渡して……

 あー、やめやめ。

 今は仕事中!


「もうすぐお嫁に行くっていうのに……子どもじゃ結婚できないじゃないの。どうすんだろうね、いったい」


 母はラップで包んだパイ生地を冷蔵庫にいれながら、一人でぶつぶつと喋っている。

 あたしは気を取り直して、パイの中身づくり。ジャガイモの皮を剥き、ざくざくと角切りに。水を張った小鍋に入れてガス台へ。


「お相手は年下だとか言うけれど、当の本人が子どもになっちゃったらねえ……だいたい子どもじゃあ、結婚したところで赤ちゃん産めないじゃないの……ね、ちょっとサトコ聞いてんの?」

「……えっ、今のあたしに話しかけてたの?」

「あんた以外誰がいるの」

「僕、僕、僕がいるじゃーないですか! おはよーございまーす店長、サトコさん!」


 うわっ出た!

 あやうく小鍋をひっくり返しそうになる。

 話の流れをぶった切って登場したのは、うちの押しかけアルバイト。今日もキラッキラの笑顔が眩しい。

 まだ昇ってない朝日みたい……目が、目が眩む……!


「……コジマ、あんた何時だと思ってるの」

「朝の五時です!」

「そんな時間から出勤するレジ係があるか、二時間早いわ!」


 母とコジマくんの掛け合いを聞いてるヒマがあったら、作業を進めなきゃ。

 もいちど気を取り直してパイの中身の続きに戻る。粉吹き芋を作ってる間に、ベーコンをカット。


「だって店長、春の朝の爽やかなことったら! だんだん空が白んできて遠くの山が朝焼けに光ったり、雲が細く流れていったり、僕それを見てたらワクワクしてきちゃって!

 よーしやるぞーみたいな気分になるんです。春はあけぼのっていうじゃないですか!」


 枕草子じゃあるまいし。なーんて思って見ていたら、魔法使いの弟子はとんがり帽子を脱いで杖と一緒に売り場の方へ置きに行った。

 店……まだ、開けてないんだけど。

 シャッター下りてるんだけど。


「……だいたいコジマくん、どーやって入ってきたの?」


 ベーコンをバットに移して玉ねぎの皮を剥きはじめると、厨房に戻ってきたコジマくんは「ふふん!」と得意げな顔で持参したエプロンをつけて袖を捲った。

 もしかして手伝うつもりなんだろーか。


「やだなあサトコさん、僕これでも魔法使いですよ。

 シャッター下りてたって鍵が閉まってたって、大した問題じゃありません。大事なのは入れてもらえるかもらえないかです。この店は僕を入れてくれたってことですよ」

「どーゆーこっちゃ」


 苦い顔でそう言ったのは、もちろん母。


「鍵もシャッターも意味ないんじゃ、どうしようもないわ。それになんだ、その可愛らしいフリフリのエプロンは」

「もちろん決まってるじゃないですかっ」


 コジマくんはにっこり笑う。玉ねぎの皮をぺろーんぺろーんと剥きながら。

 うわーいつのまにか手伝い始めてるよ……


「僕、このお店で修行して、アンパンを家で作れるようになりたいんです!」

「そんなん初めて聞いたわ」

「えー!」

「サトコ、あんた知ってた?」


 こっちに話を振らないでよ……と思いながら、あたしは玉ねぎをざくざく刻んだ。

 知らないわけではなかったけれど、ちょっと煮え切らない返事になってしまう。


「知らないってゆーか、そうねえ、えーっと……はっきりとは聞いてないっていうか」

「サトコさんひどい、僕一番初めに言ったじゃないですか! 自分でアンパン作れるようになって、お師匠様を喜ばせたいんですよう!」

「だ、だってあの時は」

「あの時は、何です!? 僕はいつだって嘘は言いません、言うのは本当のこと、本当の気持ちだけです!」

「んもー、ほんっと人の話聞かないんだからあ。コズサ姫もそう言ってたよ!」


 あたしの口からその名前が出た途端、コジマくんが静かになった。

 真っ赤なほっぺを膨らませてプンプン言ってたのに、驚いたような顔であたしを見る。それから声のトーンを落として一つ訊ねた。


「……お会いになったんですか? コズサ姫」


 あたしが頷くと、魔法使いの弟子は妙に真剣な顔になった。

 フリフリエプロンが場違いにみえるくらい、真剣な顔。

 そしてまた訊ねた。


「じゃあサトコさん、見たんですね」

「な……なにを?」

「姫の御姿です」


 あたしは玉ねぎをバットに移す手を止め、母と顔を見合わせる。

 コジマくんは怪談話をする時のような低い声で、こう続けた。


「サトコさんがお城で何を見たか……外で言ったら絶対ダメですよ」

「どうして……」

「箝口令が敷かれてるんです」


 ごくり、とあたしは息を飲む。

 隣の母を横目で見ると、眉間に三度(みたび)のマリアナ海溝。


「コジマ……それ、言ったらどうなるの?」


 母の問いかけに、コジマくんはこう答えた。

 低い声のまま。

 フリフリエプロンのまま。


「言えば戦になります」


 厨房はしばらく静まり返っていた。

 あたしも母も次の作業に移れずに、口をうっすら開けて突っ立っていた。ジャガイモの小鍋が沸騰する、ぐらぐらという音だけが静かに聞こえてくる。

 なんか……なんか、いやだ。

 平和なパン屋の日常が崩れていくようで。

 指の間から零れていくようで。

 そう、まるで小麦粉のように──サラサラと。




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