108:恋
姫様、どうしたの急に。
目を丸くするあたしの横でコズサ姫は怒りに頬を染め、のたまった。
「ったくアルゴのやつめ、勝手に辞官しおってからに! どう思うッ、サトコどの!」
「へっ!? え、ああー……お怒りごもっとも」
「であろう!?」
なるほど、そっちかあ……
姫様はぷりぷりしながら湖の方へと視線を向ける。
空の御櫃を引き上げたコジマくんがマーロウさんに手を振った。レオニさんがそちらに会釈し、赤ちゃんを抱いたアルゴさんも振り返る。
平和そのものの景色の中でコズサ姫だけが膨れっ面だ。
「西への道中で何があったら、あのばか如何するつもりじゃ。賊の凶刃にわらわが斃れたらなんとする。『残念なことで御座います』とか何とか抜かして、アッサリ諦めるとでも申すのかッ」
「ええー……いや、それはないと思いますけど……」
「己が不在にてわらわが死んでも構わぬのじゃ。鬼も消えたしここらで一区切り、あとは悠々自適を決め込むつもりであろう。再士官の話がポロリとも出ぬのはそういうことじゃ、これより先は別の人生、自由気ままに生きるつもりなのじゃ!」
「いやいやいや、アルゴさんに限ってそんなことは」
「あれを見よサトコどの、赤子を抱く姿が妙にサマになっておる。ほとぼりが冷めたら何処ぞで妻を娶り、子を産ませ、ああやって抱いてあやして人並みの人生を送るつもりなのじゃ! これが許せようものか、いや許せぬッ!!」
ばしっ、と姫様は小さな拳で自分の膝を打つ。
「べつに『役目と添い遂げよ』とも『一生独りを貫け』ともわらわは言わぬ、近衛士であろうが何であろうが所帯を持つなら持てばよい──しかしあやつだけは別じゃ。許せぬ。どうしてもッ」
「どうしても」
「どうしてもじゃッ、どうしても……いや、もちろん横暴であることはわかっておる。あやつの生き方はあやつが己で決めればよいし、わらわがどう言おうが好きにすればよいと、よっくわかっておる……」
「でも嫌なんだ」
「嫌じゃッ」
柳眉を逆立て、頬を紅潮させ、眉間にシワを刻み、コズサ姫は唇を戦慄かせる。小刻みに。
「見知らぬ女とアルゴのやつが肩を並べて歩くのが嫌じゃ。誰かわからぬ女を褒めたりなんだりするのが嫌じゃ。わらわの知らぬところでわらわの知らぬ女の機嫌をとるのかと思うと虫唾が走るッ、考えとうも無い!」
「でも考えちゃうんだ」
「わらわがいなくなってみよ、あやつあっというまに所帯を持つぞ。妻ができれば次は子じゃ。あやつは絶対に、絶対に、絶対に、子煩悩じゃ、絶対に! 思い返すまでもない、エードの城とて物陰からあやつをチラチラ見ておる女はおった、それも一人や二人ではない、もっともっとおったのじゃ!」
「ええー……うーん、でもそれって姫様の考えすぎ」
「考えすぎではないッ!!」
そういえば姫様が自室の箪笥から龍の通路に転がり落ちたのは、もとはこういうやきもちが原因だったっけ。ああ、そう思うと感慨深い──コズサ姫がやきもち焼きでなかったら、あたしの龍の洲での日々もだいぶ違ったことだろう。
「そうなれば、あやつはその者らを守るであろう。わらわの為ではなくその者らの為に剣を振るうのじゃ。そうなればわらわはどうなる、のたれ死にじゃ!」
「そんなことないですってばあ」
「あるッ」
もしもあのとき、コズサ姫がやきもちを焼かなかったら。
姫様は子どもにはならず、マーロウさんはお城に呼び出されず、退屈したコジマくんがお店にバイトに来ることもなく、レオニさんは“お客さん”のまま、あたしたちは互いの名前も知らず──アルゴさんはそのまま、御輿入れのときまで務目に専念したのだろう。
色んなことを、自分の胸一つに仕舞いこんで。
「あやつ、わらわのことなぞ直ぐに忘れるッ。直ぐに忘れて思い出しもせぬであろう! なーにが『生涯ただ一人の主』じゃ、勝手に辞官しておきながら! わらわがそれを知ったとき、どんな気持ちであったことか!!」
エードの近衛隊長を辞した理由も、きっとずっと、秘密にしておくのだろう。
コズサ姫はまだまだ言い足りない様子でお手々を拳に握っている。あたしは言われ放題のアルゴさんが少し、いやだいぶ気の毒になってきた。
「だったらその気持ち、アルゴさんに直接ぶつければいいじゃないですか」
それでお二人でとっくり話し合えばいいじゃないですか──すると姫様、きょとんとあたしを見て瞬きした。
だけどすぐに、その顔を小さなお膝に埋めてしまった。
それから消え入りそうな小さな声で、
「……言えぬ」
と弱々しくしくかぶりをふった。
「言うたところでどうなる……わらわの醜い心のうちが知れるだけじゃ」
「醜いってそんな」
「ひとの幸せを願えぬ、狭量な心が知れてしまう」
「えぇーだからもう、考えすぎですって」
「サトコどの、わらわは……」
もごもごと姫様は言い淀む。
「……あやつにだけは、嫌われとうない」
きゅーん……とあたしの心のどこかが音を立てた。
あっ今のはサトコどのなら嫌われても構わぬという意味ではないからの! と慌てて弁解する姫様に、あたしは思わず抱きついた。
なんじゃなんじゃ、と今度はコズサ姫が目を白黒させている。
「アルゴさんが姫様のこと嫌いだなんて! 言うわけないじゃないですか!」
「な、なんじゃ。言うたら後が煩いからか?」
「違くって、そうじゃなくって。そんなふうに思ってること嬉しいはずですからっ」
「斯様にどろどろでもか?」
「誰だってそうですよ恋してるんだもん!」
まるで電流が走ったように──小さな体が、ぶるっと震えた。
ざわ、と風が吹き抜ける。
「……恋、というのか」
枝葉が揺れて光が乱れ、あたしは眩しさに目を閉じた。
「この得体の知れぬ気持ちは、そのような名であったのか」
風がおさまり瞼を開く。
妙にすっきりした表情で、エードの姫が呟いた。さっきまで見せていた怒りも、やきもちも、自己嫌悪も、どこにも無い。
長年の疑問が晴れたようなサッパリした表情で、コズサ姫はもう一度湖の方へとその美しい眸を向けた。
「あやつを想えば嬉しく、苦しく、言葉を交わせば楽しく、つらく……ひとたび触れればちょっとでは気が済まぬ。
手足も使うてしがみつかねば気が済まぬ。
二人でいれば心が浮き立ち、他の誰かといるのを見れば腹が立つ。
何ぞやと思うておったが、そうか──恋というのか」
その視線の先に、あたしも目をやった。
アルゴさんは波打ち際で立ち止まり、マーロウさんに赤ちゃんを渡してうーんと伸びをする。湖を渡る冴えた空気を吸い込んで、ふーっと吐いて。コジマくんがまた何か言ったのか、そのおでこを軽く小突いた。
覗いた横顔は笑顔だった。
「一生ぶんの恋であった」
噛みしめるようにコズサ姫は繰り返す。
それからゆっくりと立ち上がった。
「わらわは、一生ぶんの恋をした」
確認するようにもういちど呟いて、にっこりと微笑んで。
斜面の向こう、湖の畔、佇むあの人の名を呼んで。
「アルゴ!」
振り向いたアルゴさんが一つ頭を下げて目礼し、コズサ姫は駆け出した。
弾むように。
はじけるように。
わあッと歓声を上げ、衣裳の裾をひるがえし、つやめく黒髪をなびかせて。
──そのとき奇蹟が起きた。
小さな体が光を放つ。
髪が、手足が、背丈が、一歩駆けるごとに伸びていく。
ふわりと膨らみを帯びる。
華やいで。
煌めいて。
生命を爆発させ、コズサ姫は駆けていく。
十年の歳月を駆け抜ける。
ほどけゆく魔法の欠片をふりまいて、あたりを金色に染めながら。
「アルゴ!!」
アルゴさんが目を瞠り、コズサ姫はその胸に飛び込んだ。全身でぶつかった。
ちょっと触れるだけでは気が済まぬ。手足も使うてしがみつかねば気が済まぬ──その言葉通り、体ぜんぶで抱きついた。
スローモーションで二人は水際へと倒れ込む。
大きな水しぶき。笑い声。
「ひいさま」
「うんッ」
「ずぶ濡れですぞ」
「構わぬ」
「泳ぎまするか、このまま」
うん、と頷く美しいひとの影に、アルゴさんの腕が伸びる。
あたしは咄嗟に目を逸らした。
見たらダメだと、誰に言われたわけでもないのに。
あーあーしょうがないなー僕お召替え持ってきますからね、あっでもサイズがあるかなぁ──ふぉっふぉっふぉっ、御子がおねむのうちにワシは御暇しようかのー。
魔法使いたちの声に混ざって、ざわざわと草を踏む音がする。
「サトコさん」
「……はい」
「魔法、解けてしまいましたね」
草を踏んでやってきたレオニさんの隣で膝を抱えて、あたしはそこに顔を埋めた。
「あ、あたし……また余計なことを……」
姫様の魔法が、解けてしまった。
「それは恋だ、って、言っちゃったから」
元の姿に戻ってしまった。
「姫様の気持ちに、名前つけちゃったから……だから姫様、満足しちゃったんです。すっきりしちゃったんです」
「……サトコさん」
「言わなければ良かった。教えなければ良かった。そしたら姫様、アルゴさんとずっと一緒にいられたのに。どこにも行かずに済んだのに。魔法が解けちゃったら、もう、さよならするしか」
「サトコさん」
肩に温かい腕が回されて、あたしはぐしゃぐしゃの顔を少しだけ上げた。
レオニさんはあたしの肩をそっと抱きながら──だけど無理に引き寄せるでもなく、本当に控えめに──小さな声で呟いた。
「ありがとう、サトコさん」
それがどんな意図だったのかは、聞きそびれた。
レオニさんの気持ちなのか、それとも誰かの代わりに言ったのか、あるいは只あたしを慰めるためだったのかは、わからずじまい。
あたしはもう一度、湖の方に目をやった。
アルゴさんの腕はコズサ姫をしっかり抱いていた。
細い背中が折れそうなほど。きつく。きつく。
十年ぶんの抱擁を受け、白い指先がうっとりとそれに応える。
二人は抱き合ったまま、どちらからともなく笑いはじめた。それから踊るようにくるくる回った。
幸せ。
いま、すごく、幸せ。
世界中にそう叫ぶように。
「これでいいんです」
目元をぬぐい、あたしは小さく頷いた。
これでいい。
そうだ、これでいい。
ここにいるのは、あたしたちだけなんだから。
責める人はいない。
咎める人もいない。
幸せそうに踊る二人を、邪魔する人は誰もいない。
ふたりは恋人。
今だけは。




