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009:ミモザ通り

 いつの間にか頭上は満天の星空で、あたしはうっとり息をついた。

 なんて綺麗。素晴らしい夜。

 コズサ姫御用達の看板を掲げて繁盛しちゃうブーランジェリー松尾──なんて幸せな想像をしながら、エード城大門前の石段をうきうきと下って行く。


「先ほどの非礼を詫びさせてくれ」


 だけど浮き足立つのを戒めるように静かな声が聞こえ、容赦なくお花畑から現実に引き戻されてしまった。

 近衛隊長アルゴさんは振り返らない。あたしの数歩先に、引き締まった後ろ姿。


「あー……お仕事ならしょうがないですよ」


 あたしがそう返した後は会話無し。

 ……うーん……なんか、気まずさに息が詰まりそう。

 まあでも仕方ないのかな。

 今までこういう無口な人と、というかそもそも大人の男の人と、話したことがほとんどない。あったとしても、せいぜい学校の先生かお店のお客さんかってとこ。

 とは言っても学校はずっと共学だったし、いちおう彼氏だっていたことがある。男性全員に免疫がないわけじゃない。

 けれどこんな険しい雰囲気の人、いなかったからなあ……

 この沈黙、どうすべき?

 黙っているべき?


「馬は乗れるか」


 石段を下りきり、あたしたちは城門まで戻ってきた。来たときには隠されていたあの城門だ。

 そこに一頭、馬が引かれてやってくる。

 きっとあれで送ってくれるんだろう。あたしは星明りに目を凝らし、馬を引いてきた警備の兵隊さんと一瞬視線が重なって──


「あっ」

「あれ、たしかパン屋さんの……」


 声が出たのはほぼ同時。

 わああ。

 この人うちのお客さんだ。例の、銀色の硬貨を出したわりとイケメンの!

 向こうもあたしに気づいて目を瞬いている。ほんの少しとはいえ知ってる顔に会えてちょっと嬉しい。気まずい沈黙の中だったから尚のこと。


「知っているのか」


 アルゴさんが訊ねると、兵隊さんはカチッと踵を合わせて姿勢を正した。


「市場の前にあるパン屋の娘であります」

「なるほど」

「送るのでしたら、自分が」

「……」

「いかがいたしましょう」


 アルゴさんは「ふむ」と呟き、あたしを見て──兵隊さんを見て──「んっ?」と小首を傾げた。

 妙にかわいい角度のまま「送りたいのか」と呟いて、またこちらを向く。

 それから小銭を一枚出して、あたしの手に握らせた。


「先ほどの代金だ」

「あ、すいません……ありがとうございます」

「ひいさまのわがままに付き合わせて、済まないな」

「いえいえそんな、こちらこそお茶なんか頂いちゃって。よろしくお伝えください」


 アルゴさんは「うむ」と頷き、それから馬に乗るようあたしに促した。

 ──もちろん馬なんて乗ったことがないわけで。

 足を上げたって届きやしないし、鞍を掴んでもずり落ちる。(あぶみ)に足をかけて飛び上がれって言われたけど、爪先さえもかからない。

 そういえばあたしの体育の成績は残念ながら三止まりだった……もう、なんてブザマなんだろ。顔から火が出そう。

 結局アルゴさんと兵隊さんの二人に下から押し上げてもらい、それはそれは恥ずかしい思いをしながら、あたしはやっとのことで馬上の人となった。


「す、すいません、お手数おかけして」

「いや、良い。気にするな」


 その時やっと、あたしはまともにアルゴさんの顔を見た。

 いくつなんだろう、この人──うちのおかーさんより年下なのは間違いない。実はけっこう若いんじゃないかしら。

 こちらを向いた茶色の瞳が思ってたよりずっと優しげで、あたしはマーロウさんの言葉を思い出した。

 ──アルゴ隊長はの、怖い人ではないからの──

 うん……初対面はアレだったけど、案外普通の人なのかも。

 怖がることないよね。

 そもそもあたしは悪いことなんてしてないんだから。


「サトコどのと申したな」


 慣れない鞍の上でお尻の位置を決めかねているあたしに、アルゴさんが声をかけた。


「先に言っておこう」

「はい」

「そなたが城に出入りすること、私は良いとは思わない」

「……」

「万が一ひいさまの御身に何かあれば、新参のそなたが真っ先に疑われる。心しておけ」


 ……やっぱ充分怖いじゃん!


 あたしは心の中で呟いた。実際の返事をする前に、馬の背がぐらりと動く。

 出発だ。


「それでは、お送りして参ります」


 アルゴさんはまた「うむ」と頷いた。兵隊さんが手綱を握って先を歩き、馬を引く。

 あたしはなすがまま左右に揺れながら、城門をくぐって橋を渡った。お堀の向こう岸が近づき、一度だけ振り返ると──

 アルゴさんはまだ城門のところにいて、こちらをじっと見つめていた。

 あたしは小さく会釈したけど、あちらは微動だにしない。

 馬の背中で揺れてるから、わからなかったのかもしれない。


「お名前、サトコさんというんですね」


 兵隊さんの声がして前を向くと、ちょうど橋を渡りきって馬はお堀の向こうに到着した。

 そしてあの城門は──来た時と同じように、見えなくなった。


「……あ、ええ。はい。松尾サトコっていいます」

「自分はレオニといいます」

「レオニさん」

「はい」


 何かと縁のある、わりとイケメンのレオニさん。こちらを振り向いてニコッと笑った。


「詰所で噂になってましたよ。不審者が出たって」

「えっそれ、もしかしてあたしですか?」

「交代前に日勤の近衛士がそう言っていました。隊長が久々に剣を抜いたと」


 えーあれ久々だったんだ。

 鼻先に迫った刃の鋭さを思い出し、思わずひとつ身震いする。


「あたし、剣なんて見たことなかったから……もう毎日のように切り捨て御免してるもんかと思いました」

「ははは、そうですか」

「そうですよー」


 レオニさんは「ははは」と軽やかに笑い、あたしは内心ほっとしていた。

 馬の綱を引くのがアルゴさんだったら?

 きっと今頃どちらも無言で、あたしは家までの道すがら「喋ろうか喋るまいか、いやそれとも」とモヤモヤし通しだったに違いない。

 うわー絶対やだ。


「人を斬るなんて、そんな物騒なこと滅多にありませんから。安心してください」

「あ、そうなんですか?」

「ええ。戦の時なら別ですが、終わってこの方平和なものです」

「でも、それにしちゃピリピリしてましたよね」

「隊長ですか?」

「そう、アルゴさん」


 するとレオニさんはちらっとこちらを振り向いて、あたしを宥めるように微笑んだ。


「それもコズサ姫のお輿入れまでですよ」

「どうして?」

「姫君のご結婚を快く思わない向きもありますから、それで隊長も気を張ってるんでしょう」


 政略結婚なのかな。

 頭の中にその言葉がよぎった途端、胸のあたりがちくりと痛む。

 現代日本では──いや、日本に限らず世界中のどんなやんごとなき御方だって、きらめくような恋をするのに。

 そして、その相手と結婚するのに。


「……なんか気の毒ですね、コズサ姫」

「どうしてですか?」

「だって、結婚ですよ。女の子の夢ですよ。

 世界一好きな人と一緒に、世界中の人から『おめでとう』って言われたいじゃないですか。なのに快く思わない向きって……」


 ミモザの並木道を、馬は行く。

 黄色い小さい毬みたいな花。甘くてさわやかな香り。春の匂い。

 春は恋の季節だっていうのに。

 あのお姫様は恋をしたことあるんだろうか。


「……どうでしょうね、自分には何とも言えません。姫君は天下泰平のためにお輿入れするんです。西の大王(おおきみ)とご一緒になられれば、エードだけでなく東西南北すべてが泰平の世になります」

「……」

「だからお守りせねばならぬのだと、隊長は言っていました」


 西の大王(おおきみ)、だって。

 おおきみ。

 口の中でおおきみおおきみと呟きながら、あたしはコジマくんの小麦粉地図を思い返していた。

 西の大王(おおきみ)

 西の都。

 コジマくんは確か言っていた──行ったことないですけど、すっごく雅な都会なんですって。こんどコズサ姫がお輿入れするのもこっちです。

 そう言って魔法使いの弟子が指さしたのは──日本で言う、京都、の位置だった。


「ねえレオニさん。昔戦争してたって……もしかしてその西の大王(おおきみ)と、じゃないですよね」


 政略結婚なら、いかにもありそうな話。

 和平のためにかつての敵国の王様と結婚。古今東西そんなエピソードで溢れている。

 あたしは高校出たら自分ちに就職だったから、学校の勉強って必死にやらなかったけど……でも歴史の授業はけっこう好きで、そこそこちゃんと聞いていた。

 資料集に載ってた勢力者の家系図があちこちで繋がってたのを覚えてる。テスト前に友達が「人類みな兄弟だわ、えげつなー」って言いながら暗記に励んでいて、笑ったことも。


「もし戦争してた相手のところにお嫁に行くんなら、やっぱ可哀そうですよ。遠いし、一人で行くんでしょ? 親もいなくて友達もいなくて、昔の敵は今の敵! とか言われて姑とか小姑にいびられたりしたら……」

「そんな、庶民の娘じゃないんですから。それにエードは西の大王と戦をしたわけじゃないですよ」


 昼ドラみたいなあたしの発言に、レオニさんはふふっと笑う。


「西の大王はどことも戦なんかしません。西の大王はすべての王の上に立つ御方ですから。

 エードの戦の相手は、各地の他の王ですよ。エードは戦に勝ち、西の大王を戴いて天下を握り、敗れた他の王を従えることになったんです」

「へえー、なんか戦国時代みたいですね」

「なんですか、せんごくじだいって」


 戦争が終わっててよかった。

 もしトリップした先が戦国時代なら、パン屋の営業はとてもじゃないけど無理だ。

 ご先祖様は大丈夫だったのかな。徴兵されて従軍するハメにでもなってたら……そしたらあたしは生まれていない。ということは戦に巻き込まれたご先祖様はいなかったんだろう。よかったよかった。


「あたしがちょっと前までいたところも、大昔はそんな感じで戦争ばっかしてたみたいです。権力者はみんな、天下統一のために戦ったって」

「なるほど、偉い人が考えることはどこも同じなんですね」

「ねっ。政略結婚とか人質とか、大変だったって習いました」


 そんなことを話してるうち、ちょっと見覚えのある一画に来た。

 明かりが灯った店々の軒先にテーブルや椅子が出され、飲んだり食べたりのお客さんで賑わっている。

 ああこれ、市場だ。

 時計を見ると夜の八時。

 昼にあれこれ売ってた屋台はもう閉まってるけど、代わりに他の屋台が食べ物を提供して、ちょっとした盛り場になっている。

 母がデパ地下みたいな場所って言ってたけど、たしかにそんな感じだ。

 けれど日本の駅前に比べるとやっぱり全然暗くって、女の子の一人歩きはちょっと危なそう。


「もうすぐ着きますよ」


 レオニさんの言葉にあたしは視線を巡らせた。

 ああ、あった。ブーランジェリー松尾。

 店の明かりはまだついていて、扉の前にしゃがんで待っている人影ひとつ。

 あたしのおかーさん。


「おかーさん!」


 思わず大きい声が出る。

 母はハッとしたようにこちらを向いて立ち上がった。


「サトコ!」

「ごめん、遅くなっ」

「何時だと思っとるんだ、このあほたれ!」


 あ、やっぱり怒られた。

 レオニさんに手伝ってもらって馬からずり落ち、もとい馬から下りると、母がこちらに駆けてくる。


「まったくもう、心配かけてこの子はっ」

「ごめんねおかーさん色々あって」

「あんたの言い分は後で聞くわ。……すいません、なんだか送って頂いちゃって」


 母はレオニさんにぺこりと頭を下げる。

 レオニさんは両手を顔の前で左右に振ると、同じように頭を下げた。


「いえ、遅くまで引き留めてしまったのはこちらですから。お送りするのは当然です」

「すいませんねぇ、ほんと。……あ、ちょっと待っててくださいよ」


 母はバタバタと店に戻り、しばらくするとまた出てきた。

 どうやらコジマくんはもう帰したみたい。

 バッグを見ると白い“鬼の眼”がポワーンと光っている。おっかない名前のわりに優しい光だな……なんて思ってるうち、母が戻ってきた。

 手には紙袋を抱えている。


「これ、今日の残りなんですけどね。よかったら皆さんで休憩中にでも召し上がってくださいな」

「そんな……」

「いーんです、いーんです。パン屋にできるお礼って言ったら、これぐらいしかないですから」


 すみません、と遠慮しながらレオニさんはまた頭を下げた。

 頭を下げ合う二人の後ろで、あたしを乗せてきたお馬さんがぶひぶひ言っている。早く戻ろうぜ、とでも言いたげに。

 レオニさんは「それでは失礼します」と一礼して、ひらりとその背に跨った。

 おお、なんて身軽。かっこいい。


「ありがとう、レオニさん」

「いいえ。あなたと話せて、自分も楽しかったですよ」

「え」

「また勤務明けに寄りますから。おやすみなさい、サトコさん」

「え……あ、はい。おやすみなさい」


 にっこりと微笑んで──エード城の近衛士レオニさんは、暗い大通りを戻って行った。

 なんか。

 なんだろう。

 ちょっとどきどきしちゃったんだけど。

 気のせい?


「……まっ、社交辞令でしょ」

「ちょ、あたし何にも言ってないんですけど!」

「もーホッとしたら気が抜けちゃったわよ。ああー疲れた」


 母は両腕を高く伸ばしてうーんと唸り、それから大きな欠伸をした。

 ……学校通ってたころは部活やなんかで帰りが遅くなっても、何も言ってこなかったんだけどな。

 こんな外に出て待ってるようなこと初めてだ。

 やっぱり異世界だし、ちょっと前まで戦国時代だったみたいだし……心配かけてしまった。

 ごめんね、おかーさん。


「ほら、早く入んなさい。外けっこう冷えてるんだから」

「……うん」

「夕飯、できてるからさ。あっためて食べな。おなか空いてんでしょ」

「うん……ね、おかーさん」


 店の扉を半分開けたまま、母はこちらを振り返った。

 あたしはなぜだか──胸の奥に何かがこみあげてきちゃって、言葉が喉につっかえてしまった。

 母は目をぱちくりさせて、苦笑い。


「……なーに泣きそうな顔してんのよ」

「べ、べつに……泣いてないです」

「ほら、おいでサトコ。はーやーくっ」


 今日は豚の生姜焼きにしたんだよ、キャベツの千切りはコジマにさせたんだけど手際いいわあアイツ、ちゃっかり食べて行って明日の夕飯が楽しみだーだってさ──

 母の言葉を聞きながら、あたしはばれないように目元をぬぐった。

 やっぱり、家が一番。

 家族が一番。

 普通の暮らしって、ほんと尊い。

 そんなことを思ったのだった。




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