107:みんなでパンを 二
春の陽ざしに湖面が輝き、『狩りの城』が小麦の香りで満たされる。
アンパン、ロールパン、プレッツェル。
大きさも形もマチマチだけど、それが手作りの醍醐味だ。
特に形のいいやつ、色のいいやつ、大きめのやつを選んで御櫃に乗せ、コジマくんがそれを波打ち際にそっと浮かべた。
じっと見つめていたらゆらゆら揺れながら遠ざかり、やがて「ちゃぽん」と音を立てて波間に沈む──あれから龍たちは姿を見せないけれど、きっと受け取ってくれたのだろう。
ファタルに帰りついたあの朝、おかーさんが持たせてくれたパンを丸ごとぜんぶ献上して以来の御供え物だ。
どうぞ、お口に合いますように……そっと手を合わせたあたしに、赤ちゃん連れで遊びに来たマーロウさんが笑ってみせた。
「だいじょうぶ、龍は喜んでおいでじゃよ」
「わかるんですか?」
「シゲさんがこの城に逗留しておったころも、こうして焼き立てのパンを供えておった。好きな味なんじゃろうのおー、龍の通路に棲む眷属たちにも分け与えとったようじゃ。
サトコちゃんが龍に好かれるのは、小麦のよい匂いがするからかもしれんよ。ふぉっふぉっふぉっ」
そうなのかな。
襟元をひっぱってくんくん嗅いでみたけど、自分じゃよくわからない。そうしてる間に、皆は湖を臨む前庭の木陰に腰を下ろした。
お昼は外で──コズサ姫のご提案だ。
コジマくんがお茶のお盆を用意して、あたしは焼き立てのパンを籠に盛り、マーロウさんは抱っこひもの赤ちゃんをゆりかごに寝かせ、その縁にポッポちゃんがチョコンととまる。
湖を向いてにゅっと首を伸ばしたのは、あの日仲良くなった小さな龍を思い出しているのかも。
「なんとまあ、雑なカタチじゃ」
ほとんど解けてるロールパンを手に、コズサ姫はご機嫌だ。
「これはアルゴよ、おぬしじゃな? こういう仕事をさせると途端にいい加減になりよる」
「何を仰る、大切なのは見目より中身。食べて御覧なさいませ、良い味で御座いますぞ」
「食事は見栄えも味のうちよと、いつぞや申しておったではないか。このような減らず口が上官ではさぞかし苦労が多かろう、のう若いの」
「そ……そうですね、自分としましては」
「やーレオニさんは隊長さんにも姫様にもつきませんよ、『たとえ形がいまひとつでも、サトコさんの捏ねた生地なら美味しいはずですよ、ニコッ』なんて百点満点の答えでサトコさんの味方につくんです。まー今回のは僕と姫様が捏ねたんですけどねっ、いやーレオニさん上手いなーほんとに上手い!」
あちこちから弾が飛んできてレオニさんは苦笑い。
人当たりが良いものの宿命とはいえ、一人くらいは味方がほしいだろう。「ちょっとコジマくん、レオニさんはそんなあざとくないわよ」と助太刀してはみたものの、ささやかすぎたのか当の本人には届かない。
褒められたい盛りの魔法使いの弟子は、師匠がアンパンを手にしたので期待に瞳が輝いている。
「お師匠様お師匠様、僕の作ったアンパンどうですかっ!? これでいつでもアンパン食べられますよっ!」
「ま、初めてにしては上出来かのう。下の絞ったところからあんこがはみ出とるのも御愛嬌じゃ。ふぉっふぉっふぉっ」
ほどけたロールパンに笑い、はみでたあんこに笑い、プレッツェルを齧っては石みたいに固いとまた笑う。キャラメルは非常に好評で、あっというまに売り切れた。
アルゴさんは例の如く三口くらいで平らげては「ありがたみがない!」と姫様に叱られて、コジマくんはその隣でちゃっかり一番大きいのを確保する。こぼれたかけらをポッポちゃんがつついて回り、騒がしいあたしたちの声に赤ちゃんがむずかりだす。
慣れた手つきであやすレオニさんをコジマくんがからかい始めたとき、姫様がおもむろに両手を差し出した。
「抱いてみたい」
「……」
「これも先々の練習じゃ。赤子を抱いてみたい」
コズサ姫の細い腕に、レオニさんがそっと赤ちゃんを渡した。緊張した面持ちで受け取って──それからすぐに、笑顔になった。
花のつぼみがぱあっと開いたように。
「可愛いものじゃ」
「ふにゃ……あぶぶぅ、ふぎゃあぁ」
「おお、この前よりも声が大きうなって」
「ふぎゃあ、ぎゃあぁ、ふぎゃあぁぁあ」
「な──泣き止む様子がないのじゃが、これは」
「ぎゃーーー! ぴぃぃ、ぎゃあーーーっ!!」
「アルゴ、なんとかせよッ」
「私も赤子の世話は不慣れで御座いますれば……」
まさに渋々、という様子でアルゴさんが赤ちゃんを受け取った。無茶振りもいいところだ。
あまりにぎこちない抱き方なもんで、見かねたレオニさんが横から口を出している。「いけません隊長、もうちょっと首を支えてやらないと」とか「立って揺らすんです、そっとですよそっと」とか、それをまたコジマくんが「やーさすがレオニさんイクメンは違うなーこれなら色々安心ですねサトコさん!」なんて囃し立てたりなんかして。
「なんと……赤子とは、思うに任せぬものよのう……」
コズサ姫は額の汗をぬぐい、「はーっ」と息をついて肩を撫で下ろした。
赤ちゃんの機嫌って難しい。
抱っこするだけでは足りなかったのか、アルゴさんは赤ん坊を揺らしながら前庭を歩き回っている。「ちょっと見てきますね」とレオニさんも後を追い、「僕も僕もー!」と楽しげなコジマくんは、たぶん二人をからかいたいだけだろう。
あたしは口を半分開けたまま、しばらくそれを眺めてたんだけど──
「おじじよ……父上様は、何と仰っていた」
姫様の声でふっと我に返り、そちらを向いた。
「あの赤子の素性、お伝えしたのであろう?」
「ふぉっふぉっふぉっ。さすがの上様も頭を抱えておられましたよ」
「ほぉー。それはちょっとばかし見てみたい気もするのう、サトコどの」
「へっ? ああ、まあ……」
そ、そうかしら。
急に話をふられ、あたしはしどろもどろで目を泳がせた。
少し離れた場所で皆が赤ちゃんをあやしている──いつのまにか声が小さくなり、どうやら赤ん坊は泣くのをやめたようだった。
「のうおじじ、エード城より何か沙汰があるのじゃろう? まさかパンを食べるためだけに来たのでもあるまいに」
「……」
「わらわのことか赤子のことか、父上様もあれこれお考えであろう。そろそろ何がしかの結論が出ているはずじゃ」
とんがり帽子の下で、マーロウさんの菫色の瞳がわずかに揺らいだ。魔法使いのおじいさんの視線の先には、アルゴさんの後姿。
「聞かせてたもれ」
うとうとし出した赤ちゃんを下ろすに下ろせず、静かに抱いたままアルゴさんはぷらぷらと歩き回る。
春の日差しに照らされて、それはとても平和な光景で──だいぶさまになってきましたよ、とか、隊長さんほんとのお父さんみたい、とか言われてどんな顔をしてるやら。
こちらからは窺えないけど、レオニさんとコジマくんの様子を見る限り、悪い雰囲気ではなさそうだった。
「ひいさまの御輿入れは……お体が戻り次第、とのことですじゃ」
そうか──とかすかに呟いて。
コズサ姫の視線もまた、赤ん坊をあやす男性陣に注がれていた。
「あの御子はこのままエードで暮らし、わたくしめが御世話を致すこととなりましょう」
「……そうか」
「城内では御輿入れに向けて着々と支度が進んでおりまする。民への御披露目でお召しになる御衣装も、あつらえて御座いまする」
「……そうか」
「エードを発つときは四頭立ての馬車にて参りましょう。前後に騎馬の近衛士を四十名、旗持ち、槍持ち、女官などは徒歩にて御供いたします」
「……そうか」
「櫃や長持は合わせて二百余り、これらは牛に曳かせることとなりましょう。街道筋の宿場も、行列が皆休めるようにあちらこちら整えて……」
「アルゴはどうするのじゃ」
言葉にならず、あたしは足元に視線を落とした。
「エードの姫をお守りするのは、エードの近衛士で御座います。アルゴどのは官を辞されたゆえ、西へ赴く行列は離れたところからそっと拝するようになりましょう」
現実はあたしが思ってるより、ずっとシビアなのだ。
この数日に起きたあれやこれやが、何もかもひっくり返してくれるはず──そんな期待を軽やかに裏切って、世界はそのまま続いていく。
ひとりの女の子の人生を、丸ごと飲み込んで。
……なんでよ。
普通なら婚約は破談になるんじゃないの? 物語なら、お姫様は好きな人と一緒になるんじゃないの? 皆が皆しあわせになる、ハッピーエンドでもいいんじゃないの?
空はこんなに爽やかで、木漏れ日はこんなに眩しくて、吹き渡る風は清らかで、皆で作ったパンは美味しくて──平和そのものじゃない。
なのに、なんでコズサ姫の運命は変わらないの。
あたしは半分、腰を浮かせた。
立ち上がったマーロウさんに食ってかからなきゃ気が済まない。黙って受け入れるなんて出来やしない──なのに。
「そうか」
なのにどうして、微笑むの。子どもの顔で、大人みたいに。
「もとより覚悟の上じゃ、今さら騒ぐようなことでもない。
……ああ、御櫃は空っぽで戻ってきたようじゃの。龍神は供物を召し上がったようじゃ」
どうして強がり言うの。関係ない話をして、誤魔化すの。
そりゃ勿論ここで文句言っても何も変わらないことくらい、あたしだって学習してる。それどころか、ぶちまけたところでまた誰かを傷つけるだけだろう。
あたしに口を出す権利なんかない。
わかってる。
よく、わかってる。
わかってるけど──姫様は、当事者じゃない。
何も言わなくていいの。
このまま言葉を、笑顔を、心を取り繕って生きていくの。
マーロウさんがよっこらせと腰を上げる。
御子の様子を見て参りましょう、と言い残して歩いていく──途端、コズサ姫が、
「チッ」
と舌打ちした。
え、とあたしは目を丸くする。
唖然とするあたしの前で、姫様の目元がみるみるうちに険しくなる。
口元が忌々しげに歪む。
エードの姫君は「ふん!」と鼻を鳴らし、あたしに向かって吐き捨てた。
「まったくもって気に食わぬ! どう思う、サトコどのッ!」




