104:王の中の王 三
ふん、と鼻を鳴らしたのはハーロウさんだった。
「……おれもよくよく嫌われたものだ」
あたしは気圧され、もう一歩後ずさる。
「それでどうするパン屋の娘よ、赤子を渡さぬということは」
「赤ちゃんのことが心配なんですよねっ、サトコさんは! そりゃそうですよぉ、一時間以上も抱っこしてりゃー情も移ります。そこの感じ悪い人に渡すより、連れて帰って自分の子として育てたほうがよっぽど安心」
「やかましい! 混ぜっ返すなこの半人前がッ」
コジマくんが「べーだ!」と舌を出す。「弟子の躾がなっとらん」と吐き捨てて、ハーロウさんはこちらに向き直った。
「何も取って食おうとしているわけではない。乳母をつけ、しかるべき養育を施そうというのだ。決して野良犬のような生き方はさせぬと保証しよう」
「で……でも」
「ならばサトコちゃん、ワシならどうかのお? 兄よりはよっぽど信用できるじゃろ」
いくつもの視線があたしに絡みつく。こいつは何を言い出したんだ、と言わんばかりに。
マーロウさんは宥めるような声を出し、コジマくんは期待に目の星を瞬かせ、一瞬前までその横でハーロウさんを警戒していたレオニさんは──見なくてもわかる。
石のように凍りついてるに違いない。良識の人だから。
「い……嫌ですっ。マーロウさんでも、ハーロウさんでも」
“あたし対その他”の構図に足がすくむ。だけど左右に首を振り、喉から声を絞り出す。
発言を取り消すつもりは欠片も無い。
理由だって、ちゃんとある。
「ま、魔法で人払いしてるんですよね? だから嫌です。赤ちゃんは渡しません。絶対に」
時刻はもうすぐ午前四時。
夜にしては遅く、朝にしては早すぎる。
だけど活動してる人間はいるはずなのだ──例えば、普段のパン屋とか。
「だって不自然じゃないですか。これだけ大きな御殿があって、なのに誰もいないだなんて。それでなくてもあんな騒ぎがあったのに。
……眠らせてるんでしょ? 御所中を、都中を、魔法を使って!」
そんなことをする理由は一つしかない。あたしは赤ん坊を抱いたまま、静寂の広場で声を張り上げた。
「誰にも聞かれたくないからでしょ。この子がここにいたことを秘密にしておきたいんでしょ。この子を受け取ったあと、何もかも“なかったこと”にするために!」
「えー! そうなの? それちょっとズルくないですか!?」
横から入ったのはコジマくんの合いの手だ。
するとハーロウさんは顔をしかめ、マーロウさんは指を立てて「しーっ」とやり──当然あたしはカチンと来た。
「ほ……ほらぁ! 否定しないってことは、やっぱりそうなんだっ」
「うわーしかも事実を隠すためにだなんて! お師匠様セコい、僕がっかりです!」
「だいたい西の大王ってまだ十五でしょ、全っ然子どもじゃないですか!」
「そーだそーだ、サトコさん言ってやれーっ」
「そりゃーたしかに自分より大人の女のひとが、どうやらコッチに気が有る風で、満更でもないってなったらえーっとえーっと……そーゆー間違いの一つや二つ」
「えぇーつまり大人のお姉さんに言い寄られてクラクラきちゃったってこと!? わーそれ青少年なら仕方ない部分はありますけどっ! でもそーゆーわけに行かないですもんねぇ!?」
「当ったり前よ行くわけないじゃない! 仮にも許嫁がいるっていうのに、きっぱり断れば済んだ話を」
「サ、サトコちゃんや、いったん落ち着いて……これ、コジマもやめなさい」
「どう落ち着けって言うんですか、こんなの!!」
もはやカチンと来るどころの騒ぎじゃない。
こうなったらもう、言ってやる。
思ってること言ってやる。
他の誰もが言えないんなら、あたしが代わりに言ってやる、今ここで!
「だって隠し子ですよ、結婚前に! なんなんだって感じじゃないですか!!」
あちゃー、とマーロウさんが額に手をやった。
その隣でハーロウさんは深々と息をつく。
レオニさんは石化の呪いが解けず、コジマくんだけが「そーだそーだ!」とあたしに迎合して、ファタルの龍は──動かない。
「どうせ穏便に済ませるつもりなんでしょ。魔法で人払いして、あたしたち以外誰にも知られないようにして、父親には何にも知らせずに!」
完全にヒートアップしたあたしは、赤ん坊を抱いたまま周囲を睨みつけた。
「本人は知らなくても構わない、知らせるつもりだってカケラもない、死んでしまったあの子のことも、生まれてきたこの子のことも!
あたしたちがここまでどんな目に遭って、どんな思いでここまできて、そーゆーこと全部! なにひとつ!
渡せるわけ無いじゃない……何を守りたいのか知りませんけど! こんなの、どう頑張ったって許せるわけが」
「サトコどの」
だけどあたしより、もっと怒っていいはずの人たちが──何も言わず、冷静で。
コズサ姫も。
その向こうに佇むあの人も。
「赤子をあちらに渡してはくれぬか……サトコどの」
目を逸らすこともなく。声を荒げることもなく。
「わらわの頼みでも聞けぬであろうか」
あたしをたしなめ諭すように──だけど決して、責めるでもなく。
「サトコどのが怒っているのは他ならぬわらわのためであると、ようわかっておる……その上でもう一度お願い申す」
「……」
「渡してはくれぬか、サトコどの。
大王様は優しき御方、寄る辺なきその赤子にもかならずや情けをかけて下さろう……何も御存知なくとも、一番良き道を示して下さろう」
だけど、あたしは知っている。コズサ姫がこういう顔をしてるとき、本当はどんな気持ちでいるのか。
いつでもどこでもそうだった。
あの大浴堂で、静かな湖畔で、竜巻山の小さな庵で、いつだって背筋を伸ばして前を向いて──エードの姫君として一番ふさわしい立ち居振る舞いを選ぶのだ。
本当は落ち着いてなんかないくせに、またこうやって我慢して。
あたしはそれを見てられない。
もうこれ以上、見たくない。
「……姫様は!」
思いがけず大きな声が出る。息を整え、言い直す。
「姫様は……それで本当にいいんですか」
唇から血の気が引いていく。おなかから声を絞り出す。
「こんなに散々振り回されて、この仕打ちですよ。
酷い目にも怖い目にも沢山遭って、言われ放題言われまくって。あんなに泣いてたのに、あんなに震えてたのに、“なんでもないです”みたいな顔で。“全然平気です”みたいな声で。わざとぼかした聞き方して」
何もかもぜんぶ飲み込んで、受け入れて。
「本当にそれでいいんですか。それで納得するって言うんですか。ずっとずっと我慢してきて、今またここで我慢して、大人の対応をするって言うの?」
「サトコどの」
「だったらあたしは大人になんて一生なれない」
唇を小さく動かして、姫様は何か言いかけた。言いかけただけで、やめてしまった。
あたしはそれが悔しくて。
「それでも、どうしてもって言うんなら……姫様になら、渡します」
すごく、すごく、悔しくて。
「……姫様以外には渡さないからっ」
だってあたしたち、いったい何しにここまで来たのよ。これじゃ全然わからないじゃない。
「姫様が受け取って、それで大王に直接言ってやればいいんです。『あなたの子です、どう責任取るんですか』って」
「そのような……」
「だって口惜しくないんですか!? 腹立たないんですか? あたしは腹立ちます、悔しいです、絶対に許せない!」
「……サトコちゃんや」
名前を呼ばれた──溜息とともに。
「サトコちゃんは、添い臥しという言葉は……知らんかのう」
あたしは我に返り、口をつぐんだ。
誰もがうつむいて立ち尽くす。
マーロウさんの声のトーンが、いつになく低い。
言いづらい話が始まる予感にあたしは身構えた。大魔法使いの顔に微笑みはなく、もう一度深々と溜息をついて──あたしの予感を肯定する。
「その赤子の母はのう……大王様の添い臥しを務めたのじゃよ」
「……なんですか、それ」
「……まあようするに、御婚礼後に夫婦で上手くやれるよう色々お教えする女がおってじゃな。その多くは年上で、時にはそのまま妻となることもあったんじゃよ……昔はの」
なに、それ。
ひどくかすれた声であたしは呟いた。
コズサ姫の御顔に陰が差す。アルゴさんの表情は──ここからでは、よくわからない。
「一国の姫を迎えるための、当たり前の支度のひとつなのじゃよ。俄かには信じられんかもしれんがのう……
自ら志願したそうじゃ。
どのような心づもりがあったかは当人以外知り得ぬことじゃが、それで身籠ることとなったらしい」
足元がおぼつかない。
視線が定まらない。
マーロウさんはきっと、すごくソフトに説明してくれてる。それはわかるんだけど、でも。
でも。
理解が追いつかない。
『わたくしが、お慕い申し上げたのです』
あの子、そう言ってた。お許し下さいと震えながらそう言ってた。
沿い臥しですって。
たった一晩だけ。
じきに妻を迎える人だと知りながら、あの子、どんな気持ちでその夜を──
「そういういきさつが有ったんじゃよ」
「……でも」
喉が渇いていく。声が、上手く出せない。眩暈がするようだ。
「でも赤ちゃんは……姫様に渡します。姫様が直接……西の大王に渡してほしいって……思います」
「……サトコどの、もうよいのじゃ。その心だけでわらわは充分に」
「姫様は! よそのことばっか気ぃ遣ってないで! もっと自分のこと考えていいと思う!!」
違う。
「大王がこの奥にいるんなら、入ってってこの子を見せてやればいいと思う! それで……それでもっといっぱい、何もかも洗いざらい、ぶちまけてやればいいと思う!!」
違う、そうじゃない。
そんなことしたってしょうがない。何の意味もない。
相手は十五歳──きっと素直に、特別な疑問は何も無く、しきたりに沿っただけなのだ。そういうものだと教えられればそういうものだと思うだろう。
誰も悪くない。
誰も責められない。
誰を責めても解決しない。
でも。
「……謝ってよ……」
でもこれじゃあんまりだ。
「誰か姫様に謝って!!」
悲鳴のように叫べば、体の奥底から震えがきた。
それからぼとぼとっと涙が落ちる。
なに泣いてんだろう。
泣いたところでどうにもならないのに。
心の中の醒めた部分が冷たく呟いた。
言葉は涙になって顔中を濡らし、あっというまに冷えていく。
「……コジマ」
「……あ、はいっ」
重い沈黙を静かに破ったのは、コズサ姫だった。
ささやくような声でコジマくんのリュックからふわふわタオルを受け取ると、こちらにスタスタやって来て──それを手ずからあたしの頬に当てる。
「若いの」
「はい」
「こういう時に動かぬでどうするのじゃ。ぼんやりするでない」
「は──す、すみませんサトコさん……」
「……ぐすっ、あ……あたしこそ」
もごもごと答え、あたしは唇を噛んでうつむいた。
誰の顔も見られない。誰にも顔を見せたくない。
視線を泳がせ、少しずつ視界に入れては逸らしていく──姫様の小さな手。コジマくんのとんがり帽子。レオニさんの服の裾──その向こうに、立ち尽くすアルゴさん。
アルゴさんはゆっくり天を仰いだ。
夜が終わらず、朝の始まらない空を見た。
それから静かに目を閉じた。
──その途端、自己嫌悪の波があたしを飲み込んだ。
最低だ。
あたしは最低だ。
いつも、いつも、いつだって余計なことばかり。
黙っているべきだった。
静かにしているべきだった。
自分の鬱憤を晴らそうと拳を振り上げ、誰かの絶望を深めるのなら、何も言わずにいるべきだった。
「ご……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、本当に……」
わかってたんじゃないの。こうなるってこと、初めから。
なのにどうして我慢できないの。
「もうよい、サトコどの……もうよいのじゃ」
コズサ姫の頬も濡れていた。
なのに自分の涙は拭いもせず、あたしの頬に触れ、目元に触れ──誰より優しくされなきゃいけないのは、この人なのに。
「わらわのことで泣くのは、これが最後じゃ。のうサトコどの」
だけどあたしがあなたに出来るのは、こうして一緒になって泣くことだけで……それだって迷惑かもしれなくて。
怒ってくれていいのに。嫌ってくれていいのに。それだけのことを、あたしはしたのに。
腕の中で、何も知らぬげに赤ん坊が眠る。
そのやわらかな額にあたしの涙が何粒も落ちる。
コズサ姫はほんの一瞬──本当に少しだけ躊躇って──それから、そっと赤ん坊のおでこに触れた。
そのときだった。
「きゅー」
小さな龍が一声鳴いた。
ファタルの龍が首をもたげて炯々と目玉を光らせる。
金色の眼が照らすのは、御所の正殿のその奥だ。
──わずかに遅れて、人も動いた。
魔法使いの兄弟が跪く。
ついでコズサ姫が歩み出た。
静かに膝をつき頭を垂れれば、アルゴさんが、レオニさんが、コジマくんがそれに倣った。
「え、ちょっと……なに、どうしたの……?」
多少、いやかなりビビリながらあたしも正座した。
誰かが来る。
何かが起きる。
あたしたちの涙や絶望とはまったく別の何かが──
そして、見た。
正殿の奥で何かが煌めいた。
明かりが灯ったのかと、初めは思った。
「サトコさん頭下げてっ」
コジマくんの鋭い囁きにハッとする。
きっと、直に目にすることは許されないのだ。だけど赤ん坊を抱いているから咄嗟には動けなくて──いや、それは言いわけだ。
火に向かって飛ぶ蛾のように、あたしはポカンと見とれていた。
内側から光を放ち、そのひとは現れた。
決して大きくはない体で、一歩ずつこちらにやってくる。
仮初の器が放つ光は眩しくもなければ弱くもない。ただふんわりと皆を、あたしを、その場のすべてを包み込む。
口元に浮かぶのは柔和な笑み。
金の瞳は、歳経た龍と同じ色。
少年というにはずいぶんと大人びた印象の──神話の空気を色濃く残す、若い王。
王の中の王。
ファタルの龍は「ごわあ」と声を上げ、小さな龍も「きゅー」と鳴く。
礼拝の姿勢をとったまま誰一人として動かない。
もちろんあたしも動けない。
頭の芯がしびれていく。
絡まり固まり解けないものが、解けていく。
「大儀である」
何か聞こえた。
同時に、空気が優しく揺れる。
王は足音もなく階段を下り、広場の石を踏んだ。素足のまま。
……降りて来た……!
あたしは大慌てで頭を下げた。
体中を興奮が駆け巡る。普通なら味わうことのない強烈な歓喜が渦を巻く。
きっとこれ以上は見てはいけない。
恍惚としたまま吸い込まれ、何もかもがガラリと変わってしまうだろう。幸せだとか不幸だとか、知ってる次元では語れないことが起きるのだ。
それが漠然とおそろしい。
滑るように、ゆっくりと、王は石畳を踏んでやってくる。
そしてぴたりと足を止めた──なんと、あたしの前で。
「よい子じゃ」
声は光を帯びていた。
いまハッキリとあたしは悟った。頭ではなく、体で、魂で理解した。
理屈をすっ飛ばした胸の高鳴りが告げている。
──王の中の王は、人の姿をとった龍なのだ。
「天地の龍が喜んでおる」
それが、あたしたちと西の大王の一瞬の邂逅だった。




