102:王の中の王 一
鬼は消えた。あたしの腕に小さな赤ん坊を残して。
「サトコさーん、レオニさーん、はーやーくー! もうやばいですって危ないですって! はーやーくー!」
外からかけられた声にハッとする。
鬼の魂は消えたのだ──瓦礫の鬼はもう動かない。これ以上形を保てない。
取るべき選択肢はただひとつ、この子を連れてファタルの龍の背に飛び移ること。
「サトコさん、行きましょう」
あたしが「はい」と頷くより早く、レオニさんが立ち上がった。
なにも映さない壁に目を向ければ、ど真ん中に大穴が開いている。吹き荒れた風で広がったのだろう、大人がやすやすと通れるほどの、ぽっかり開いた黒い穴。
ここから避難するには、あそこから飛び降りる以外に術は無い。
……だ、大丈夫よね。
だってレオニさんが一緒だもん。
恐ろしい目にならもう何度となく遭ってるし、高いところからちょっと飛び降りるくらいで今更ビビッていられない。こ、こ、これくらい朝飯前よ朝飯前……!
「力抜いて下さいサトコさん、赤ちゃんを離さないで」
だけど足元が宙に浮いたのは、覚悟が決まる一瞬前。
あっこれ……もしかしてお姫様抱っこじゃない? ネト河に放られて以来の、お姫様抱っこじゃない? なんて思った、その直後。
自由落下が始まった!
「……ぁァァあああァぁぁぁーーーー!!」
「大丈夫、すぐですよ!」
やばい、これはやばい、こーゆーアトラクション大の苦手だった!
内臓が下から持ち上がる。思わず声が迸る。このままじゃおえってなる、おえってなる……!!
だけどそういう時ほど何もかもが鮮やかで──音も。景色も。抱いた命のやわらかさも。
きつく閉じた瞼を開ければ、あたしを抱えたレオニさんの首筋が目に入る。
その向こうにはまだ暗い空。
鬼が呼んだ暗雲は風に千切れ、裂け目がほんのり明るいのは星だろうか、月だろうか──あるいは夜の終わりの前触れだろうか。
眼下できらきら光るのはファタルの龍だ。
ほんの一瞬、あたしはうっとりした。だけどレオニさんの肩越しに、もうもうと土煙が上がるのに気づいて目を瞠る。
崩落するのだ。
巨大な瓦礫の塊が。
……どど、どどど……どどど……どぉんっ……
轟音がすべての音を遮断したその直後、どしん、と衝撃があって体が跳ねた。びくりと震えたあたしをレオニさんがそっと下ろしてくれたのは、ファタルの龍の広い背中。
大きな鱗がびっしり並ぶ、金色のその背にあたしはぺたりと座り込んだ。
「サトコどの!」
呆然自失のあたしを呼ぶあの声は……コズサ姫。
薄れゆく土煙の向こうから、その姿が現れる。そちらを向けば目頭が熱くなり、ガッチガチの全身から力が抜けた。
「よ、よかった……皆、ちゃんと、揃った……」
やだ泣きそう──だけどこの空気なら、泣いてもきっと許してもらえる。
よし泣くぞ。
さあ泣くぞ。
誰の胸で泣いてやろう!
あたしの肩に手を置くレオニさん。ホッとしたようなコズサ姫。後ろに控えるアルゴさん。くるくる喉を鳴らすポッポちゃんに、怖がりの小さな龍。そして、とんがり帽子の魔法使いの弟子も。
本当に全員いる。誰ひとり欠けることなく。
胸の奥が熱い。
よかった、よかった、本当に。
「んもーサトコさんたら心配かけてっ。もう少し遅かったら生き埋めでしたよ? そしたら救助だって簡単にはいかないんですからね! ほらもー見て下さい屋敷ひとつぶん粉々です、どーするんでしょうねえ後始末……まーでも、そのあたりはきっとお師匠様が御所のエライ人たちと相談して」
その時だった。
「……ふにゃ……ふにゃぁ、ふにゃぁぁ……」
あたしの腕の中で、かすかな声が上がり──
一拍置いて、龍の背は大混乱に陥った。
「んまーッ! なんということでしょう!!」
いの一番に口火を切った勇者は、コジマくん。
「僕がちょっと目を離した隙に子ども作って産んで戻ってくるなんて! サトコさんがたまに見せるその行動力、いったいどこから出てくるんです!?」
「な、な、この子は何を言ってんの……!?」
あたしは唇をわななかせた。
魔法使いの弟子はいつもよりワントーン高い声でわけのわからないことを捲し立て、がばっとレオニさんの方を向く。やたらと威勢よく、体ごと。
「レオニさんもこんな一瞬のうちによく頑張ったと思います、それだけサトコさんが恋しかったってことなんでしょーけど、こうして愛の結晶まで! 僕は! 嬉しい!!」
「あ、愛のけっ」
「やめてーっレオニさん考えちゃダメ! あのねえコジマくん、一瞬とか言いますけど十か月かかりますからね!? 赤ちゃん出来てから生まれるまで!!」
するとコジマくん、龍の背の上をずりずりと膝でにじり寄ってきた。
険しい顔で口元に片手を添え、コソコソと耳打ちする。
「あのねぇサトコさん、このさい理屈はいいんですって。ちょっとは空気読んで話合わせてくださいよっ」
「なにをどう合わせろって……いくら何でも一瞬で子ども作って産んで戻ってくるなんて、無茶にもほどが」
「そこはそれ、異世界のひとはそーゆー体質なんですとかどうとでも言えるでしょ! サトコさんとレオニさんの子どもにしといた方が八方丸く収まるんですから」
「ハァァァ収まるわけないでしょーが! コジマくんこそよくそんなこと思いつく……」
言いつのろうとしたあたしに、魔法使いの弟子は小さく「あっちあっち」と指を差す。そちらをチラリと横目で見遣り、あたしはウッと息を詰まらせた。
少し離れたところに、呆然と座り込む小さな人影──コズサ姫。
「あ……いやいやでもさーすーがーにーあたしとレオニさんの子ってのは苦しいわよ……」
「苦しくたって言い張ってりゃあ真実になりますよ!」
そんな無茶な。
あたしの視線はオロオロと龍の背の上を彷徨った。真っ赤になって固まるレオニさんに、腕の中でモソモソする赤ちゃんに、理不尽を押しつけるコジマくん。姫様はぽかんとしたままどんどん目つきが険しくなるし、アルゴさんは──
だめだ。怖い。
とてもじゃないけど、そっちは見れない。
「だから言って! さあ言って! その子は今まさにサトコさんがお腹を痛めて産み落としたレオニさんとの赤ちゃんです!って」
「えええ」
「じ……自分は構いません! もちろんサトコさんが良ければですがッ」
「レオニさんまで!?」
「ほら! 男女の合意があった! これで事実は真実に!」
「ないわよないない! だいたいおかーさんにどう説明……じゃなくて無理だってば、そんなの!」
「……ふ……」
着地の衝撃か、言い合うあたしたちのせいか、腕の中で赤ん坊の顔がくしゃりと歪む。「あ」とあたしたちが声を揃えたときには、もう泣きだしていた。
「ふにゃあ、ふにゃ……ふにゃぁぁ」
“赤ん坊”とはまったくよく言ったもので、くしゃくしゃにした小さなお顔は真っ赤っ赤。歯のない口をいっぱいに開けて、小さな体を懸命に震わせる。
もちろんあたしは大いに慌てた──思わず赤ちゃん言葉になるくらいには。
「あ、あーっごめ、ごめん……ごめんねぇ。いい子いい子、いい子でちゅねー泣かないでぇぇ」
「あーあサトコさんたら泣ーかしたー」
「ちょ! それはコジマくんが変なこと言」
「あぶぶ、あぶっ、ふにゃぁぁ」
ああああ、余計に泣いてしまった……!
赤ちゃんがぐずったときってどうすりゃいいの。抱っこ? おむつ? おっぱいは……そもそも出ないし、ここは上空ン百メートル。
抱っこしかない。
抱っこしかないけど、泣き止まない!
ささやかだった泣き声は気づけばどんどん大きくなって、止めたくても止められない目覚まし時計のよう。あやすったってやり方もよくわからない。慣れないながらも赤ちゃんを揺らすけど、焦れば焦るほど逆効果のような……!?
「サトコどの」
あああ。声……かけられてしまった。
赤ん坊を抱いたまま、あたしは恐る恐るそちらを向いた。低く抑えた声で、厳しい眼差しで、アルゴさんがあたしに問いかける──
「鬼が申していた大王様の“間違い”とは、その赤子のことか」
説明しなくては──何が有ったのか、ぜんぶ知っているのはあたしだけ。どうやったって誤魔化すことはできないし、けっして避けては通れない。
「……そうです」
あたしは小さく息を飲み、だけどしっかり頷いた。
「私とそなたが見た、あの死せる女が……その赤子の母か」
「はい」
「赤子を産むと同時に、あの女は命を落としたと」
「はい」
「そしてその子の父は──西の大王であると」
もう一度、深く。
「はい」
赤ん坊の泣き声だけが風に乗って流れていく。
アルゴさんの体が一瞬大きく膨らんだように見えて──それは多分、怒りのようなもので──当たり前だ、こんなの怒らないはずがない。
それでなくても、あたしはつぶさに見てきたのだ。
アルゴさんがその体の中にどれほどのものを押し込めてきたのか、目の当たりにしてきたのだ。
もう「ここから赤ん坊を投げ捨てろ」と言い出したっておかしくはない。もちろん今のは例え話だし、そんなこと言わないって信じてる。だけど……
怖い想像をしたあたしは腕の中の赤ん坊をぎゅっと抱きなおした。怒れるアルゴさんから、自分の体で隠そうとした。
「……ひいさま」
だけど怒りのような何かは発散されることなく、アルゴさんの中へと戻っていった。
静かに。
「いかがなさいますか」
そうだ、アルゴさんは大人なのだ。
一時の感情に流されることはない──姫様の御意向を質すまでは。
「あなたさまの一生の問題で御座います。ようくお考えくださいませ。その上での御命令とあらば──剣を振るうことも致しましょう」
だけどこの手酷い裏切りを、アルゴさんは決して許さない。王の中の王に剣を向けることだって躊躇わない。
それもまた確かなのだ。
「鬼は、大王様をお恨み申すと……このことであったのじゃな」
コズサ姫の瞳は揺れていた。心を映すように。
アルゴさんを見て、あたしを見て、あたしに抱っこされて泣いている小さな赤ん坊を見て──姫様の視線は、それからゆっくり手元を彷徨った。
そして絞り出すように声を震わせた。
「アルゴよ」
姫様はきっと、怖いのだろう。
西の都へお嫁に行き、西の大王の子どもを産む。それが自分の運命で、そこに知らない赤ちゃんが現れて、細かい事情もよくわからなくて──まさかの事態すぎて、怖いのだろう。
何かが変化するのは間違いないけど、それがどう変化するのかわからない。
だから怖い。
だから身動きできない。
震えるしかない。
それはあたしたちも同じだ。
姫様はこれからどうするのか、アルゴさんに何を命じるのか、あたしたちは口を挟めない。見守るしかない。
「……これより御所に参る」
固唾を飲んで待つしかない。姫様の心が決まるまで。
「大王様に……御目通りする」
膝に置いた小さな手が、その衣裳の裾をぎゅっと掴む。
「大王様をお恨み申すとあの鬼は言うた……なれどわらわは、大王様をお恨みしとうない。
万が一お恨み申すことになろうとも、それは御目通りしてのちのこと。恨むか切るか如何するか、決めるのはその後じゃ──一生の問題なれば尚のこと、“龍の洲”すべてのことでもあるがゆえに」
誰もが息を詰め、次の一言を待っていた。
あれだけ喧しく感じていた赤ん坊の泣き声も耳に入らない。姫様は「ふーっ」と息をつき、アルゴさんに向き直る。
「アルゴよ」
「はい」
「お恨みしとうないと申したこと……腹を立てずにいてくれるな」
その声は少し震えていた。
指先はまだ衣裳の裾を握っている。
そうしていないと震えてしまいそうで、泣いてしまいそうで、だけどそうするわけにはいかないと、指先に力を込めているのだ──きっと。
「あなたさまは生涯只一人の、私の主で御座います」
コズサ姫の言葉を受け、アルゴさんは深々と頭を下げた。
「この命はとうの昔にひいさまのもの。いわんや、心をや」
その声は力強く。
「お連れ下さいませ。どこまでも御供つかまつる!」
姫様の足を留めるわずかな不安を、取り払ってみせるのだ──すべて飲み込み、その胸の裡に押し込めながら。
うん、とコズサ姫は頷いた。目元をぐいッと手の甲で拭い、ついに顔を上げる。
その眼差しには光があった。
まっすぐ見据える視線の先に、西の大王のその御座所。空の片方はほのかに白く、もう片方には星が瞬いている。
明日の片鱗をわずかに見せる空の下、エードの一の姫は立ち上がった。
「行こうッ」
応えるように、ファタルの龍が大きく鳴いた。




