101:サトコ救出大作戦 三
「……今の」
瓦礫の中であたしは視線を彷徨わせた。
「今の声」
聞こえたわよね。
空耳じゃないわよね。
この声、この小さな声、小さな生きものが泣いてる声──体を震わせ、声を震わせ、この瓦礫のどこかで……
「ねえ!」
上ずってひっくり返った声で、あたしは鬼を問い詰めた。
「あんた、赤ちゃんどうしたの!?」
得体の知れない焦りがにじみ出て、額が、脇が、掌が汗ばんだ。吹き込む隙間風に全身が冷えていく。
鬼は答えない。
揺らめく影が、わずかに残った人の部分が、ぶるぶると小刻みに震えている。動揺してるんだ──でもそれは、あたしだって同じだ。
「今の、あのとき生まれた赤ちゃんの声なんでしょ!?
生きてるのよね。だって産声あげたもの、生きて産まれたのよね。まだ……今もまだ生きてるんでしょ、この瓦礫のどこかで!」
ねえ、ともう一度声をかければ、ぎこちなく軋みながらこちらを向いた。
石でできた金の目玉に、左右に裂けた赤い口。あんなに眩しかったサーチライトがしぼんでいく──電池が切れた玩具のように。刹那の夢から醒めたみたいに。
もう、何も照らさない。
それでも巨大な瓦礫の鬼は暴れ続ける。
「ずしん」と地響きのあと、あたしはまた衝撃にひっくり返り──直後、激しく風が吹き込んだ。
「う……わッ!?」
ガラガラと音がする。どこかが大きく崩れたのだ。
細かなつぶてが頬を打ち、髪が乱れて前が見えない。両腕で頭を庇いながら必死に目を凝らせば、壁の一部に大きな穴が空いていた。
そこからチラチラ覗くのはファタルの龍の煌めく鱗。そして、
「サトコさん!」
あたしを呼ぶ声。
崩れた壁に手足をかけて、レオニさんがそこにいた。
「迎えに来ました、さあ!」
右手があたしに差し伸べられる。安堵が急激に湧きあがる。
「遅くなってすいません、行きましょう!」
よ……よかった、ついに助けが来た──あたしもレオニさんへと手を伸ばした。
帰れる、やっと帰れる、この手をとればすぐにでも。
暗いところから明るいところへ、夢まぼろしの世界から血の通った現実へ。だけど。
「ま……待って! まだちょっと待って、赤ちゃん受け取らないと!」
寸前で振り切りレオニさんに背を向ける。あたしはこの手を、まだ取れない。
後ろで「赤ちゃん?」と訝しむ声。
吹き込む風が狭い操縦室をめちゃくちゃに荒らしていく。バラバラと剥がれ落ちた破片は、吹き飛ばされて弾丸のよう。
その真ん中で揺れる黒い影に、あたしはもう一度向き合った。
「……ねえ。赤ちゃん、あたしに渡して」
鬼は答えない。吹き荒れる小さな嵐の中で動かない。
「ここ崩れるのよ。避難しなきゃ。あたしも、あんたも……あの赤ちゃんも」
レオニさんもまた動かない。
あたしを見て、鬼を見て、崩れゆく瓦礫の天井を注視して──待ってくれるんだ、ぎりぎりまでは。
もちろん限界と見るや即座に脱出を決めるだろう。あたしの手を引き、担ぎ上げてこの場を後にするだろう。
それまでに話をまとめなきゃ。
何て言えばいいのかわからない。どう言えば効果があるのかもわからない。だけど、とにかく何とかしなきゃ。
「生きてるんでしょ、声がしたもの。だったら外に出さなくちゃ。すぐにここから離れなきゃ。ねえ、だから」
『……渡したとて』
何とかしなきゃいけないのに。
『渡したとてどうなる。命を拾うて何になる』
言葉が喉に貼りついて続かない。
地を這うような、血を吐くような、かすかな呻きに遮られて。
『あれは不義の子、知られてはならぬ子じゃ……知られれば命を取られよう。世が世なれば』
西の大王の跡継ぎだったものを──最後まで言わず、あるいは言えず、鬼は石の嵌った目を伏せる。
『母なく、父なく、寄る辺なくして生まれた子じゃ。吾はこのざま、肉体は滅びもはや人ではない……ほ、ほ、ほ。してやれることなぞ有りはせぬ』
それからゆっくり、天を仰いだ。
『すべて潰えた。潰えたのよ。
姫は折れぬ。守役も折れぬ。楔は刺し損ね役に立たぬ。おまえがおらねば違ったろうにのう……パン屋の娘よ』
鬼の眼があたしを捉えた。
視界の隅でレオニさんがわずかに動く。いつでもあたしを攫えるように身構える。
黒い影の赤い口はほんの少し──笑ったようだった。
『……おまえがおらねば赤子が父と暮らすことも、出来たやもしれぬものを』
そしてゆらりと舞い始めた。
唄うように。嘆くように。自嘲るように。何もかもすべて、諦めたように。
──我が身は鬼となり果てて 吾子の明日を思えども ままならぬことばかりなり──
「父親と……暮らすですって?」
優雅にすら見える舞を前に、あたしは困惑に眉をひそめた。
あの子が生んだ赤ちゃんが、父親と──西の大王と一緒に暮らす?
何を言っているの。
どういうことなの。
だって西の大王のところには、コズサ姫がお嫁に行くのだ。あの子が生んだ赤ん坊は、入る余地なんかどこにもない。
いないはずの赤子だって自分で言ったばかりじゃない。
それにもしコイツの目論み通り、姫様に子どもが出来なかったとして──
ま、待って。ちょっと待って。
大王とその后に御子が生まれぬとき、その事実は隠される──そう言ってたのは誰だったろうか。アルゴさんだったろうか。
その場じゃ「そっか……」なんて納得したけど、なんで、どうして気づかなかったんだろう。
そんなの隠し通せるわけがない。
“子どもができない”という事実を覆せるのは、“子どもがいる”という事実だけなんだから。
物理的に子どもがいなくては、ダメなのだ──即ち、物理的に“子ども”がいさえすれば、それでいいのだ。
「……そっか、だからあんたコズサ姫にこだわってたのね」
そう、“子ども”の出自さえ隠せればそれでいい。
大王の血統はたしかに受け継いでるんだから、たとえ母親の面影がゼロだとしても問題ない。父親にちょっとでも似ていればそれでいい。
姫様のおなかが膨らまなくたって、御結婚と御誕生の時期がめちゃくちゃだって、魔法なりなんなりで誤魔化せる。
なんて恐ろしい考えなんだろう。
唇が冷え、声が震える。
「姫様に子どもできなかったとき──あの赤ちゃんを身代わりにして、大王のところで育てさせようって……そう考えてたのね、あんたは」
「……サトコさん、それはいったい」
「でも、でも無理よそんなの! あんただって本当はわかってたんじゃないの!? 龍の洲ぜんぶをずっとずっと誤魔化すなんて、出来やしない!」
だけどそれは、途方もなく魅力的な案だったのだ。それしかないと思えたのだ。そうするしかないと思われたのだ。
寄る辺ない赤ん坊が生きていくには、それしかないと。
たとえ無理だとわかっていても。
「わかるけど……あんたの気持ち、わかるけど……!」
コズサ姫がお嫁に来て、子どもが生まれて、その子が幸せに育つのが許せないって気持ち、わかるけど。
堪らないって気持ち、わかるけど。
「あんたが必死だったことも、赤ちゃん何とかしようとしたことも、どれだけ悲しかったかも……わかるけど! 思いつめて鬼になったんだって、わかるけど!」
ずしんずしんと瓦礫が揺れる。飛んできたつぶてに体を打たれる。
サトコさん、と名を呼ばれる──もう限界だ。行かなくちゃ。話はまだ終わっていないのに。
何一つ解決していないのに。
『もはやこれまで』
あたしを呼ぶ声は外からも──サトコさんレオニさんはーやーくー、もうガタガタで危ないったらないですよ、ほら待ってんだからはーやーくー!
待って。
待って。
頼むから焦らせないで!
『行け、パン屋の娘よ。それとも吾らにつきおうて此処に朽ち果つるか』
「……でも」
『ほ、ほ、ほ、一矢報いることも叶わなんだ……吾子の仇をとることも。赤子の明日を見ることも。まことに、まことに……あさはかなり』
「でも」
『姫に伝えよ。不義の赤子なぞ初めからおらぬ──大王は何の間違いも致しておらぬ。
古の荒御魂を身に降ろし、祟りをまき散らした哀れな年寄りがおっただけよと』
渦巻く嵐の真ん中で、鬼はぴたりと舞うのをやめた。そして悲しげにあたしを見て──
『……愚かなじじよ』
小さく嗤った。
その瞬間、あたしは大声で叫んでいた。
「愚かじゃなかったわよ!!」
まるで悲鳴のように。
「賢くはなかったかもしれないけれど! 愚かじゃなかったわよ! あんたがどれだけ必死だったか、どれだけ思いつめてたか、それぜんぶ“愚かだった”って言っちゃったら」
『愚かだったのよ。ほんのひとときでも赤子を忘れた……怒りに己を失うた報いが、このざまじゃ』
「違うわよ……違うわよ! 罰が当たったみたいな言い方しないでよ!!」
だけどどんなに叫んでも、どんなに声を嗄らしても──それにどれほどの意味があるっていうの。
悲しかった出来事はなくならない。
失ったものは戻ってこない。
あたしは無力だ。
そりゃそうだ、だって普通の人間なんだから。
人より得意なことなんてパンを焼くことだけなのだ。魔法使いでもなんでもない。一番簡単な魔法も呪いも使えない──あたしの言葉には力がない。
でも、だからって。
「どうすりゃいいのよ……黙ってここが崩れるのを見てろって言うの? あんたが消えたあと、赤ちゃん生き埋めになるのを見てろって、そう言うの?」
『死なねばならぬ定めの子よ……ほんのひととき生き永らえたとて』
「サトコさん!」
背後から鋭く声が飛ぶ。ああ、今度こそもう行かなくちゃ──あたしは項垂れ、ぎこちなく振り返った。
どこからか瓦礫が飛んでくる。腕で頭を庇いながら顔を上げる。
嵐の中で、視線が絡んだ。
「サトコさんっ」
「……はい」
「まだ待てます!」
…………
………………
「えっ」
「まだ待てます! 大丈夫」
目を瞠るあたしに、レオニさんは大きく頷いた。
大丈夫。
まだ待てる。
続く言葉は──
「だから絶対、諦めないで」
その声が体中に染みていく。
混乱と不安を消し去って、臆病なあたしの背中を「どん」と押す。
いつのまにか冷え切っていた指先に、血が巡る。
そうだそうだ、きっと大丈夫……待ってるって今言ってくれたじゃない。なにを諦めようとしているの!
「ねえ」
あたしは実にあっさりと、言葉の魔法にかけられた。あまりにも単純で笑えるくらい。
「あのね……聞いて。赤ちゃん、絶対に大丈夫だから」
それは同時に呪いでもあるのだけれど──あたしから「諦める」という選択肢を奪うという意味で──でもあたしは、そう言ってもらえるのを待っていた。
そう言ってもらわなきゃ動けなかった。
「絶対、絶対、大丈夫だから。誰も赤ん坊を殺せなんて言わないから……生まれてきたものを、生きてるものを、無かったことにしろなんて誰も言わない。
それを一番許さないのはコズサ姫だから」
これが最後の正直だ──覚悟を決めて鬼に向かい合う。
あたしの言葉は無力だけれど、聞いて。お願い。一度でいい。
今だけでいい。
そして両手を差し出した。
「だから、赤ちゃん、あたしに渡して」
暗闇色の魂がぶるっと震えた。
『……それはまことかえ』
あたしは一つ頷いた。
鬼の眼が潤むように煌めき、細かく砕けて落ちていく。光をこぼして。涙のように。
『エードの姫は赦したもうと』
もう一度、深く。
『姫は、この子を……』
それは今まで聞いたことのない声だった。
“ととさま”のようでもあり、“あの子”のようでもあり──たおやかで、はかなげで、優しげで、どこか苦しげな。
誰なの、とあたしは口に出しかけた。
『お頼み申します』
同時に「どさッ」と音がして、差し出した腕に重みが乗った。
『お頼み申しますえ、異界の御方……』
「うん……うん。絶対、大丈夫」
『なにとぞ……なにとぞ』
鬼の魂が、ふっと揺らいだ。風に吹かれた蝋燭の炎のように。
『かならずや、すこやかに……』
ゆらり
『元気で……おおきく……』
ゆらり ゆらり
『……吾子や……』
ゆらり ──ふっ
蝋燭を吹き消したように、鬼の魂は揺らめいて消えた。
こぼれた光の粒を後に残して。
そして、そのぶんだけ瓦礫の隙間が広くなった。




