098:父娘 二
三日三晩の苦しみだった。
「痛い……痛い!!」
あたしは相変わらず瓦礫の中で、埋もれてひっくり返ったまま走馬灯を見つめていた──ただ呆然と。
そう言えばあれは中学の頃だ。女子だけ視聴覚室に集められ、出産の映像を見せられて……うっ、できれば忘れていたかった。
あの時は途中で貧血起こして早々に保健室送りになったんだけど、今回はそういうわけにいかない。
逃げ場がない。
見るしかない。
「痛い、ととさま、痛い……!!」
うわぁぁ……それにしたってちょっと怖すぎじゃない? 苦しみすぎじゃない? とてもじゃないけど見てられない。上映中止を強く求めたい!
あの子は全身汗びっしょり、見ているだけのあたしも脂汗でべっとり。“ととさま”は水を飲ませ、腰をさすり、それはもうかいがいしく世話をしている。
本当は産婆さんを呼ぼうとしたのだ。
だけど、彼女に強く止められた。
「人に知られてはならぬのです」
その強い決意を無視することは出来なくて……これでも魔法使いの端くれだ、という思いも少しはあったのかも知れないけれど。
「この子は、ととさまに取り上げて頂きとう御座います」
父娘で赤ちゃんを取り上げる。
そんな話は日本でだって聞いたことがない。
立ち会い出産とかあるけど夫婦でやるものって思ってたし……というか、正直考えたことすら無かったし。
このお産は普通ではない。
生まれる子どもも、普通の子ではない。
彼女の苦しみようも、また普通ではなかった。
“ととさま”は泣いていた。腰をさすりながら、体のあちこちをきつく掴まれながら、髪を振り乱す娘のそばで泣いていた。
「痛い、痛い……ととさまァ!」
「相手はこのこと、知らぬのであろう……?」
「痛いィィ!!」
「おまえだけがこのように苦しんで。わしは口惜しい……口惜しゅうてならぬ!」
「あああ、痛い! 痛ァァい!!」
このまま永遠に続くんじゃないか──そんな地獄にも似た有り様の中、それでも時々ふっと嵐が静まるような瞬間は訪れる。
その静寂の中、父は繰り返し繰り返し、娘に訊ねた。
「父親の名を……まだ、明かせぬか」
弱りゆく娘の額の汗をぬぐいながら、きっと言わぬだろうとわかっていながら、繰り返し。
「……その子は不義の子、知られてはならぬ御方が相手であろう」
「わたくしをお叱りになりますか……」
「今さら叱ったとて詮無きこと。ただ一つだけ──もしもおまえが辱めを受けたのだとしたら」
「違いますッ」
髪を乱し、彼女は短く叫んだ。
「わたくしが……わたくしがお慕い申し上げたので御座います。どうしても、どうしても、せめて一夜と望んだので御座います!」
そして肩を震わせ、顔をそむけた。
「たった一度の過ちでした」
父は言葉を失くし、俯いた。
「わかっております、わかっているのです……あの方は只人では有りませぬ。万物わけへだてなく慈しみ、許しを与える御方です。
わたくしもまた過ちを許されたに過ぎぬのです」
娘の言葉が真実なのか、確かめる術などどこにもない。
信じるしかない──嘘だ、と本当は叫びたい。
やはりそうなのか、という思いを打ち消したい。
「……ないがしろにされたのではない、と申すか」
「はい」
「しかし……互いに慕い合うたわけでもないと」
「それでも良いと、わたくしが望んだので御座います」
「なぜ今の今まで黙っておった。もっと早くに打ち明けておれば、何とかしようもあったやもしれぬ」
「どうして申せましょうや……大王様はエードの姫君とご一緒になられるのです。知られれば吾子の命は御座いませぬ!」
「鴉を飛ばす! ハーロウどのに使いを出すぞッ」
父は鴉に伝言を託した。
あれはきっとファタルの“境界”に現れたやつだろう。あたしには鳥の個体差なんてわからないけど──そんな気がする。
ガアと一声大きく鳴いて、鴉は空へと羽ばたいた。あの子の制止を振り切り飛んでいく。
高く。高く。
目指すは竜巻山。
「やめて! やめてととさま……あッ……あああぁァ!!」
そしてまた激痛が彼女を襲うのだ。
両脚の間から真っ赤な血が流れ、衣装を染めていく。喉から絶叫が迸り、壮絶さにあたしは目を逸らす。
お願い早く来て、ハーロウさん。
助けてあげてよ。
頼むから、お願いだから、あの子を死なせないで。
死なせないで。
お願い。
はたしてハーロウさんは駆けつけた──彼女の苦しみが始まって三日目の夜のこと。
「……あのときの卦が、こう出たか」
だけど、時は既に遅く。
「こうなってしまっては手遅れだ。母と子どちらをも救うことは、このハーロウにも難しい」
「ハーロウどの頼む、娘を、娘だけは……何卒、何卒」
「おのれで選べ、娘御よ。おまえの命と赤子の命、どちらを取る」
「ハーロウッ!!」
彼女の命は、今まさに尽きようとしていた。
「吾子を……」
青白い顔を傾け、紫色の唇を震わせ、光のない目をうっすら開き、叫びすぎて嗄れた喉から声を絞り出す。
「吾子を……お願いいたしまする。必ずや元気で……無事、に……」
「承知した」
「ハーロウ、貴様ッ!!」
安堵したように微笑み、彼女は目を閉じた。唇から「ふうっ」と最後の息を吐き出して──
それきり動かなくなった。
ハーロウさんの処置が始まった。
手を、衣装を血に染めて、動かなくなった彼女の中から赤子を取り出す。
──生まれ出で給へ龍の御子 母の胎よりあらわれ給へ 疾く疾く御姿あらわし給へ──
あたしにはわからない。
呪文なのか、祈りなのか、呼びかけなのか、わからない。
あの悲鳴が、苦悶の声が嘘のよう。凍てつくような沈黙の中、聞こえるのは老魔法使いの声ばかり。
“ととさま”はがっくりと膝をつき、ただそこにいた。
何もできずに。
凍りついて。
そして静寂が破られた。
──ふにゃあ、ふにゃあ、ふにゃあ──
「……男御子のご誕生だ」
手の甲で汗をぬぐい、ハーロウさんが宣言した。
「無事お生まれになったのは奇蹟と言えよう。死んだ母から生きて出てくる赤子はまずいない。命の強きことは、お父上譲りと申せよう……
抱いてやれ。母を亡くした寄る辺なき御子だ」
大写しになったのは、生まれたての赤ん坊。
へその緒を切られ、小さな両手を握りしめ、体を震わせ泣いている。くるまれた布が赤いのは、母の血の海から生まれたから。
声を殺して“ととさま”も泣いた。
ハーロウさんだけが淡々と、その場の後始末を続けている。力尽きた彼女を寝台に横たえ、髪を後ろに流し、襟を整えて。
「これからどう育てる。母親が死んだからには、一刻も早く乳母をつけねばなるまい……しかし人に知られてはならぬ子だ。都の近くに留まるのが良いとも思えぬ。いっそ遠くへやることも」
「出て行けッ!!」
血のにおいが充満する部屋で、赤ん坊を抱いて“ととさま”は叫んだ。
「出て行けハーロウ、娘に触るな! 今すぐ出て行けッ」
髪を振り乱し、目を血走らせ、息を乱し、声を荒げて。
「吾子が命と引き換えに、この世に生まれた御子さまじゃ。この爺が守ってやるぞ、この爺が……
よく聞けハーロウ、この子は龍の血を引く御子さまじゃ! 大王様の御世継ぞ!
遠くへやりなどするものか……父なし子とは言わせぬぞ。誰よりも幸せでなければならぬ。誰よりも、誰よりも、エードの姫が后になろうとも!
この子は大王様の一の王子じゃ!!」
「……正気を失くすなよ。その御子が頼れるものは、この世におまえしかおらぬのだ。血統のことはおいておけ」
「黙れ黙れ黙れハーロウ! この子は大王様の子じゃ。大王様の子じゃ。大王様の子じゃーーーッッ!!」
短く息をつき、悲しげに首を左右に振って、ハーロウさんは出て行った。
月の明るい晩だった。
あたしの腕の中で泣くのは、ひとりぼっちの赤ん坊。
──ぎゃあぁ、ふにゃぁぁ、ふぎゃあぁぁぁ……──
そして映像は乱れ、砂嵐に変わった。