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くまの恋

作者: 城田 直

ある日、森の中、くまさんにであった♪

 熊は冬眠から醒めた。

 馥郁としたふきのとうの香りが森じゅうに漂っていた。

かたいつぼみをきゅっと抱きしめてやわらかな黄緑色をしたふきのとうは

森の端っこを流れる小川の、日当たりのよい場所に群生していた。


ああああ



熊はのびをひとつして歩き出した


小川の水に映った自分の姿を見た

いつになったら人間に戻れるんだ?

熊はむかし何の変哲もない、森林組合に勤める、

あるひとりの中年男だった。

 

自分が熊になったのはいつなのか思い出せない



あるひ突然、自分は熊なのだ、と悟った。

それは離婚届けを出しに、村の役場に行ったときだった。

なぜか役場は休みだった。

そうか、きょうは平日だけど祭日で休みだったんだ。

熊はやっと理解した。

もと女房とのいさかいに疲れて、家の中を出たり入ったりしているうちに

きょうが何の日だったかなんてすっかり忘れていたのだ。

熊はいらだった。

離婚届の薄っぺららい用紙をたたきつけた。

離婚用紙は秋風に乗って、ふわりふわりと空を舞った。

ちくしょう、どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。


熊は風に舞う用紙を捕まえようとして役場の裏側に回った。

用紙は役場の裏の事務所の窓に張り付いた。

それを抑えようとして、思い切り腕を振り上げ、ガラス窓に打ち下ろした。

窓ガラスは派手な音をして割れた。

用紙はふわふわと秋の空高く、舞いながらどこかに消えていった。



突然、発砲音がした。



熊だ!といかつい男の声がする。

男は猟友会の会員だった。

猟銃を至近距離から熊に向けて発砲した

熊はおどろき、小さな目を見開いて

役場の事務所の裏山に駆け込んだ。



走った。走った。走りこんでくたくたになって頭の中が

真っ白になるまで遠くに行った。


そこが熊がすむことになった、この森の中だった。


熊は自分が熊だとは長い間、気がつかなかった。

本当は気づいていた。でもそれを認めたくなかった。

だが、ただじっとしていると腹が減る。

森のなかにはどんぐりが落ちていた。

熊はどんぐりを拾い、殻を上手に割って食べた。

渋い、というより香ばしく美味しく感じられた。


それで改めて気がついた。



自分は熊になったのだと。



冬眠から醒めたきょうが何日なのかわからない。

いったい何回の冬をこの森で眠りながら越したのかわからない。

熊はあくびをした。

そして宅地開発がすすんで、里山が徐々に狭まっていくのを

悲しみを覚えながら、えさをとりに川を下っていった。



かさり、と音がした。



ひとりの十五、六くらいの少女が、小川の袂でふきのとうとりに

いそしんでいた。



熊はびっくりして藪にひそみ、その少女の様子を伺った。



やわらかなほお、しろい首筋、薄い茶色の素直な長い髪

少女の姿は前にも見かけたことがあった。

熊は覚えていた。この冬を迎える前の夏。


やはり少女をこの場所で見た。

そのときは麦藁帽子をかぶっていた。

少女はこの小川のほとりで、腰を下ろし

麦藁帽子を脱ぎ、水に手を入れた。

ぬらした手で、髪の毛を耳にかけた。

しろい耳たぶがやわらかそうにふるふる揺れるのを

彼は見た。



きれいだ、と思った。




熊はずっと少女を見ていた。

少女は歌を口ずさんでいた。

何の歌だかわからない。

けれど、その澄んだ夏の高原を吹く風のような響きに

熊はうっとりと聞きほれた。




忘れていた、なにかが思い出せそうだった。


熊のむねにぽっと灯となりともった感情、それは人を恋う心だった。




自分はもと、人間だったかもしれない

そのとき熊はかつて人間だったことをふと思い出した。




人間だった頃



熊は仕事が終わるとよく酒を飲んだ。

浴びるほどのんで、くだを巻き、彼のそばに居る人間に

殴りかかった。

その被害を一番浴したのが

彼の妻だった。



あんた、アル中だよ・・・・



妻は悲しそうに言った。



酒を飲まないときの熊は

人がよく、だれにも優しく、頼りがいのある

力持ちの労働者だった。

森林組合ではよく働くのでしばしば報奨金をもらった。



だけど、それをもらうたび

熊は酒に変えて、妻には何一つ買ってやらなかった。



妻はとても美しい女だった。


村一番の美人だった。



熊が若い頃、妻と結婚したときは

村中の人間が、強い男と、美しい女の組み合わせを

喜んだものだ。さぞかしきれいな女の子か、

力の強い立派な男の子が授かるだろう、と。



しかし、女房はうまづめだった。



こどもが生まれなかったのだ。



同時期に結婚した森林組合の同僚が

子宝に恵まれるのを見て、熊は落ち込んだ。

子供のできない美しいだけの役立たずの女房を疎んじた。




役立たず!

そうののしるたび妻は知小さく縮んでいった。

やがて熊の暴力と生活苦から

気がおかしくなっていった。



それでますます熊は荒れた。



女房は以前の美しさの影をひとつも残さない

老婆のような姿になった。

髪を振り乱し、衣服はかまわず、

風呂に入らず、ただ毎日ぐったりして

とこに横たわるだけになった。




おれは老婆と結婚したわけではない

お前のような役立たずは

狂った人間のいく病院で一生反省して暮らせ!

男はそういって

女房に離婚届けに判子を押させて

病院にぶち込んだ。


そして一回も顔を出さずに、毎日酒を飲んで暮らしていた。




男の所業はやがて森林組合の上司の耳に入り

すまないけど、やめてもらえるかな?仕事

今、若い人間を雇うんで君のような年かさの人間は

不要になるんだ。

とあっけなく首にされた。




なにもかも終わった、と熊は思った。





そうだ、それで熊になったんだ




熊はぼんやり自分の過去を思い出していた。





少女の姿がまぶしかった。




熊の視線に気づいて少女はきょろきょろあたりを見回した。


そして、藪の陰に熊がいるのに気がついてにっこり笑った。




「こんにちは、くまさん」

少女はよくとおる、澄んだ声で熊に挨拶した。




「探していたの」


熊は怪しんだ。



少女が自分に話しかけてくるなんてありえない。



だいたい、自分は熊なのだ。人間の言葉なんてとうに忘れている。




「覚えてるわ、熊さん、去年の夏もここでわたしを見ていましたよね」


知ってたのか?熊は驚いた。



少女は笑った。えくぼがでて、八重歯の少しのぞく口元が愛らしかった。


「ええ、知っていました。でも熊さんが恥ずかしそうに隠れていたから、あえて声をかけたりしなかったのよ」


そして少女は、こう言った。

「病気ばかりしている、お母さんのためにお母さんの好きな食べ物を集めて森をさまよってるの」

キミのお母さんは、病気なのかい

熊は尋ねた。


「そうなの。色々気を使って料理をこさえるんだけど、この森で採れた食材以外は口にしないの」


と、少女は悲しそうな顔をしてそう言った。


そうか。と熊は言い、じゃあいわなはどうかな?と


言うなり、川に飛び込んだ。


そしてバシャバシャと短い腕を振り回して、岩の影で眠っている立派ないわなを何匹も何匹も捉えた。


「ありがとうございます。おじさん、でもそんなにいわな、要らない。お母さん食がほそいし、一匹でいいの」


と、少女は言った。


おじさん?


熊はいぶかり、済んだ川の面に自分の影を映してみた。


どこから、どうみても熊にしか見えなかった。真っ黒い毛並み、尖った小さな耳、釦のような瞳、短い腕に鋭く尖る爪。


「おじさん、ありがとう。今日はもう帰ります」

少女はそう言って、いわなを小さなバケツに入れて、立ち上がった。


ちょっと待って、お嬢さん、キミには僕がただのおじさんに見えるのかい?


熊はそう尋ねたかったが、言いよどんだ。


そして、かわりに、 「それは良かったね…お母さんの病気、お大事にね」


と言って微笑んだ。



今、笑ったぞ?

熊は自分の顔が笑っているのがわかった。熊になるだいぶ以前から、熊は笑ったことなどなかった。


いつでも、愚痴と文句ばかり垂れ流して、酒を飲み、暴れて眠るのがおちだったのだ。それがどうだ、今、俺は笑ったぞ。


熊は自分が人間だったことに感動を覚えた。



そうか。それならまだやり直せる。


熊は走った。あのとき、猟友会の猟師に発砲されて、森に逃げ込んだ、あのときと逆の道を。



走って走って、目の前に白い、トビモノが見えるくらい、走りこんで、とうとう熊は、元住んでいた、彼の家までたどり着いた。



あのとき、まだ離婚届けは出していなかったのだ。



妻に謝ろう。許しを乞おう。そしてもう一度生まれ変わって、やり直したいのだ。と、正直に妻に白状しよう。


そして、以前住んでいた、丸太で作った、ちいさなログハウスの家のドアを叩いた。


熊だ。声がした。


中から、若い立派な体つきの顔の麗しい 男が、猟銃を持って、扉を開いた。


瞬間、熊はあの少女が家の中に居て、おびえた顔で、ことの成り行きを見守っているのを目にした。

発砲した銃弾は10発で、致命傷を受けた熊は、血まみれになって、その場に倒れ込んだ。



死んだの?


中にいた少女は恐々と、熊を見下ろした。


じゃあ、今夜は熊鍋だね…お父さん。


少女はにっこり微笑んだ。

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