義妹に婚約者を譲りましたが、彼が抱えていた莫大な借金までは知りません!
「お姉様! わたくし、ジェラード様を愛してしまいました!」
夕食の席で、異母妹のリリシアが突然そう叫び出した。
私——アメリイ・リヴァーフォールは、パチパチとまぶたを瞬かせる。
「リリシア、いきなり何を言っているんだ。ジェラード殿はアメリイの——」
「ええ知っていますわ。ですが、恋心は抑えきれません! それにジェラード様も、わたくしを愛してくださっていますわ。ねえ、ジェラード様?」
リリシアの隣には、いつの間にか招かれていた婚約者——ジェラード・ラングフォード伯爵令息が、ごく自然な顔で腰を下ろしていた。
「……ああ。すまない、アメリイ。リリシア嬢の明るさに、私はすっかり心を奪われてしまった」
ジェラードはそう言って、申し訳なさそうに眉を下げた。
彼の視線が、リリシアの胸元に飾られたルビーのネックレスに注がれている。
「アメリイ」
継母のドロテアが、ハンカチで口元を押さえながら、芝居がかった溜息をついた。
「あなたも年頃の娘ですもの、わかるでしょう? 愛のない婚約に縋りつくほど、あなたは見苦しい子ではないはずよ。リリシアに譲ってあげなさい。そして——そうね、あなたはこの家を出て、どこか静かな場所で暮らすのがいいんじゃないかしら。私たちも、これ以上あなたに辛い思いをさせたくないのよ」
辛い思い、ね。
この十年間、私に辛い思いをさせ続けてきたのは、他でもないあなたたちなのですけれど。
父はばつの悪そうな顔で、ワイングラスを傾ける。
私はうつむいて、長い前髪で表情を隠した。震える肩は、悲しみのためではない。込み上げる笑いを必死に堪えていたからだ。
ジェラード・ラングフォードの実家——ラングフォード伯爵家が、表向きの華やかさとは裏腹に、莫大な借金を抱えた泥舟であることに、私は半年も前から気づいていた。
きっかけは、些細なことだった。
去年の秋、ジェラードが我が家を訪れた時。彼が身につけていた懐中時計の鎖は、よく見ると金メッキが剥げかけていた。次の月には、その鎖は別の物——明らかに質の落ちる銀製のものに変わっていた。さらに翌月、彼の乗ってきた馬車の車輪は、新しいけれど安物の作りに替わっていた。
貴族の坊ちゃんが、わざわざ持ち物を「下げる」など、よほどのことがない限りあり得ない。
少し腰を入れて調べたところ、ラングフォード伯爵家がここ数年、領地経営に失敗し続けて深刻な負債を抱えていることが判明した。社交界では誰もが知らないふりをしているが、知っている者は知っている、という類の話だった。
だから私は、ジェラードが妹に近づき始めた時、止めなかった。
むしろ「どうぞお好きに」と心の中で道を譲った。
——あの泥舟の切符を、自分から欲しがってくれる人がいるなら、こんなにありがたいことはない。
「……わかりました」
絞り出すような声を作って、私は答えた。
「ジェラード様のことは、お慕いしておりました。ですが、お二人がそれほどまでに想い合っていらっしゃるのなら、私が身を引くのが筋でしょう」
「お姉様!」
リリシアが感極まったように叫ぶ。
「ありがとうございます! わたくし、ジェラード様と幸せになりますわ!」
ええ、せいぜい頑張ってちょうだい。
あなたが手に入れたのは、煌びやかなドレスを纏った——どす黒い泥舟なのだから。
「ですが、お父様、お義母様。お願いがございます」
私は顔を上げた。涙の代わりに、できる限り殊勝な表情を浮かべて。
「家を出るにあたり、二つのものをいただきたいのです」
「何かしら?」
「一つは、亡き母が私個人に遺してくださった資産を頂きたいのです」
ドロテアの眉が、ぴくりと動いた。
「あら、そんなの当然のことではなくて? あれはもともとあなたの物でしょう」
そう、当然のことだ。けれど、何も言わずに出ていけば、あなたはきっとそれを「忘れた」ふりをしただろう。だから、今ここで、父とジェラードという証人の前で言質を取らせてもらう。
「ありがとうございます。そしてもう一つは——」
私は一呼吸置いて、はっきりと言った。
「私と、リヴァーフォール家との『絶縁状』を」
食卓に、しん、と沈黙が落ちた。
「絶縁状、ですって?」
ドロテアの声が、わずかに上ずった。
「ええ。そうすれば、私も心置きなく新しい土地で暮らせますし、何より——」
私はリリシアに、優しい笑顔を向けた。
「妹の幸せな結婚生活に、姉という存在が影を落とすことがありませんわ。元婚約者の姉がいるとなれば、外聞が悪いでしょう?」
「お姉様……!」
リリシアは感激したように目を潤ませた。なんて純粋なのかしら。いや、なんて単純なのかしら。
ドロテアは、束の間考え込むように視線を泳がせた。けれど、彼女の頭の中では算盤がはじかれているに違いない。
——目障りな前妻の娘を、合法的に、永久に追い出せる。
——しかも、向こうから言い出したのだから、世間的にも自分たちは被害者面ができる。
——なんて素晴らしい提案かしら!
「……いいでしょう」
ドロテアは、ようやく口を開いた。
「あなたの覚悟、しかと受け取りました。明日にでも手続きをいたしましょう」
「ありがとうございます、お義母様」
私は深々と頭を下げた。
下げた頭の下で、私はこの十年間で一番美しい笑顔を浮かべていた。
§
母が遺してくれた資産は、想像していたよりもさらに莫大だった。
ドロテアは一瞬「これはやりすぎたかしら」という顔をした。けれど、もう遅い。絶縁状にはすでに父の署名が入り、ドロテアの署名も、そして私自身の署名もしっかりと記されている。第三者立会いの正式な書類は、もはや誰にも覆せない。
「アメリイ。達者でな」
馬車に乗り込む私に、父はそれだけを告げた。十年前、母が亡くなる少し前まで、あれほど私を可愛がってくれていた父の言葉とは思えないほど、軽い別れだった。
けれど、それでよかった。
未練など、もう一片も残っていない。
「お父様も、お義母様も、リリシアも、お元気で。——ジェラード様も」
私は窓越しに、見送りに来た面々を見渡した。リリシアの隣に立つジェラードが、わずかに気まずそうに視線を逸らした。
今さら良心が痛むのかしら?
だったら、最初から手を出さなければよかったのに。
馬車が動き出す。窓の外を流れていく王都の街並みを眺めながら、私は深く息を吐いた。
馬車が向かう先は、遠く離れた港町ヴェルナード。かつて本で読んで、ずっと憧れていた海の見える街だ。
私は膝の上で、母の遺産と大切な書類が入った鞄をぎゅっと抱きしめた。
誰の伝手もない見知らぬ土地だけれど、不思議と不安はなかった。
私の新しい人生が、ここから始まるのだ。
§
ヴェルナードは、想像していた以上に美しい街だった。
潮風の匂い、白い壁の家々、青い屋根、活気のある市場。王都の重苦しい貴族社会とは、まるで別世界だった。
当面の滞在先として泊まった小さな宿屋の女将——マリアンヌおばさまは、訳ありで一人旅をしてきた私を詮索することもなく、実の娘のように温かく世話をしてくれた。
この街がすっかり気に入った私が、母の遺産を元手にカフェを開きたいと打ち明けると、おばさまは「それは素敵ね!」と手を叩いて喜んでくれた。
「だったら、うちの宿の一階の空きスペースを改装して使わない? 観光客もたくさん来るから、きっとうまくいくわよ」
おばさまの後押しもあって、半年後には、港町ヴェルナードの一角に小さなカフェがオープンした。店の名前は『マレーヌの庭』——亡き母の名前から取った。
最初はおばさまの宿の客が中心だったが、私が王都仕込みの茶葉と焼き菓子を出すと、評判は瞬く間に広がった。気がつけば、地元の女性たちや旅人で店はいつも賑わうようになっていた。
朝、市場で新鮮な果物を仕入れ、午前中は焼き菓子を準備し、午後は店に立つ。夜はおばさまと夕食を囲み、本を読んで眠る。
なんて穏やかな日々。なんて自由な日々。
誰かに気を遣わなくていい。誰かに陰口を叩かれなくていい。誰かに邪険にされなくていい。
私はようやく、息ができるようになった気がした。
そして——ヴェルナードでの暮らしが一年を過ぎた、ある春の午後のことだった。
カフェの常連であるおしゃべり好きな商人のおばさまが、噂話を運んできた。
「ねえ、アメリイちゃん。聞いた? 王都のラングフォード伯爵家、潰れたんですってよ」
私はカップを磨く手を止めた。
「あら、そうなんですか?」
「ええ、もう何年も前から借金まみれだったらしいわよ。最近ようやく表沙汰になって、債権者が押し寄せて、屋敷も領地も全部差し押さえられたんですって。可哀想に、若い奥様もいらっしゃったのに」
若い奥様。
——リリシアね。
「奥様の実家——リヴァーフォール家っていったかしら? そこも肩代わりしようとしたみたいだけど、結局払いきれなくて、こっちも傾いているって話よ。なんでも、伯爵家のほうの借金が想像以上で、底なし沼のように吸い込まれていったらしいわ。可哀想にねえ」
可哀想に、ねえ。
私は微笑みを浮かべて、お茶のおかわりをおばさまのカップに注いだ。
「世の中、何があるかわかりませんね」
「本当よねえ。明日は我が身だわ」
おばさまが去った後、私は窓辺の席に座って、ゆっくりと自分のカップに紅茶を注いだ。
外では、春の日差しが石畳をきらきらと照らしていた。海から吹いてくる風は、まだ少し冷たいけれど、確かに季節の変わり目を告げていた。
一口、紅茶を飲む。
いつもより、ずっと美味しい気がした。
§
それから半月ほど経った、雨の降る午後だった。
カフェの扉が、控えめに開いた。
「いらっしゃいませ——」
声をかけて、私は固まった。
びしょ濡れの、ボロボロの服を着た、四人の男女が立っていた。
最初は誰だかわからなかった。やつれた頬、落ち窪んだ目、薄汚れた髪。けれど、その四人の顔を一人ずつ確認していくうちに、私は静かに息を呑んだ。
父。継母のドロテア。妹のリリシア。そして、元婚約者のジェラード・ラングフォード。
「……アメリイ」
最初に口を開いたのは、父だった。十歳は老け込んだような顔で、震える声で私の名を呼んだ。
「会いに、来た」
私は何も答えなかった。ただ、店の入り口に立ち尽くす四人を、じっと見つめていた。
幸い、店内には他に客がいなかった。雨のせいで、午後の客足が途絶えていたのだ。神様も、なかなか粋な計らいをしてくれる。
「お姉様……!」
リリシアが、ふらふらと前に出てきた。あの華やかだった金髪は艶を失い、自慢だった豊かな胸元のドレスは、薄汚れたよれよれの平民服に変わっていた。
「お姉様、助けて……! わたくしたち、もう何も持っていないの……!」
「ねえ、アメリイ?」
ドロテアが、リリシアの肩を支えながら声を張り上げた。一年前の傲慢さが嘘のように、その声には媚びと焦りが滲んでいた。
「家族なのだから、助けてくれるわよね? あなた、この街でカフェを経営しているそうじゃない。前妻——いえ、お母様が遺してくださったお金が、まだあるのでしょう?」
私はゆっくりと、エプロンで手を拭いた。
そして、カウンターの引き出しから、一通の書類を取り出した。
——『絶縁状』。
私はこれを、ヴェルナードに来てからずっと、肌身離さず大切に保管していた。
いつか、この日が来ることを確信していたから。
「お父様。お義母様。リリシア。そしてジェラード様」
私は、努めて穏やかな声で言った。
「申し訳ございませんが、私はあなた方とは『法的に赤の他人』でございます」
書類を、四人によく見えるようカウンターの上に置く。そこに記された署名と捺印を見て、ドロテアの顔が、見る見るうちに青ざめていった。
「な……何を言って……これは、ただの紙切れで——」
「いいえ、お義母様」
私は静かに首を振った。
「これは、お義母様ご自身が望み、お父様が承認し、そして私が受け入れた、完全に有効な絶縁状です。私はもう、リヴァーフォール家の人間ではありません。父も、義母も、妹も、私には存在しないのです」
「そんな……!」
リリシアが、悲鳴のような声を上げた。
「そんな、お姉様、ひどい! 家族でしょう!?」
家族。
私は、その言葉に、思わず笑ってしまった。
「家族として扱ったこともないくせに」
「お、お姉様……?」
「ジェラード様」
私は、ずっと黙り込んでいる元婚約者に視線を移した。
「あなたが本当に愛していたのは、リリシアでしたか? それとも、リリシアの後ろにあるリヴァーフォール家の財産でした?」
ジェラードは、ぴくりと肩を震わせて、それでも顔を上げなかった。
「沈黙ですか。情けない人……」
私は、ゆっくりと四人を見渡した。
「あなた方は、自分たちの欲望のために、私を切り捨てた。そして、その結果として全てを失った。それは、私のせいではありません。あなた方自身が選んだ道です」
「だ、だが、アメリイ——」
父が、すがるように手を伸ばそうとした。
私は、その手を見て、ふと胸が痛んだ。本当にわずかに、本当に一瞬だけ。
——けれど、それも昔の話だ。
「お父様。私は十年前、母が亡くなった時に、あなたを失いました。新しい妻を迎えたあなたが、私の頭を撫でることをやめた、あの日に」
父の手が、空中で止まった。
「どうぞ、ご家族で助け合って借金を返してくださいませ。私は、私の人生を生きていきます」
私はそう言って、入り口の扉に視線を向けた。
「ご用件がそれだけでしたら、お引き取りください。ここは私の店です。お代の払えないお客様は、お通しできません」
四人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、ドロテアが何か言いたげに口を開きかけたが、私は首を振って制した。
「お義母様。これ以上は、衛兵を呼びますわ。ヴェルナードの衛兵は、私の常連客でもありますの」
それは半分は本当で、半分は脅しだった。けれど、効果は十分だった。
ドロテアは唇を噛み、リリシアの腕を引いた。リリシアは「お姉様、お姉様」と泣き叫びながら、それでもドロテアに引きずられるようにして、店を出ていった。ジェラードは最後まで一言も発さず、ただ俯いて、四人の後ろをついていった。
父だけが、最後にもう一度、私の顔を振り返った。
私はその目を、まっすぐに見返した。
何の感情も込めずに。
父は、何も言わずに、雨の中へと消えていった。
§
扉が閉まる音とともに、店の中に静けさが戻ってきた。
私は、しばらく扉の方を見つめていた。それから、ふう、と長い息を吐いた。
不思議と、胸はすっきりしていた。怒りも、悲しみも、未練もなかった。ただ、長年抱えていた小さな結び目が、ようやくほどけたような——そんな感覚だった。
カウンターに戻り、紅茶のポットを温め直す。新しいカップを取り出して、お気に入りのアールグレイを淹れる。
窓辺の席に座って、雨に濡れる石畳を眺めながら、ゆっくりとカップを口に運ぶ。
「——アメリイちゃん、お客さん、もう帰っちゃったの?」
奥から、マリアンヌおばさまが顔を出した。
「ええ。道に迷ってしまった方々だったみたいです」
私は微笑んで、答えた。
「それは大変ねえ。雨だし、可哀想に」
「ええ、本当に」
おばさまは、私の隣の席に腰を下ろして、自分のカップに紅茶を注いだ。
「アメリイちゃん、最近ね、街の若い船大工さんが、あなたのこと気になってるって言ってたわよ」
「あら、また縁談ですか?」
「うふふ、いいじゃない。あなた、そろそろ幸せになってもいい頃よ」
私は窓の外を眺めながら、小さく笑った。
幸せ。
幸せ、か……。
私はもう、十分に幸せだ。
母が遺してくれたこの居場所で、好きな仕事をして、優しい人たちに囲まれて、毎日美味しい紅茶を飲んでいる。
これ以上の幸せが、本当にあるのなら——
その時はその時で、また考えればいい。
雨が、少しずつ小降りになってきた。
雲の切れ間から、淡い春の日差しが差し込んで、濡れた石畳をきらきらと光らせていた。
私は、亡き母に向かって、心の中でそっと呟いた。
——お母様。私、ようやく、自由になりました。
カップの中の紅茶は、いつもよりずっと、温かく、美しい琥珀色をしていた。




