第1話 剣よりも強きもの【隣領との漁業権問題】
大陸の片隅にある、山と川に囲まれた小さな領地。
ここを治めるヴァルムシュタット伯爵家は、代々、武勇で名を馳せてきた一族だ。
当主である父は、かつての大戦で英雄と呼ばれた男。二人の兄もまた、剣を持たせれば百人力の猛者である。
だが、三男である僕、アレイン・フォン・ヴァルムシュタットだけは違った。
「ぶはははは! アレイン、またそんなカビ臭い本を読んでいるのか!」
豪快な笑い声とともに、扉が勢いよく開く。
現れたのは、熊のような巨体を揺らす父、ギルベルトだ。
「……父上。これは三百年前の判例集です。面白いですよ」
「俺にはさっぱりわからん! 剣の一振りもできんお前が、まさか本の虫になるとはなぁ」
父は僕の背中をバンと叩く。痛い。骨がきしむ音がした気がする。
僕は二十歳になったが、剣の腕はからっきしだ。一般兵と戦っても負ける自信がある。
それでも父は、僕を疎むことはしなかった。
「まあいい。剣で勝てばいいのが戦だが、アレインは紙で勝てるかもしれんからな!」
父はそう言って笑い飛ばすが、まさかその言葉が、すぐに試されることになるとは思っていなかっただろう。
◇◆◇
事件は唐突に起きた。
隣の領地を治めるグランデル家から、一通の書状が届いたのだ。
内容は、『損害賠償請求』。
父が顔を真っ赤にして、書状を机に叩きつけた。
「ふざけるな! 金貨五百枚だと!? そんな大金、払えるわけがあるか!」
金貨五百枚。
伯爵家とは言え、うちのような貧乏貴族にとっては、領地の年間予算に匹敵する額だ。
領民から納められるのは、麦などの物納がほとんどであり、貨幣はあまり流通していない。
まあ、日常で使う鉄貨や銅貨はあるのだが……。
僕は静かに書状を拾い上げ、中身に目を通す。
「……理由は、漁業被害ですね」
訴えてきたのは、隣領の領主、ルーファス・フォン・グランデル。
表向きは温厚な紳士として知られているが、裏では法の抜け穴を使って他家を食い物にする『訴訟ゴロ』という噂がある男だ。
「うちの領地は川の下流にあります。上流にあるグランデル領が言うには、『下流で魚を獲りすぎたせいで、上流への遡上が減った。よって損害を賠償せよ』とのことです」
「言いがかりだ! 魚なんて川の恵みだろうが!」
「ええ。ですが、向こうは王都の高等法廷に訴えを出しました。法廷で決着をつけるしかありません」
父は頭を抱えた。
剣なら負けない。だが、法廷という戦場では、父の武勇は何の役にも立たないのだ。
(……僕が出るしかないな)
僕は書状を丁寧に畳んだ。
震える手で剣を握ることはできない。けれど、この紙切れと論理で戦うことなら、僕にもできる。
◇◆◇
数日後。
両家の境界近くに設けられた簡易法廷には、緊張が張り詰めていた。
正面の席には、王都から派遣された書記官、マルセル・クローヴァンが座っている。眼鏡をかけた冷徹そうな男で、感情を表に出さずに書類を整理している。
そして右側の席には、優雅に微笑むルーファス伯爵がいた。
「やあ、ギルベルト殿。わざわざご足労いただき恐縮ですな。なに、金貨五百枚さえ支払っていただければ、すぐにでも和解いたしますよ? これも長年のよしみだ、分割払いでも構いませんが?」
ルーファスは、さも慈悲深い提案かのように言ってみせるが、その目は笑っていない。
父は悔しそうに拳を握りしめているが、ここで暴れれば即座に負けが決まる。
僕は父の前に進み出た。
「……交渉の代行を務めます、三男のアレインです」
「おや、あのか弱そうな坊ちゃんか。まあいいでしょう」
ルーファスは鼻で笑うと、書記官マルセルに向かって朗々と語り始めた。
「書記官殿。事実は明白です。川は両領の共有財産。しかるに、下流のヴァルムシュタット家が乱獲を行ったため、我が領の漁獲量は激減しました。これは明白な権利侵害です」
彼はそこで言葉を切り、わざとらしい溜息をついてみせた。
「まあ、下流の痩せた土地に住む貧しい民のことだ。生きるために必死で、川の魚を根こそぎ獲ってしまうのも、わからなくはありませんがね。野蛮な行いとはいえ」
「貴様ッ……!」
父が椅子を蹴りかけるが、僕は片手でそれを制した。
マルセル書記官は、淡々とペンを走らせる。
「……ふむ。一理ありますな。慣習法において、共有資源の乱用は制限されるべきです」
法廷内がざわめく。傍聴席からは「やっぱり駄目か」「武人は法では勝てん」といった諦めの声が漏れ聞こえてくる。
マルセル書記官が眼鏡の位置を直し、冷たく言い放った。
「ヴァルムシュタット家には反論の余地がないように見受けられます。これ以上の審理は時間の無駄でしょう。和解を強くお勧めします」
その言葉に、ルーファスが勝ち誇った顔をする。
父が青ざめ、力が抜けたように肩を落とした。
法廷の空気が、完全に相手側に傾き、誰もが敗北を確信したその時だ。
「――お待ちください」
僕は静かに手を挙げた。
そして、鞄から一冊の古びた書類を取り出す。
「ルーファス殿。あなたは、『共有財産』とおっしゃいましたね?」
「いかにも。それが何か? まさか今さら、川は自分たちのものだと言うつもりかね?」
「いいえ。ただ、この川における『漁業権協定』の改訂年をご存知ですか?」
ルーファスが眉をひそめる。
「……か、改訂年? 三百年も前の古い協定だろう。それが今の被害と何の関係がある」
「大いにありますよ」
僕は書類を開き、ある一文を指さした。
それは、三百年前に両家の先代同士が結んだ、黄ばんでボロボロになった協定書だ。
「第三条四項。『本協定は百年ごとに見直しを行うものとする』。そしてここです。『もし改訂手続きがなされなかった場合、上流の領地は下流の漁業量を優先し、自領の漁獲を制限せねばならない』」
シン、と法廷が静まり返った。
さきほどまでのざわめきが嘘のように消え失せる。
ルーファスから笑顔が凍りついたように消えた。
「……な、なんだそれは」
「つまり、更新手続きを怠っていたあなた方の過失です。改訂されていない以上、三百年前の『上流が制限を負う』というペナルティ規定は、現在も有効なんですよ」
僕は淡々と、しかしはっきりと告げた。
ルーファスは慌てて自分の手元の資料を漁るが、そんな条文はどこにも載っていないのだろう。彼が見ているのは自分に都合の良い『権利』の書類だけだ。
僕が読んできたのは、埃を被った『義務』の記録だ。
「ば、馬鹿な! そんな古い規定、無効だ!」
「いいえ。この国では『慣習』と『過去の契約』が法的効力を持ちます。違いますか、マルセル書記官?」
話を振られたマルセル書記官は、眼鏡の奥の目を丸くしていた。
彼は僕の差し出した協定書を食い入るように見つめ、やがて小さく頷いた。
「……有効です。契約書に不備はなく、双方の署名と印があります。更新を怠ったグランデル家側の、重大な契約違反となります」
ガタン!
ルーファスが椅子を蹴って立ち上がった。顔からは脂汗が噴き出している。
「そ、そんな……! 金貨五百枚どころか、私が制限を受けるというのか!?」
「ええ。これまでの違反分の計算も必要ですね。逆にこちらから請求させていただくことになるかもしれません」
(もっとも、戦乱続きで改訂どころではなかった時代の名残だ……知らないのも無理はないだろう)
僕の言葉に、ルーファスはその場にへたり込んだ。
◇◆◇
法廷からの帰り道。
夕日が差し込む馬車の中で、父ギルベルトは僕の肩をバシバシと叩いて喜んだ。
「ぶはははは! 見たかあの顔! いやあ、すっとしたぞ! まさか本当にお前が勝つとはな!」
「父上、痛いです……」
「しかし、よくあんな古い決まりを知っていたな」
父の問いに、僕は苦笑しながら答える。
「ただの本好きですよ。……剣を抜くより先に、あなたは条文を読んでおくべきでしたね。ルーファス殿には、そう伝えておきます」
(戦い方は、一つじゃない)
僕は馬車の窓から、流れる景色を眺めた。
剣も槍も使えないけれど、僕にはこの武器がある。
この国は、剣だけで回ってはいないのだ。
こうして、僕の『法廷無双』の幕が上がったのだった。
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