第9話:断ち切られる銀糸、そして静寂の王
因果の奔流
都庁前広場の空気は、もはや酸素ではなく純粋な魔力の粒子へと変質していた。
九条刹那が発動した新魔術『因果統括・遍く残照』。それは、彼がこれまでの戦いで積み上げてきたすべての「罪」と「救済」を現在の自分へとフィードバックさせ、存在の強度を神の領域へと引き上げる究極の自己定義だった。
「……ありえない。個の命が、これほどの因果の質量を保持できるはずがない!」
『運命の織り手』が、初めて余裕をかなぐり捨てて叫んだ。彼女が操る銀色の糸は、本来なら触れるだけで対象の運命をバラバラに解体し、存在を消滅させる絶対の法であるはずだった。しかし、今の刹那に触れた糸は、まるで鋼鉄の壁に叩きつけられた綿屑のように、音もなく弾け飛んでいく。
「織り手、あんたの言う『整理』は、結局のところ弱者からの略奪だ。……なら、僕がその糸をすべて引き受けよう。あんたが切り捨てようとした何千もの並行世界の嘆きを、僕のこの『一秒』の中に刻み込んでやる」
刹那が一歩踏み出す。その足跡から蒼い衝撃波が走り、広場を侵食していた銀色の光を力強く塗り替えていった。
刹那の背後には、彼がかつて倒した敵たちの影が、禍々しい亡霊としてではなく、彼を支える「力の一部」として寄り添っているように見えた。それは、罪を認め、背負うと決めた者だけが到達できる、裁定者の真髄。
「零司! 空間を固定しろ! 最大出力だ!」
「ふん、さっきからそのつもりだ! ――『空間絶対零度・因果凍結』!」
神崎零司が、全魔力を注ぎ込んで織り手の周囲の空間を氷結させた。単なる低温ではない。空間の振動そのものを停止させ、織り手の持つ「逃げ場」としての多重次元をすべて封鎖する。
「リナ、僕にすべての魔力を回せ!」
「わかった! ――『時空同調:リミット・ブレイク』!!」
リナの魔導具から放たれた極太の光の帯が、刹那の背中に翼のように広がる。仲間の信頼、そして救ってきた人々の想いが、刹那の『一秒の破片』に集束し、その輝きはもはや直視できないほどの純白へと近づいていった。
裁定の瞬間
刹那は『一秒の破片』を真っ向から振りかざした。
「……さようならだ、織り手。あんたが織った不自由な運命は、ここで僕が裁定する」
『……や、やめなさい! 秩序を壊せば、世界は――!』
「――時空超越、最終審判:『零点突破』!!」
刹那が振り下ろした刃は、光の柱となって織り手を貫いた。
それは破壊の衝動ではなく、絡まり合った運命の糸を一本ずつ丁寧に「解きほぐす」ような慈悲深い一撃だった。織り手が保持していた銀の糸が次々とほどけ、彼女が奪い取ってきた並行世界のエネルギーが、あるべき場所へと還っていく。
銀の鋏が砕け散り、織り手の体は光の粒子となって霧散していく。
最後に彼女の百の目が捉えたのは、絶望に沈む世界ではなく、刹那が切り拓こうとしている「混沌としているが自由な未来」の眩しさだった。
『……皮肉なものですね。……秩序の敵であるあなたが、最も……秩序の形を……』
その言葉を最後に、二柱目の番人は完全に消失した。
沈黙の支配者
織り手が消えた直後、都庁前広場に一瞬の静寂が訪れた。
勝利の余韻に浸る暇もなく、周囲の空気が一変した。
先ほどまで荒れ狂っていた魔力の奔流が、まるで何かに吸い込まれるように、一瞬で「無」へと帰したのだ。
「……何? 魔力の反応が、完全に消えた?」
リナが困惑した声を上げる。魔導具のメーターはゼロを指し、大気中のエーテルさえもが活動を停止している。
「……違う。消えたんじゃない。……『食われた』んだ」 刹那の言葉に、全員の視線が空へと向いた。
夜空を割っていた「次元の断層」が、ゆっくりと形を変えていた。
それはもはや亀裂ではない。巨大な、感情を持たない「瞳」のように見えた。 そして、その瞳の中心から、一人の男が静かに降臨してきた。
彼は一、二柱目の番人のような華美な法衣も、百の目も持っていなかった。
ただ、漆黒の簡素な長衣を纏い、銀色の長い髪をなびかせた、あまりにも人間らしい姿の青年だった。 だが、彼が放つプレッシャーは、これまでの敵とは次元が違った。彼が空中に佇んでいるだけで、周囲のビルが、瓦礫が、そして空気そのものが、音もなく「白紙」のように色を失い、消えていく。
「……理の番人が三柱目、『沈黙の支配者』。……いや、並行世界ではこう呼ばれている」
巫女の美遊が、ガタガタと震えながら『終焉の聖典』を開いた。
そのページは、今や真っ黒なインクで塗り潰されようとしていた。
「……『虚無の王』。……すべての可能性をゼロに還す、終焉そのもの」
王は、感情の欠片もない瞳で地上を見下ろした。
彼が口を開くと、声ではなく、世界の理が直接頭に響くような衝撃が走った。
『――裁定は、終わった。これより、全次元の白紙化を開始する』
「待て! 二人の番人を倒したはずだ! なぜ白紙化が止まらない!」 零司が叫ぶ。
『番人たちは、ただの観測者に過ぎない。……九条刹那。君が二人の番人を倒し、すべての因果を自らに統合した瞬間、この宇宙に「重すぎる特異点」が生まれた。君の存在そのものが、多層世界のバランスを最終的に崩壊させる最後の一押しとなったのだ』
王の言葉に、刹那は言葉を失った。
自分が強くあろうとしたことが、自分が世界を救おうとしたことが、皮肉にも世界の滅びを加速させてしまったというのか。
白に染まる新宿
王が静かに手をかざした。 「……無」
その一言で、都庁の半分が、音もなく消失した。
爆発も、衝撃もない。ただ、そこにあったという事実が、消しゴムで消されたように白く塗り替えられたのだ。 白紙化の波は、広場を飲み込み、逃げ惑う魔術師たちを「無」へと還していく。
「刹那! 下がれ! これは防御できない!」
冴子が叫び、魔法庁の全魔力を結集した防壁を展開するが、白紙化の波は防壁を透過し、彼女の足元まで迫っていた。
「……やめろ」
刹那が『一秒の破片』を構える。だが、先ほどまでの蒼い輝きが、王の放つ「無」の前では、今にも消えそうな蝋燭の火のように弱々しく見えた。
『抗いは無駄だ。九条刹那。君がどれほど時間を戻そうと、空間を固定しようと、「無」には干渉できない。君が創り出したすべての物語は、ここで終わる』
王の周囲から、白い鎖が放たれた。
それはリナを、零司を、そして冴子を捕らえ、その存在を少しずつ希薄にしていく。
「あ、ああ……! 刹那……!」 リナの体が透けていく。彼女が積み上げてきた刹那との思い出が、絆が、白紙の中に溶け出していく。
「リナ!!」 刹那が手を伸ばすが、彼の指先もまた、白くかすれ始めていた。
巫女の最後の裁定
その絶望の極地で、美遊が叫んだ。
「まだです! まだ、最後の一行が書き込まれていません!」
美遊は、黒く染まりきった『終焉の聖典』を、無理やりこじ開けた。
その最後の一ページ。そこには、王の力をもってしても消せない、眩いばかりの紅い文字が浮かび上がっていた。
【裁定者、絶望の果てに「無」を裁定す。……存在しない『第零の法則』を起動せよ。】
「……第零の法則?」 刹那が呆然と呟く。
「刹那さん、これは私たちがいた世界の、本当の希望です。……世界を救うのではなく、世界を『再定義』する力! 私の命を……私の存在のすべてを代価に、あなたに最後の一秒を託します!」
「美遊、何をするつもりだ!」
美遊の体が、美しい光の粒子となって砕け始めた。
彼女は記録者としての自身の存在すべてを燃やし、刹那の『一秒の破片』へと流れ込んでいく。
「……刹那さん。あなたが裁定してください。……この空っぽの世界に、どんな色を塗るべきかを」
「美遊――!!」
刹那の叫びが響く中、美遊は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、完全に消失した。
それと同時に、刹那の『一秒の破片』が、これまで見たこともない、七色の輝きを放ちながら膨張を始めた。
王の「無」が、その光に触れて初めて「揺らぎ」を見せる。
「……ほう。記録者の命を使って、存在しない法をデバッグしたか」
虚無の王が、初めて興味深げに目を細めた。
「……ああ、そうだ」
刹那は、消えかかっていた自身の体を、強引に「有」の状態へと固定した。
彼の瞳は、もはや絶望に曇ってはいない。美遊が命を賭けて遺してくれた、この『最後の一秒』を、彼は一分にも、一時間にも、そして永遠にも変える覚悟を決めていた。
「虚無の王……。あんたが世界を白紙に戻すと言うなら、僕はその白紙の上に、僕たちの物語を何度でも書き直してやる」
刹那の全身から、すべての並行世界の輝きを凝縮したような、虹色のオーラが立ち昇る。
戦いはついに、世界の存亡を懸けた最終局面――「第零法則」の裁定へと突入した。
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