第7話:歪む基点世界と、二つの正義
境界なき摩天楼
視界を埋め尽くしていた白光が収まったとき、九条刹那の鼻腔を突いたのは、焦げた匂いではなく、雨上がりのアスファルトの匂いだった。
「……帰ってきたのか。僕たちの『基点世界』に」
刹那は周囲を見渡した。そこは紛れもなく東京・新宿の都庁前広場だった。しかし、数時間前よりも事態はより深刻な段階へと進んでいた。
夜空には巨大な「亀裂」が蜘蛛の巣のように広がり、そこから漏れ出す不気味な燐光が、現実の風景を侵食している。隣接する高層ビルは、中央から斜めに断ち切られたように消失し、代わりに見たこともない超古代の石造寺院がその断面から突き出していた。空中に浮遊する列車の残骸、重力を無視して逆さまに流れる滝。複数の世界が強引に一つの座標に押し込められる『屈折現象』は、もはや隠しようのないレベルで都市を造り変えていた。
「刹那、無事!? ……っ、ここの空間密度、もう限界に近いわ。座標が常に数センチ単位で震えてる」
隣にいたリナが、自身の魔導具を叩きながら叫ぶ。彼女の髪は、時空の摩擦によって発生した静電気で微かに逆立っていた。
「ああ。零司、美遊、そっちは?」
「問題ない。だが、これを見ろ」
神崎零司が指差した先では、魔法庁の制服を着た魔術師たちが、市民を誘導しようと奔走していた。だが、誘導される側の市民たちの姿が、一歩歩くごとに「別の誰か」に切り替わっている。ある瞬間は現代の若者、次の瞬間には中世の農夫、その次は軍服を着た老兵。
「……存在の確定が間に合っていない。世界が誰を『この場所の住人』とするか、迷っているんだな」
刹那は自身の『一秒の破片』を握り直した。彼の『時間法則』は、この都市のあちこちで「悲鳴」のような因果の軋みを感じ取っていた。
秩序の崩壊、法の限界
魔法庁の緊急車両が、宙を浮く石材を避けながら一行の前に滑り込んできた。中から現れたのは、息を切らした霧島冴子だった。こちらの世界の、生きている冴子だ。
「刹那! 零司! 戻ったのね……! 連絡が途絶えてから三時間、こっちは地獄よ」
「冴子さん、状況を」
「都内全域で『空間の重なり』が起きてる。今のところ、死傷者は奇跡的に抑えられてるけど、それは『死ぬはずだった人』と『生きていた人』が入れ替わってるからに過ぎないわ。魔法庁の『法』じゃ、もう収拾がつかない。何しろ、どの世界の法律を適用すればいいのかさえ分からないんですもの」
冴子の顔には、かつてない疲労と焦燥が滲んでいた。魔術師たちの頂点に立つ彼女でさえ、この次元規模の災害には打つ手がない。
「理の番人が言っていた通りだ。この世界は、他者の犠牲の上に立っている贅沢な強盗犯……。その因果が今、一気に逆流してきている」
零司が苦々しく吐き捨てた。
「……零司、君らしくないな。法を司る者が、そんな迷いを見せてどうする」
刹那の冷徹な一喝が、その場の空気を引き締めた。刹那は美遊を振り返る。彼女は胸元で『終焉の聖典』を抱え、震える指で新たなページを指し示していた。
第二の柱:運命の織り手
【裁定者、原点へと帰還す。されど、理の天秤はなおも傾く。】
【第二の柱、顕現。――『運命の織り手』が、選ばれぬ糸を断ち切るために。】
美遊の声が響き渡ると同時に、都庁の屋上付近の空間が、巨大な「手」によって引き裂かれた。
そこに現れたのは、先ほどの『管理者の見せ物』とは比較にならない圧力を放つ存在だった。 純白の糸が幾重にも重なったようなドレスを纏い、顔には百の目が描かれた布を巻き付けた女性型の存在。彼女の手には、巨大な「銀の鋏」が握られていた。
『……基点世界の住人たちよ。あなた方は、あまりに多くの可能性を盗みすぎた』
その声は、街中のすべてのスピーカー、そして人々の脳内に直接響き渡った。
『私は理の番人が二柱目、『運命の織り手』。これより、絡まりすぎた運命の糸を整理し、不要な「あなた方」を切り離す。……それが、この宇宙の歪みを正す唯一の法です』
織り手が銀の鋏を虚空で一閃させた。 その瞬間、都庁周辺にいた数百人の魔術師や市民たちが、煙のようにその場から消滅した。破壊されたのではない。「最初から存在しなかった」かのように、彼らのいた場所だけが不自然な空白となった。
「なっ……! 一撃でこれだけの人数を『消去』したというのか!?」 零司が驚愕に目を見開く。
「……いや、違う。消去じゃない」
刹那の瞳が、織り手の背後に広がる「虚無」を捉えていた。
「彼女は、彼らの『存在権』を別の並行世界へと強制的に譲渡したんだ。この世界から彼らを追い出し、空いたスペースに『滅びた世界の住人』を詰め込もうとしている」
「そんなの、ただの入れ替えじゃない! 選ばれる側も選ばれない側も、尊厳なんて欠片もないわ!」
リナが激昂し、魔導具から高出力の魔力弾を放つ。
だが、織り手はその魔力弾を、鋏の先で優雅に受け止めた。
『抗いは無意味です。あなた方の世界が存続することは、他の何千もの世界の消滅を意味する。……どちらが「悪」かは、明白でしょう?』
刹那の裁定
織り手が再び鋏を構える。次の標的は、刹那たち、そして背後に控える魔法庁の防衛線だ。
「……悪、か。確かにそうかもしれないな」
刹那が静かに一歩前へ出た。 彼の周囲に、蒼い『時間法則』の粒子が、かつてない密度で集束し始める。
「僕たちが生きていることは、誰かの犠牲の上に成り立っている罪かもしれない。だが、それを選んで押し付けたのは、あんたたち『理の番人』だろう?」
『……何?』
「可能性を天秤にかけ、負けた方を切り捨てる。そんなシステムを管理しているあんたたちに、正義を語る資格はない」 刹那の瞳から、一切の迷いが消える。 「奪われた側も、奪った側も、等しく絶望している。……なら、僕が裁定するのは一つだけだ」
刹那が『一秒の破片』を織り手に向けて真っ直ぐに突き出した。
「あんたたちが決めた『天秤』そのものを、ここでへし折る。……犠牲を出さない方法は、僕がこれから考える。だが、あんたの勝手な『整理』は、ここで停止だ」
「――時空超越、絶対裁定:『因果拒絶』!!」
刹那の足元から、巨大な魔法陣が都庁前広場全体を覆うように展開された。 織り手が振り下ろした「存在を断ち切る鋏」が、刹那の放つ蒼い波動に接触した瞬間、キンッ、という鼓膜を劈くような高音が響き、その動きが完全に凍りついた。
「バカな……! 私の鋏は、宇宙の決定事項そのもの。それを、個人の意志で押し留めるだと……!?」
「決定事項なんて言葉は、未来を諦めた奴が使う言葉だ」
刹那は、零司から受け継いだ空間演算の全リソースを、自身の時間停止に注ぎ込んだ。 時間と空間。二つの理が完全に噛み合い、織り手の周辺だけが、この宇宙から独立した「特異点」と化した。
共鳴する力
「零司! 今だ!」
「……フン、言われずとも! ――『時空断裂・連鎖崩壊』!」
零司が織り手の足元の空間を多重に折り畳み、その存在の「固定」を揺さぶる。 リナもまた、美遊を保護しながら支援術式を展開し、刹那の魔力消費を肩代わりするように繋がった。
四人の力が一つに重なり、圧倒的な神威を放つ『運命の織り手』を押し返し始める。
だが、織り手の布に隠された「百の目」が、一斉に怪しく光り輝いた。
『……面白い。ならば見せてあげましょう。あなた方の「罪」の正体を。……この世界が救おうとしている「希望」が、いかに浅ましいものかを!』
織り手の背後の虚無から、新たな「影」が這い出し始めた。 それは、かつて刹那が救ったはずの人々、倒してきたはずの敵たちの「絶望した姿」の群れだった。
【第二の試練:深淵なる共業。】
【裁定者は、救済の代償として、自らが踏みつけてきた犠牲の山を直視する。】
美遊の本に刻まれた文字が、黒く染まっていく。 基点世界を守るための戦いは、これまでの物語のすべてを問い直す、最も過酷な精神的試練へと突入しようとしていた。
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