第9話 透き通ったセカイ
「……変だな」
トレセルがヴィーノの肩の上で毛を逆立てる。
「変だね……」
ヴィーノも応じる。
二人が新たにやってきたザイフザイの街は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。
空はまるで雲が消滅したかのように澄み渡っている。だが、そこにはヒト一人おらず、ただ奇妙な沈黙だけが支配していた。
「店が開いてるのに、店員も客もいねぇ。逃げた跡も争った形跡もない。まるで、最初から人間なんて存在してなかったみたいだ」
「そんな……」
ヴィーノは不安げに辺りを見回した。石畳の通りは整然としていて、家々も秩序だって並んでいる。
だが、その風景画のように整いすぎた静寂が、かえって不気味だった。
「ねぇトレセル、あの窓……」
家の窓ガラスに、自分たちの姿が映っている。だが、どこかおかしい。
毛玉は元々鏡には映らない。だが、ヴィーノがいる場所に映っているのも、背後の建物と道のみだった。
「ヴィーノ、お前……姿が、映ってねぇ」
トレセルの声に、背筋が冷たくなる。
「鏡面の異常か……いや、違う。まさか」
その瞬間、どこからともなく女の声が響いた。
「いらっしゃいませ、旅の方々。静寂の街へようこそ」
振り向くと、通りの真ん中に一人の女が立っていた。
薄い白布をまとい、まるで海月のように半透明の体をした女。髪は銀の霧のように揺れている。瞳も白目もなく、ただ双眸が青い光を放つ。
「私はノーディ。フェイドゥーラ様の影の一人……『透』のノーディと申します」
「ってことは、お前がこの街を……?」
トレセルが低く唸る。
「ええ。フェイドゥーラ様が降臨するにふさわしい舞台を作るため、私は『世界の歪み』を削いでいるのです。例えば人の存在そのものを、ね。人は、存在しているだけで世界を歪ませている。あの方が降り立つ場に、そんな歪みはふさわしくないのです」
「何勝手な事言ってやがる」
「トレセル、気をつけて」
ヴィーノが呟いた瞬間、ノーディの指先がふわりと動く。
光が一筋、空気を裂いて彼の頬をかすめた。
「っ!」
頬に冷たい痛み。そして、ヴィーノは違和感を覚えた。
触れた手が、自分の頬をすり抜けたのだ。
「トレセル……僕、手が、透けてる……!」
「ヴィーノ、お前、さっきよりもっと薄く……」
ノーディの唇が微笑む。
「フェイドゥーラ様は、軽やかな世界を望んでおられる。だから私は『歪み』すなわち『存在』を奪う。存在も記憶も命も、すべて……邪魔」
ヴィーノの腕が、指先から淡く透けていく。骨も血も見えず、ただ輪郭だけがぼやけた光に変わる。
「や、やだ……トレセル、僕、消える……!」
「落ち着け!まだ意識があるうちは存在してる証拠だ!」
トレセルが叫ぶが、ヴィーノの身体はゆっくりと透明に溶けていく。
「『消えて』もらいます」
ノーディは静かに告げる。
「何かの存在が消えれば、その分世界は澄み渡る。ここにあなたの居場所などありません」
「ふざけんな!」
トレセルが魔法陣を展開し、紅蓮の閃光を放つ。
だが、炎はノーディの身体をすり抜け、背後の家を焦がすだけだった。
「無駄です。あなたたちはもう、『表側』の存在じゃないから」
世界が歪む。音が遠のく。
街も空も消え、灰色の無音空間が広がった。
ヴィーノは半身を失いながらも、足を踏ん張った。
「怖いよ……トレセル……僕、このまま消えるのかな」
「ヴィーノ!」
トレセルはヴィーノの顔の前に回り込むと、彼の頬を前足で叩いた。
「お前、何のためにここまで来たんだ?お前の『存在』を決めるのは、他の誰でもねぇ!」
トレセルが叫ぶ。
「決めるのは、お前だ!」
その言葉に、ヴィーノは目を見開く。
「……ありがとう。僕、決めたよ」
「何をだ」
「僕に……《石化》をかけてくれ」
「……あ?」
「このまま薄くなるくらいなら、石になった方がいい。重さを失わないでいられるなら……僕は石がいい!」
「お前、正気か?」
「お願いだ、トレセル。僕にペトロスを!」
しばしの沈黙。
やがてトレセルは、小さく鼻を鳴らした。
「……覚悟、決めたか。なら、受け取れ!ペトロス!」
灰色の雲がヴィーノを包んだ。手足の皮膚が硬化し、透明だった手足の姿が再び出現する。
「ぐっ、はぁ……」
呼吸が重くなり、動くたびに鈍い音が鳴った。
それでも彼は目を開けたまま、立っている。
「トレセル……僕、まだ、戦える」
「無理すんなよ……!」
ノーディが笑う。
「石になったところで、存在は削れるのです」
「……なら、試してみろ!」
ノーディが指先から光線を放つ。だが、光線が当たっても石化した皮膚が透明化することはなかった。涼やかだった顔に焦りが浮かぶ。
「馬鹿な!私に消せない存在はないはず!」
「お前に僕は消せないさ。だって、僕はここにいるからね!」
「ひいい!」
ノーディが後ずさる。
「おっと、逃げるなよ。ペトロス!」
トレセルの魔法の雲がノーディを覆い、身体を硬化させる。
「ぐっ、お、重い……」
「いくぞ!」
ヴィーノが地を蹴った。
重い足音が響く。石の脚が地面を砕き、破片が宙を舞う。石化した痛みが体を襲う。だが、その痛みがある限り、自分は存在する。ヴィーノにはそう感じられた。
「トレセル、いくよ!」
「おうよ!」
ヴィーノは走りながら、白銀の剣と化したトレセルを掴む。
「これが――僕の『存在の重さ』だぁぁっ!」
渾身の一閃がノーディを縦一文字に斬り裂く。
「ぎゃああ!」
「砕けろ、虚ろな影っ!」
石となったノーディの身体に亀裂が走り、切断面から光が溢れ出す。
女の悲鳴が響く。
「フェイドゥーラ様……どうか、この身を……」
その声を最後に、彼女は粉のように崩れ去った。
静寂が戻る。
石畳の街並みが再び形を取り、空に風が戻った。
いつの間にか人々が現れ、話し声、笑い声が通りに満ちる。街は活気を取り戻していた。
トレセルが石化を解除すると、ヴィーノは膝から崩れ落ちた。
「……僕、まだここにいる?」
「いるさ。ちゃんとな」
トレセルが笑い、前足で彼の肩を叩く。二人は笑い合う。
だが、次の瞬間。
澄み渡っていた空に、暗雲が立ち込め、紫の稲妻が走った。
「魔力の波を、感じる。巨大な波を。まるで大津波だ。」
トレセルが眉をひそめる。
「……今の感じ、間違いねぇ。フェイドゥーラだ」
「大魔女が……動き始めてる」
ヴィーノは震える手を見つめた。
その掌に、まだ熱が残っていた。
消えることを拒んだ意志の熱。
それだけが、確かに彼の“重さ”を証明していた




