第49話 魂の適合
続く蒼い炎をくぐり抜けた、その瞬間だった。
足元から、大地が剥がれ落ちる。
「――っ!」
ホリーが反射的に跳び退こうとしたが、踏みしめるべき地面は、すでに存在していなかった。
落下感はない。風圧もない。支えという概念そのものが消失しているように思える空間。
地はない。
空もない。
上下左右、前後の区別すら曖昧な、無限の暗黒。
音すら、意味を持たない。
その中心に――
ゆっくりと、巨大な白い円環が浮かんでいた。
それは無数の魂の集合体。
光とも影とも言い切れぬ、半透明の意識の残滓。
叫びはなく、言葉もない。ただ、奪われ、縫い合わされ、擦り切れた「魂の原型」だけが、空間を満たしている。
「……ここは……」
ヴィーノの声は、闇に吸い込まれ、反響すら返ってこなかった。
次の瞬間。
――カチリ。
あまりにも小さな、金属音。
「……え?」
ヴィーノは自分の左腕を見下ろす。
銀の腕輪が、ひとりでに外れていた。
留め具が壊れたわけでもない。
引きちぎられたわけでもない。
それは黒く染まりながら静かに宙へ浮かび上がり、そして……
腕輪が外れた瞬間を狙うかのようにズブリ、と。
黒い影が、ヴィーノの身体の内側へ流れ込んだ。
「……っ!!」
息が詰まり、全身が硬直する。
喉から声にならない音が漏れ、瞳から生気が抜け落ちていく。
「ヴィーノ!?」
ホリーが駆け寄ろうとした、その瞬間。
肌を刺すような殺気が、空間を裂いた。
――近づくな。
言葉ではない。
本能そのものが、そう警告していた。
「くっ」ホリーがたじろぐ。
ヴィーノが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、感情がなかった。
温度も、揺らぎも、生の気配すらない。
ただ、底なしの深淵。
「……ふふ」
低く、濁った声。
決して、ヴィーノのものではない。
「この身体……やはり悪くない」
「……誰だ」
トレセルが一歩前に出る。尾が緊張で張り詰め、魔力が自然と循環を始める。
ヴィーノ――否、『それ』は、口角を歪めた。
「忘れたか? 一度会っているだろう」
胸に手を当て、淡々と名乗る。
「俺は七災禍が一角。『魂』のシェールだ」
ホリーの背筋を、冷たいものが走った。
「シェール……?」
「そうだ」
まるで天気を語るかのように、無感情に続ける。
「俺は魂を奪う。書き換える。上書きする。……そして、乗っ取る」
ヴィーノの身体が、本人の意思と無関係に一歩、前へ出た。
「待て! その身体は――」
「彼のもの、か?」
鼻で笑う。
「勇者よ。考えたことはないか。
なぜこの腕輪は外れるのか。
貴様の転生を妨害するためだけなら、外れる仕様にしなくてもよかろう」
トレセルの思考が、一瞬、停止した。
「……まさか……」
「そうだ。この少年がさらに幼き頃、腕輪を渡したのは俺だ。この体を『必要な時に、俺が使う』ためにな」
魂の円環が、脈打つ。
「この腕輪には、俺が『本来の』肉体の持ち主になるように呪いをかけてあった。今では肉体への適合率は、ヴィーノとやらより俺のほうが高い」
ホリーが叫ぶ。
「そんなの……!なぜ!」
「理由、か?」
シェールは首を傾げた。
「フェイドゥーラ様の邪魔になりそうなものを奪い、我がものとして利用する。それだけのこと」
ヴィーノの足元から、無数の魂の手が伸び上がる。
「くっ!」
トレセルが尾で弾き飛ばすが、魂は霧のように散り、即座に再構成される。
「無駄だ」
幾重にも重なる声。
「斬れるか?
壊せるか?
魂という『概念』を」
シェールが歪んだ詠唱を放つ。
「エンチャント……ソウル・ブレイク」
黒い衝撃波が放たれ、二人をまとめて吹き飛ばす。
「……がっ!!」
闇に叩きつけられ、視界が白く弾ける。
「弱いな」
シェールが近づく。
「魂の理解が、浅すぎる」
ホリーは歯を食いしばり、立ち上がった。
「……ヴィーノを、返せ!」
「返す?」
小さく首を傾げる。
「違うな。今お前の前にいるのが、『本来の持ち主』だ」
ホリーが跳ぶ。
ヴォーパルトゥースが、一直線に首を狙う。
当たらない。
刃は、不可視の魂の層に阻まれた。
「なっ……!」
反撃。
強烈な一撃が腹を抉り、ホリーは転がった。
「ホリー!」
トレセルが吠える。
「……っ!」
魔力を解放する。
「ヴィーノの中にいる限り、殺せねぇ……なら!」
一歩、踏み出す。
「魂ごと、叩き出す!
エンチャント!ソウルリッパー!」
光の刃が、ヴィーノの胸を貫いた。
「くっ!!」
初めて、シェールの表情が歪む。
「……なるほど」
低い笑い。
「勇者の魂で押し出す作戦か。確かに、厄介だ」
シェールが手をかざし、空間が軋む。ホリーとヴィーノ、二人の魂が体から引き剥がされそうになる。
「ぐああ!」
「ああっ!」
「……やめろ」
かすかな声が聞こえた。
「……僕の、身体だ」
シェールが目を見開く。
「……ほう?」
内側から、微かな光。
「決めたんだ」
震えながらも、確かな意志。
「一緒にいるって、決めたんだ。トレセルも、ホリーも……だから」
魂の奥底で、叫ぶ。
「僕の体から、出ていけ!」
宙に浮いた、黒く染まっていた腕輪が銀に戻る。
「なっ……!」
シェールの影が、引き剥がされていく。
「馬鹿な……!適合率は、俺のほうが――!」
「適合率?」
トレセルが笑う。
「それを決めるのは……」
ホリーが刃を構える。
「積み重ねた時間、選び、勝ち取り続けた結果!」
トレセルが魂を燃やして、再び光の刃を放つ。
「そして何より『自分はここにいる』という強い想いだ!お前なんかにヴィーノの存在を乗っ取れるかよ!この『魂の寄生虫』が!」
三つの意志が、重なる。
銀の光が、闇を裂く。
「エンチャント!ソウル!リッパー!」
「ぐ、あああああ!!」
トレセルの魔法が直撃し、シェールが円環へ叩きつけられた。
「覚えておけ……!」
シェールが砕け、円環へ飲み込まれる。
「俺は……必ず……!」
光が弾け、闇は静まった。
ヴィーノが、崩れ落ちる。
「ヴィーノ!」
「……ごめん」
小さく、笑う。
「でも……勝った、よね」
トレセルは深く息を吐いた。
「ああ。
七災禍の一角――『魂』は、ここで終わりだ」
円環を背にして、三人は空間から脱出した。




