第46話 『獣』よさらば
バージェを撃破した三人は、凍りついたヴィーノの故郷へと戻ってきていた。
彼らが打ち倒したはずの「時」の災禍の痕跡が、未だ冷たい重圧となって残っている。
「これで、フェイドゥーラの魔力を少し削ることができたはずだ。次は……」
沈黙。三人の頭の中を、様々な戦略と思惑が交錯する。
その沈黙を破ったのは、ホリーだった。
「……私」
二人に向き直った彼女の顔は、強い決意の光を宿していた。唇を強く引き結び、真正面から二人を見る。
「私、あいつと決着をつけたい」
名前を出さなくても、分かった。
『獣』のウル。
七災禍の一柱であり、ホリーがその支配下で苦しめられてきた、因縁の相手。
トレセルは少しだけ目を伏せ、ヴィーノは小さく息を呑んだ。その視線の先に、七つの炎の円陣の中の一つ、荒々しい獣のシルエットを浮かび上がらせる青紫の炎が揺らめいている。
「……行こう」
最初にそう言ったのは、ヴィーノだった。
「みんなで、ホリーを過去から解き放とう。それに……いつか向き合わなきゃいけないとしたら、それは、今だ」
それは、過去の逃避を繰り返さないという、ヴィーノ自身の誓いだった。
ホリーは短く頷き、その瞳に僅かに安堵の色を浮かべた。
「よし、じゃあ行くか」
三人は蒼炎へと飛び込んだ。
次の瞬間、景色が切り替わる。
月明かりに照らされた夜の森。燃えるような赤でも、凍りつく白でもない、深く静かな闇。ここは、どこかで見慣れたような、だが異質な気配に満たされている。
「ここは……」
ホリーが息を潜めて言う。
「『ウルの森』。あいつの住処よ」
言い終わる前に、地面が揺れた。轟音とともに、足元の土砂が微細に震え、周囲の古木が葉を散らす。
揺れたのは、岩山だと思っていた『それ』だった。
ごう、と低い音を立てて隆起し、巨大な四肢が伸び、月光の下に獣の輪郭が現れる。
岩ではない。
山でもない。
『獣のウル』。
毛皮は岩山のように硬く、その姿は、まるで「自然の怒り」がそのまま具現化したかのようだった。
「……大きすぎる。まるで動く城塞だ」
ヴィーノが息を呑む。戦闘スケールが、これまでのどの敵とも比較にならない。
トレセルは一歩前に出て、冷静さを保ちながら短く告げた。
「あの硬さ、物理より魔法が有効だろう。俺たちは魔法形態でいく。ホリーはひるませて、筋肉の継ぎ目にヴォーパルトゥースをたたき込んでやれ」
ヴィーノは頷き、銀の腕輪を外す。
「任せて。全力で、奴の動きを止めてみせる」
トレセルが光となって少年へと飛び込み、魔法形態へと転じた。
最初に動いたのは、因縁の相手を前にしたホリーだった。
「うおおおっ!」
跳躍。
月光を背に、ホリーはウルの顔面、分厚い顎へと渾身の蹴りを叩き込む。
ゴッ。
手応えは、分厚いゴムを蹴ったかのように鈍い。顎には傷一つついていない。
次の瞬間、ホリーの足首が、ウルの古木のような巨大な指に掴まれた。
「なっ……」
恐怖が脳裏をよぎる。
(この力……いつも私を打ちのめしてきたあの重さだ!)
ホリーは掴まれたまま、容赦なく何度も地面に叩きつけられる。地面がクレーターのように砕け、ホリーの息が潰れた。
「かはっ……!」
「ホリー!」
ヴィーノは腕を突き出した。
「エンチャント! ファイヤー・フィスト!」
腕から高温の炎の竜巻が噴き上がり、ウルの毛皮を焼く。直接のダメージはわずかだが、周囲の木々へ瞬く間に火が燃え移り、静かな森は一瞬で炎に包まれた。
熱気に、獣が苦悶の唸りを上げてホリーを放す。
即座にホリーが跳ね起きる。立ち上がった彼女の瞳には、最早恐怖の色はなく、ただ強い怒りが燃えている。
「まだだ!」
ホリーは身体を回転させる。
影の刃となったヴォーパルトゥースが閃き、炎と月光に照らされた腹部のわずかな隙間、筋肉が薄い継ぎ目へ一点集中で連続攻撃を叩き込む。
ざしゅっと肉を削るような音が響き、ようやく傷が走った。
「やった! ヴォーパルトゥースなら通じる!」
だが、喜びは一瞬で消え去る。
ウルは唸り声を上げ、巨体を揺らして一歩下がり、周囲の火のついた木々を自ら蹴り倒した。根元から折られた木は炎ごと踏み潰され、火は消える。同時に、腹部のひび割れは、まるで粘土が修復されるように、じわじわと塞がっていく。
「……冗談でしょ。再生力が高すぎる」
ヴィーノが呆然と呟く。魔法ダメージよりも、修復のほうが早い。
ホリーは息を詰めた。
「めちゃくちゃだ。やっぱり、ただの怪物じゃない……」
反撃は唐突だった。
ウルがただ咆哮しただけで、その風圧だけで三人は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。立ち上がる間もなく、丸太のような、巨大な柱そのもののような腕が振り下ろされ、視界が白く弾けた。
野生そのものの力。理屈も技もない、純粋な暴力。
三人は、完全に追い詰められていた。ウルの次の攻撃が、音よりも速く迫る。
「くそっ、どうすれば……このままでは……」
ヴィーノは、地面に転がりながらも必死に抗おうとするが、ウルの圧倒的な力の前に、なすすべもない。
その時、ヴィーノのズボンのポケットに、硬い感触があった。
丸太のような腕が頭上に迫り、意識が朦朧とする中で、彼は最後の力を振り絞り、胸ポケットに触れる。取り出したそれは、フェイドゥーラ学園の図書館で手に入れた、淡い光を放つ一枚の古びた栞だった。ヴィーノの心に、楽しかった学園の思い出がよみがえる。
(これが、最後の……希望!)
「……一か八か、だ!」
ヴィーノは、迫りくる死の恐怖に打ち勝ち、栞を掲げる。
銀の腕輪の魔力が栞に流れ込み、光が広がり、幻影が形を取った。
……体育教師、『ウル先生』。
青いジャージ姿の「ウル先生」が、幻影でありながら確かな実在感を放ち、ニヤリと笑って立っていた。
「ウル先生!?」
先生は、荒々しいウルの巨体を見上げ、こちらを振り返って親指を立てる。
「よぉ。元気そうじゃねぇか、お前ら。だが、そこの俺に似たイケメンはいただけねえな」
次の瞬間、先生は一切の躊躇なく突撃した。
実体のない幻影が、獣の体内へと抵抗なく溶け込む。
「グ……ォオオッ!?」
するとウルが苦しみ、巨体が軋み、縮み始める。あっという間に巨獣が、三人と同程度の大きさになってしまった。
トレセルが、この異常な現象のロジックに気づいた。
「そうか、情報の混濁だ!『七災禍』のウルが、『ウル先生』の概念と衝突し、弱体化している!」
先生の声が、ウルの内側から響く。
「今だお前ら!この悪者、やっちまえ!さあ、全力で!」
「先生!」
ヴィーノは立ち上がり、魔力を集中する。
「ウィンドカッター!」
風の刃が集中し、弱ったウルの身体、概念が混濁した場所を鋭く切り裂く。
「私はもう、二度と誰にも支配させない!」
ホリーは叫び、突撃する。
「とどめぇっ!」
影の刃ヴォーパルトゥースが、ウルの腹部を突き抜け、背中まで貫通する。
急所を貫かれたウルは、血を吐き、声にならない叫びを漏らした。
「ギ……ガハッ……」
巨体が傾き、倒れ、そして青紫の光の粒子となって消えていく。
静寂。
森に、月光だけが戻った。
よくやった、お前ら。最高だぜ。全力ってのは、気分がいいもんだろ。
風に混じる声。
三人は顔を見合わせ、まるで本当に先生が目の前にいるかのように、思わず背筋を伸ばした。
「敬礼!」
ウル先生の笑い声が、夜の森に溶けていった、気がした。




