第45話 勇者よ永遠に
バージェは、後ずさった。
それは本当に、わずかな一歩だった。
だが彼女自身が、それを「逃げ」だと自覚してしまったことが、致命的だった。
「……なんで?」
声が、震えている。
青白い時間粒子が、彼女の指先から零れ落ちる。
集束していたはずの時間が、うまく掴めない。
「おかしいよ……時間は、全部私のものなのに……」
トレセル――来世の勇者は、静かに剣を下げたまま言った。
「全部、じゃねえ」
一歩、近づく。
時間が圧縮も、展開もされない。
ただ、進まない。
バージェの瞳が、大きく見開かれる。
「……見えない」
未来が、見えない。
今までなら。
剣が振られる未来も、
避ける自分も、
勝利の結果も、
すべて『もう見たもの』だった。
だが、目の前の男には
未来が存在しない。
「過去にも……いない……」
声が、掠れる。
トレセルは何も言わない。
剣を握る手は、迷いなく、静かだった。
「や、やだ……」
初めてだった。
どの時間軸にも存在しない存在を目の当たりにするのは。
「私は……七災禍……なのに……!」
叫ぶように、バージェは両手を突き出す。
最後の力を振り絞り、時間をねじ曲げる。
未来を過去に。
過去を現在に。
現在を……破壊へ。
だが。
「無駄だ」
トレセルが、踏み込む。
剣が、縦一文字に走った。
それは速さでも、力でもない。
時間という概念そのものを斬る一撃。
「――っ」
声にならない悲鳴。
バージェの身体の右半身と左半身がずれる。
影が、切れた。
時間の粒子が、霧散した。
そして、少女の姿が、ひび割れた硝子のように崩れていく。
「私……は……」
言葉は、最後まで届かなかった。
白銀の剣が、完全に通り抜ける。
一瞬の静寂。
そして。
青白い炎となって、バージェは消えた。そこに残ったのは、二度と誰かに動かされることのない「時間」だけだった。
トレセルは、剣を下ろす。
振り返ると、ヴィーノとホリーが、呆然と立っている。
「……終わりだ」
その声は、驚くほど静かだった。
そして、彼の身体が、少しずつ光に溶け始める。
「トレセル……?」
ヴィーノの声に、彼は微笑った。
「安心しろ。全てがなくなるわけじゃねぇ」
指先から、白い毛へと戻っていく。
「ヴィーノ、覚えておけ。勇者はな、何度斬られても、立つ時は、必ず立つ」
最後に、紅い眼がヴィーノを見た。
トレセルの姿が消え、そこには、一振りの白銀の剣と、静まり返った戦場だけが残った。
七災禍の一角とともに、勇者が確かに光の向こうに消えた瞬間だった。
「と……」
ヴィーノの瞳が絶望に染まる。
「トレセルーっ!」
「はいよ」
「え?」
白銀の剣がぐにゃぐにゃと歪み、毛玉に戻った。
「よし、まず1体撃破、っていたた?おいヴィーノ?」
「あの流れ、完全に死んだかと思ったじゃん!バカバカ!」
ヴィーノは泣きながら、トレセルをポカポカと殴った。
「俺は一言も死ぬなんて言ってな……叩くのやめて!」
ヴィーノが安堵の涙を流しながら殴り、ホリーが肩をすくめる。
「これは叩かれてもやむなし、ね」
気が済むまで、ヴィーノはトレセルをポカポカし続けるのだった。




