第41話 早まる邂逅:五番目の『七災禍』
ヤトマの港町を離れた帆船が沖合へ差しかかるころ、ヴィーノは一人、欄干にもたれて白い波が輝く海を見つめていた。
波は穏やかで、空は澄んでいる。潮の匂いも、揺れも、すべてが平穏だった。
甲板の中央では、ホリーが置きっぱなしになっていた魚籠を覗き込み、
「これ、持って帰ったら焼いたらおいしいかなあ」
と、ひどく真剣な顔で呟いている。
「……のんきだな」
ヴィーノは思わず苦笑した。
「だってなんか、平和じゃない?」
ホリーは顔を上げ、空を仰ぐ。
と、彼女がわずかに眉をひそめた。
「空が、なんか変」
言葉が終わるより早く、空が豹変した。
澄み渡っていた青が裂け、黒雲が激流のように湧き上がる。
紫色の稲妻が、空を引き裂くように走った。吹き荒れだした暴風に、船が激しく揺れる。
「非常事態!非常事態!
右舷沿岸部、強力な冷気によるブリザードを確認!沿岸の村が……村全体が凍っています!」
船員の絶叫が響く。
「おい、あの村って」
トレセルの言葉に、ヴィーノは欄干から身を乗り出し、目を見開いた。
「嘘だ……」
視界の先。
海沿いに見える村が、白と青の塊へ変わっていた。
「……僕の、村が……」
言葉が、そこで途切れる。
「待って、あそこってヴィーノの故郷?」
ホリーが息を呑む。
「もしやとは思ったが……」
トレセルが唸った。
「やっぱり、あそこだったか」
「氷漬けの村」
それが自分の生まれ故郷だと理解するまで、ヴィーノには数拍の時間が必要だった。
再び船員の声が響く。
「た、大変です!
ブリザードと凍結がこちらへ迫っています!このままでは本船も氷に閉じ込められます!」
「総員、砕氷準備!
氷に捕まったら終わりだ!」
船長らしき人物の指示が響きわたる。
船員たちは船が激しく揺れる中で、長い棒を手に、船に迫る氷塊を必死に砕き始める。
海は軋み、冷気が肌を刺した。
ヴィーノは、歯を食いしばる。
あれは、僕が捨てた村。
そして、僕を捨てた村。
今さら、どうなろうと知ったことじゃない。
はずだった。
「……」
一瞬の躊躇の後、ヴィーノは顔を上げた。
それでも、放ってはおけない。
「行こう」
トレセルとホリーを見る。
「村を……助ける!」
二人は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「うん!」
「そう言うと思ったぜ」
氷がぎりぎりまで迫る船縁から、ヴィーノは凍りかけた海へ飛び降りた。
「あ、ちょっと君!」
船員の制止を振り切り、三人は氷上を駆ける。ヴィーノは靴裏に石を発生させ、滑り止めにして走っていく。
村にに足を踏み入れた瞬間、ホリーが息を吐いた。白い息が、大気に溶ける。
「……寒い、っていうより……痛い」
空気が、皮膚を刺す。
家も畑も木々も、人の気配ごと、吹雪の中で凍りついていた。
「こんな凍り方、普通じゃない」
ヴィーノはつぶやき、一直線に家へ走った。
扉は氷で封じられている。
黒影を振るい、砕いて中へ踏み込むと――
そこに、父と母がいた。
起きたことを理解する間もなかったのだろう。日常の表情のまま、二人は氷に閉じ込められていた。
「……父さん。母さん」
ホリーは入口で足を止め、何も言わず、ただ背後に立つ。
「僕……逃げたままだった」
ヴィーノの声が震える。
「何も言えないまま、この村から逃げて……それで、次が……こんな……」
母に触れた瞬間、家全体が低く軋んだ。
「なるほど」
声が、空から降ってきた。
暴風とともに屋根が砕け、黒い空が露わになる。そこに立っていたのは、青白い翼を持つ女だった。冷気そのものが、人の形を取ったかのような存在。
「はじめまして」
女は淡々と告げる。
「私は七災禍。『天』のセレステです」
ホリーが一歩、前へ出る。
「ねえ。あんたがやったの?」
セレステは視線を向け、わずかに侮蔑を示す。
「七災禍に向かって、随分と遠慮のない下位影ですね」
「影って呼ばれるの、好きじゃないんだけど」
ホリーは地面を蹴った。
「なんで、こんなことしたのさ」
セレステは、穏やかに微笑む。
「理由はあります。この村は、『歪み』を生んだから」
「歪み?」
「祈り、恐怖、抑圧、逃避。その中心に、この子がいた」
彼女の視線が、ヴィーノを正確に射抜く。
「あなたは、人でありながら影に触れた。世界の異点です。この歪みは、あのお方の降臨には不要。ゆえに、消去対象としました」
トレセルが鼻で笑う。
「何をわけの分からんことを」
ヴィーノは訊く。
「つまり僕がこれを引き起こしたと」
「ええそうです。反省して消えなさい、特異点」
セレステの手元からブリザードが発生する。
「下がって!」
ホリーがヴィーノの前に立つ。
「はああっ!」
ホリーの脚が閃いた。
冷気の奔流を正面から蹴り、風圧をもってその進路を歪ませる。
セレステの目が、わずかに見開かれた。
「七災禍は総合力で勝る。でもね」
兎女は笑う。
「一つ二つの能力なら、あんたらを超えるのもいるんだって。知らなかった?」
さらに踏み込み、空を蹴る。
衝撃波が走り、セレステの手元の、冷気の発生源をかき乱す。
セレステにダメージはない。
それでも、彼女は理解した。
「……なるほど」
翼をたたみ、距離を取る。
「今回は、ここまでにしましょう」
「凍結を解きなさい」
ホリーが言う。
「今は、まだその段階ではありません」
「じゃあ、もう一発……」
「我ら七災禍と、小さな勇者たち、すぐに正当な戦いの場を設けます。決着をつけましょう」
最後に、セレステはヴィーノを見た。
「あなたは、もう見られている。
逃げても、追いつかれます」
そう言い残し、彼女は空へ溶けた。
静寂。
ヴィーノは両親の前に立ち、低く告げる。
「必ず……元に戻すよ」
ホリーが、そっと肩に手を置いた。
「大丈夫。一人じゃないでしょ」
トレセルは空を見上げる。
「始まっちまったな。七災禍との、本当の戦いが」
ヴィーノは、凍りついた村を背に、覚悟する。
七災禍は世界の敵。
そしてそれは、自分が戦いに身を投じた結果でもある。
もう、逃げ場はない。




