第40話 妖狐遊戯
「来なさい」
タマモの身体が、霧のように揺らいだ。輪郭が波紋となってほどけ、次の瞬間には音もなく移動していた。
数メートル先にいたはずの彼女は、すでにナギナタを携え、ヴィーノの眼前に立っている。
「くっ、速い!」
ヴィーノは二刀を交差させた。金属が弾ける轟音。衝撃は雷のように全身へ走り、砂地が爆ぜて土煙が巻き上がる。
タマモはほんの軽く腕を振っただけだった。にもかかわらず、その斬撃はヴィーノの腕を痺れさせ、脇腹の近くを掠めた風圧だけで衣が裂けた。
タマモの残像が幾重にも広がり、どれが本体か、どれが影かすら分からない。
「ホリー!狐火を引きつけて!」
「分かった!」
ホリーが跳んだ。
跳躍と同時に、背後から紫の狐火が一斉に追いかけてくる。炎は生き物のように形を変えながら軌跡を描き、ホリーが急旋回しても壁のように迫ってくる。
「しつこい……!」
地面すれすれに滑り込みながら回避したホリーの髪先が、触れた瞬間じゅ、と音を立て焦げた。
「この狐火はね、意志を持ってるの。あなたの『影』を喰べたがってるのよ」
タマモが指を鳴らした。
その音と同時に狐火は加速し、飛び散る火花のように数を増してホリーへ殺到する。
「こっちくんな!!」
ホリーは軸足を回転させながらヴォーパルトゥースを薙いだ。
幾つもの狐火を斬り払うが、斬られた炎は真っ二つになった瞬間、二つの火球として復活し、さらに速度を増す。
「増えた!?」
「よそ見しないの」
ヴィーノが叫ぶより早く、タマモは影のように横へ滑り込んできた。
「黒白二刀……良い武器ね。でも……」
言葉の途中でナギナタが振るわれた。
白銀剣と黒影が同時に火花を散らし、ヴィーノの両足が地面へめり込む。
タマモは一歩も動かず、片手での一撃。それでも圧力は嵐のようで、押し負けたヴィーノは弾かれるように横へ吹き飛び、地面を転がった。
「ぐっ!」
「使い手がそれじゃ『遊び』にもならない」
その侮りの言葉に、ホリーの眉が跳ね上がる。
「遊びって……私たちの世界を奪っておいて、よく言えるわね!」
ホリーは迫り来る狐火の間をすり抜け、跳ね、タマモに向かって急降下する。
回転を乗せた飛び蹴りを放つが、タマモは尾の一本でそれを軽く受け止めた。
衝突の瞬間、衝撃波が弾け、ホリーは空中へ跳ね返される。
「単純な力じゃ、私には届かないわ」
「届かせてみせる!!」
ヴィーノが歯を食いしばりながら立ち上がる。
二刀を構えた瞬間、白銀剣が震え、黒影が脈打つように黒い光を走らせた。
合わせる。
ホリーと同時に。
二人は視線を交わした。
「ヴィーノ、タイミング合わせるよ!」
「うん、行こう!」
タマモが首を傾げる。野生の狐のように、だがその瞳には獰猛な光が宿っている。
「へえ……何を見せてくれるのかしら」
ヴィーノの足元で白と黒の渦が弾ける。
駆け出した瞬間、地面がえぐれ、黒と白の光が迸る。
ホリーは狐火に追われながらタマモに向かって駆け出し、尾を引くようにして加速した。
タマモの尾が九本、花開くように広がる。
「面白い……来なさい!」
空気がはぜる。
「ホリー!!」
「今!!」
上下から迫る二人の影が重なった瞬間、世界が一瞬だけ静止した。
「秘技!」
「双・影・斬!!」
白銀と黒影が十字の軌跡を描く。
ホリーの蹴撃がその中心へ突き刺さるように重なり、三方向からの一撃が同時にタマモへ叩き込まれた。
タマモの胸元で衝撃が爆ぜた。
圧力は地面を割り、周囲の空気を歪ませ、遠くの樹々がざわりと揺れる。
九本の尾がざわりと逆立ち、タマモの衣が裂け、白い肌に薄い線が走った。
「……あら」
タマモは自分の傷に目を落とす。
ほんの紙一枚ほどの浅い傷。それでも、確かに“痛み”を伴うものだった。
ぱちり、と瞬きし、そして微笑んだ。
「痛み、なんて……久しぶりに感じたわ。悪くなかったけれど……」
肌の傷が煙のように消え失せる。
「なんだか冷めちゃった。続ける気が失せたわ」
「待て!!」
ヴィーノが踏み込みかけたが、タマモの身体はすでに霞に溶けかけている。
「また遊んであげる。強くなっておきなさい?」
九本の尾が揺れ、水晶玉が足元に転がる。
次の瞬間、タマモは霧とともに消えた。
ぽん、と軽い音。
残された水晶玉が砕けると同時に、歪んでいた世界が元の光を取り戻す。
空に朝日が差し込んだ。
息を呑んだ三人は、その場で立ち尽くした。
あまりにもあっけない……いや、勝利ですらない戦いの終わり。
「……強すぎる……」
ホリーが膝をつき、震える手を見つめる。
「七災禍にとっては、あれすら『遊び』」
トレセルは低く呟いた。
ヴィーノは黒影を握りしめ、タマモが消えた空を睨む。
「……もっと強くならなきゃ。あれにまた会うなら……絶対に」
世界は戻った。
三人の胸に残ったのは、世界を奪うことすら遊びにする怪物の気配だった。




