第27話 戻れない選択肢
昼休み。
校庭の芝生は、陽に温められて柔らかく、ふわりと指の間に広がった。
トレセル、ヴィーノ、ホリーの三人はそこに弁当を広げ、風に揺れる葉の音を聞きながら座っていた。
「……僕ら、ここにずっといてもいいのかな」
ヴィーノの声は、まるで自分にも聞こえるか聞こえないかの大きさで芝生に落ちた。
「……いや」
トレセルはかぶりを振る。
昼の光が彼の横顔に影を作る。
「確かにここは楽だし、平和だよ。……でも俺たちには、あの世界でやるべきことがある」
「フェイドゥーラを倒す旅、だよね」
ホリーは手を膝に置き、青い空を見上げた。
雲がほつれた糸のようにちぎれ、ゆっくり流れている。
その時。
「ふふ、食事中ごめんなさい」
声のしたほうを見ると、ノーディが立っていた。
光をすっと通すような存在感で、三人をまっすぐに見つめる。
「ここは安全です。外に戻る必要はありません」
「でも、ノーディ……先生……」
「外の世界は、あなた方には危険すぎます」
ノーディの声はどこまでも穏やかだった。彼女は続ける。
「明日、『刻』が来ます」
「刻……?」
「放課後、世界の境界が揺らぎます。出て行けるのは、その時だけ。逃せば……二度とここから離れられません」
ヴィーノの動きが止まった。
視線は足元に落ち、表情が読めない。
「……ちゃんと考えてくださいね」
ノーディは微笑み、風のように消えた。
午後の授業。
学園は楽しく授業が進んでいた。
忍者のジンは、教壇の上で印を組みながら「忍びの心得」を語り──足を引っかけて転び、クラス中が笑いに包まれた。
バイスは女王のように椅子の背に手を置き、ツルの鞭で教室の端を示すだけで空気が一瞬にして張りつめる。
すべて自然で、当たり前の日常の一部のように溶け込んでいる。
それなのに、三人の胸の奥には、薄く澱んだような何かが残った。
夕暮れ。
校庭の芝生は昼よりしっとりと色を濃くし、三人の影が長く伸びていた。
「……明日、どうする?」
ホリーが静かに問う。
「俺たちには旅がある」
トレセルは迷わず言った。
その声には、硬さがあった。
ヴィーノはうつむき、芝生をつまむようにして握っていた。
遠くで、ウル先生が「夜は学園祭の練習だぞー!」と明るく叫んでいる。
その声は、甘く、どこか後ろ髪を引くようだった。
そして翌日の放課後。
正門は静かだった。夕暮れの風が門の表面を揺らし、白い光が糸のようにほどけては消えていく。
「……俺は行く」
一番に言ったのはトレセルだった。
そこに迷いの色はない。
だが、隣のヴィーノは動かない。
「ヴィーノ?」
問いかけられ、ゆっくり顔を上げた。
その表情は、いつもの軽さの影もなかった。
「……出たくない」
「え?」
「ここにいたい。……外に戻りたくないんだ」
声は震えていなかった。
けれど、彼の指先は小刻みに揺れていた。
「なんでだよ?フェイドゥーラを……」
「トレセルには、わかんないんだよ!ずっと強かったトレセルには!」
トレセルは、ヴィーノから今まで聞いたことのないような強い口調に言葉を失った。
ヴィーノは、胸の奥からひとつずつ感情を掘り起こすように続けた。
「ずっと……学校って怖いところだった。行けば必ず嫌なことがあって、逃げ場がなくて……。
でもここは違う。誰も僕を傷つけない。誰も僕を笑わない。息をしてるだけで、楽なんだ」
ヴィーノの声は淡々としていたが、それは感情を押し殺しすぎて、逆にこぼれ出た音のようだった。
「……だから、僕、ここにいたいんだよ」
震える声で言い終えると、ヴィーノは振り返って走り去った。
「ヴィーノ!」
追いかけようとしたトレセルの腕を、ホリーが掴んだ。
「ここは……私が行く」
「ホリー……」
「大丈夫。まかせて」
ホリーは軽く笑い、彼のもとを離れた。
屋上。
風が吹き、柵が小さく軋んでいた。
ヴィーノは膝を抱え、空を見ていた。雲は灰色で、ゆっくり形を変え続けている。
「……いた」
ホリーがそっと近づき、彼の隣に座った。
「……私ね、学校って行ったことないの。だからここ、楽しくって、ここにいられることが、ただ嬉しかったの。でも……」
ホリーは空を見上げる。
「楽しくない学校ってのも、あるんだね」
ヴィーノは反応しない。
それでもホリーは続けた。
「怖いところ、か。私も怖かったよ。ウルの下にいた時。いつ暴れだすか分からない猛獣の隣で生きてるって感じで……生きているだけで、怖かった」
風が二人の間を通り抜ける。
「でも」
ホリーは膝を抱え直し、笑った。
「二人と出会って、よかったって思ってる。まる」
「何その……オチ」
ヴィーノは思わず吹き出す。
「作文。ちゃんとノーディ先生に習ったんだけど?」
「ふふ……成長したんだね」
「君もだよ?」
「え?」
ホリーの瞳はまっすぐだった。
「誰よりも傷ついたからこそ、誰も傷つけない。……ヴィーノって、そういう優しい人だよ」
「そ、そんなの……」
ヴィーノが赤くなる。
その頬に、ホリーがそっと唇を寄せた。
──ちゅ。
「ほ、ホリー……?」
「君はすごいよ。私が、価値のないものにキスするように見える?」
「……見えない」
「じゃあ、行こ」
ホリーは手を差し出した。
「ボクちゃん、ひとりじゃないよ」
ヴィーノは、その手を握った。
指が触れた瞬間、胸の奥の靄がわずかに晴れた気がした。
校門に戻ると、トレセルが駆け寄ってきた。
「おお、戻ってきた! いったいどうやったんだ?」
「色仕掛け」
ホリーは即答した。
「はぁ!? お前何され……」
「……なんだ、騙されたぁ」
ヴィーノが肩を落とす。
「ふふ、単純なんだから」
ホリーが悪戯っぽく笑う。
だが、胸の奥で、ホリーは小さく、誰にも届かない声でつぶやいた。
(……全部が嘘ってわけじゃないよ、ヴィーノ)
その声は、風に溶けて消えていった。




