表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ぬいぐるみ

作者: 橘月鈴呉

 とある女性、仮にAさんとするが、そのAさんが体験した話。

 Aさんには大学生の娘さんがおり、その娘さんが丸一日部屋から出て来ない日があった。

 とは言っても、その年は授業もあまり取っていなかったのか、生活リズムは崩れがちだったし、一度様子を見た時もただ寝ているだけのようだったので、その日は深く気にしなかったそうだ。

 しかし、次の日から明らかに娘さんの様子がおかしい。

 朝、様子を見に行った際にドアをノックすると、ダンッと強くドアを叩かれた。意味が分からずドアを開けようとすれば物を投げられ、とても開けられない。

 もうAさんはわけが分からなかった。とにかく今はそっとするしかないと、様子を見ることにしたが、今まで娘さんの部屋から聞こえたことのない様な物音までして、不安は募っていく。

 夜帰って来た旦那さんに相談し、旦那さんと娘さんの部屋に行くも、状況は同じ。

 更には翌朝、台所が荒らされていた。

 お腹が空いた所為かと、部屋の前に食事を置いて声をかけるも、それは食べずに次の日も台所が荒れていた。

 そんな娘さんのことで不安に溢れていたその日、Aさんはゴミ捨ての帰りに一つのぬいぐるみを拾った。くまのぬいぐるみだったという。

 汚れていたので、そのままゴミ箱に捨てたそうだ。

 そして、その日の夜も娘さんの部屋に食事を持って行く。声をかけても返答は無く、置いていた食事にも手をつけていない。仕方なく食事を取り換えようとした時に、Aさんは気付いてしまった。

 階段を上ってすぐわきの所に、朝拾ってゴミ箱に捨てたはずの、くまのぬいぐるみがあったのだ。

 Aさんはあまりの恐怖に、そのままぬいぐるみを掴んでゴミ捨て場に捨てた。

 しかし、次の日の夜もそのぬいぐるみは、何故か娘さんの部屋の前にあった。

 Aさんは叫びながらぬいぐるみをビニール袋につめて、ゴミ捨て場に捨てたそうだ。

 そして、帰って来た旦那さんにお祓いに行こうと相談した。旦那さんはAさんをなだめながら、そういうことは落ち着いて話し合おうと提案し、その日は早めに寝るように言われた。

 その次の日はぬいぐるみも現れず、Aさん自身も落ち着きを取り戻した。

 明くる日、娘さんは数日の荒れっぷりが嘘のように元に戻っていた。けれど、Aさんにここ数日心配をかけたことを謝ったそうなので、記憶はあるようだった。

 元に戻った娘さんに、Aさんはとてもほっとした。しかし、とあることに気付いて、Aさんは今も不安が消えないそうだ。

 元に戻った娘さんは、何故かあのぬいぐるみを持っていた。そして、それをとても大切にしているらしい。

 Aさんは、娘さんがぬいぐるみを大切にする姿を見る度、この子は本当に元の娘なのだろうかという不安が胸を過ってしまうのだと、苦しそうに話してくれた。




 目を覚ますとあまりにも違和感しかない光景に、思考回路がフリーズしてしまった。

 まずは見慣れた天井じゃない、というか天井じゃない。全く見たことのない部屋。可愛らしい雰囲気の部屋で、勉強机の横には可愛いアクセントの付いたランドセル。部屋の隅々から、この部屋の主が小学生の女の子であることが感じられた。

 一方の私は大学生だ。仲の良い子も多くは同じ大学生、他には社会人や高校生の後輩。従妹も一番年下で中学生だ。

 近所に小学生はいるけれど、あいさつはしても部屋を行き来するような仲ではない。

 じゃあ、ここは誰の部屋なんだ?

 大体、何で私はここにいるんだ?

 昨夜はいつもと変わらず、自分の部屋で眠りについたはずなんだけど、と首を捻る。

 と、首が捻れない。そこで、体が動かないことに気が付いた。

 これまでだってとても驚いていたのに、あまりにも予想外過ぎて頭が真っ白になる。焦りで意識が遠のきそうになるのを何とか耐えて、今度は先程の様に無意識にではなく、意識的に体を動かそうと、腕に力を込める。ピクリともしない。

 何かに掴まれているという感じでもない。感覚がないというのが近いだろうか。

 全く意味が分からないけど、とにかく状況を確認しなくては何も始まらない。首は動かないので、視線だけを動かそうと思った右手の方へ向ける。

 視界の端に不可思議な物が映って、視線を元に戻す。

 見間違いかもしれない、本当に視界の端にちょこっとだけしか見えなかったのだから。

 一度心を落ち着けて、再度視界を右手の方に移す。

 見えた~、同じ物が見えた~。茶色い布製の何かが見えた~。何なら足があるだろう所に、同じ布製の何かが見えた~。

 ちょっと待って欲しい、一回落ち着かせて欲しい。ヒッヒッフー。これ違うっ!

 私は動けない体で悶えながら、どこにも発散出来ない感情を落ち着けた。

 気持ち的には呼吸を荒くしながら、一旦現実を受け入れることにした。どうやら私は、どこかの小学生のぬいぐるみになってしまったようだ。


 さて、一旦ぬいぐるみになってしまった事実を受け入れた私は、まず原因の究明と現状把握をしようと気を取り直す。

 何でこんな事態に陥ったのだろうか。

 心当たり? 無い無い、全く無いっ!

 いや、まずぬいぐるみになっちゃう心当たりってなんだ⁉

 いかんいかん。落ち着けたはずの気持ちが、また乱れる。

 特に昨晩普段と違うようなことは、何もなかったはず。強いて言うのならば、あんまり夢を見ないのに、内容は覚えてないけど、珍しく夢を見たなぁくらいのものだ。

 駄目だ、原因に心当たりが一切無い。むしろ何があればこんな状況になるのか、例を教えて欲しい……。

 原因究明は難しそうだ。

 じゃあ、現状把握。

 おそらく、置かれている棚から目線の高さを考えれば、足で立ち上がれば三十センチメートル弱くらいのぬいぐるみではなかろうか。そして、持ち主の女の子が学校に出かける前に、「いってきます、くまちゃん」と頭を撫でていたので、おそらくテディベア。

 ちなみに女の子の顔は、やっぱり見覚えの無い子だった。

 そして体は、動かせない。

 これが一番困っている。

 表現が難しいのだけど、このぬいぐるみの体が自分の体になっていない感じがする。

 いや、正直認めたくないけどね、このぬいぐるみが自分の体だなんて、認めたく無いんだけども、それとは別に、体感としてこのぬいぐるみが自分の一部だという感じがしない。

 自分の体だったら、指先足先まで自分の一部だって感覚があるけど、今は頭の部分こそ自分って感じがしているけれど、首から下にその感覚は無い。椅子とかが近いだろうか。自分が乗っかっている自分じゃないものって感じ。

 これが体が動かない理由だと思う。

 体が動かせないのは困る。

 戻る方法は全く分からないとはいえ、とりあえず家に、自分の体の所に戻ろうと思っている。その為には体が動かせないと話にならない。

 私は思考の中だけで大きくため息を吐く。でも肺の無いぬいぐるみの体でため息を吐いたところで、もやもやした気持ちは少しも晴れない。

 まずは体を動かせる様になろう。私はそう決意した。


 あれから二日程経った、体はまだ動かない。

 これが結構シンドイ。

 何がシンドイって、眠れないことだ。

 この体はぬいぐるみなので、疲れるとか眠るという機能がついていない。でも、体は疲れなくても疲れるのだ、心が、精神が。

 トライ&エラーを繰り返し、気分が落ち込みっぱなしな上に、気持ちをリセットするタイミングが無いのだ。

 提出物を〆切ギリギリまで溜めがちな私は、ヒーヒー言いながら課題をやっている時に、眠らなくても良い体が欲しいなんて思ったことがあるけど、ごめんなさい物知らずでした。睡眠って精神的にもこんなに大事で、肉体疲労が無くても眠れないってこんなに辛いんだ!

 そんな中で、良いリフレッシュになってるのが、このぬいぐるみの持ち主であるユアちゃんとの時間だ。

 正確な年齢は知らないけれど、体の大きさ的に中学年くらい?

 人形遊びはもうすぐ卒業というところか、あまり自分の部屋にいないこともあって、私が入っているくまやベッドで寝ているうさぎのぬいぐるみで遊ぶことはないけど、毎日少しお話ししてくれる。

 さっき見たテレビや、今日読んだ本の話。それだけで大分と気が紛れるものだ。

 それでも不安が無くなるわけじゃないし、なんなら少しずつ大きくなっている。

 ただ不安が増すだけだから考えないようにしていても、ふとした時に今自分の体はどうなっているのだろうと考えてしまう。意識不明で眠りっぱなしなんだろうか? もし体が死んじゃってて火葬されていたらどうしよう……。気を抜いたら、そんなことが頭にまとわりついて離れないのだ。

 とにもかくにも、体を動かせるようにならないとどうしようもない。

 とは言え、何をどうしたら良いのやら……。

 ああ、そういえば小さい頃に親戚のお姉ちゃんからお下がりでもらった超能力開発本に、ハンドパワーだか念動力だかの開発方法が載ってたな……。

 小学生の女の子向けといった風な、おまじない本の延長のような、今思うと胡散臭い本。でも、今は思いついたことを片っ端からやってみるしかない。

 え~と確か、頭の中に光の球がある様子をイメージして、その光が体の隅々まで動き回る様子を想像。

 すると、体はまだ動かないけれど、今までは自分の体の一部という感じのしなかった首から下の部分が、想像の中で光が通る度に自分の一部であるという感覚になって行く。

 あれ、これはもしや有効なのでは?

 え~と、最後にこの光をどこから出すんだけど、どこだったっけ? まあ、手からでいいか。体の中を練り歩いた光を、「動けっ!」と強く思いながら、右手から出て行くところを思い浮かべる。

 結果として動きはしなかったけど、体がなんとなく自分の一部として感じられるようになって来た。これは大分と前進なのではないだろうか。この成功体験を抱えたまま、ひと眠りしてしまいたい。まあ、眠れないんだけどね!

 はあ、本当に眠れないのがキツイ。


 そんなこんなで、体の中で光を動かす想像をしたり、休んでボーッとするを繰り返して、また一日経とうという時だ。

 ぬいぐるみの体中を何往復かさせた光を、「動けっ!」と念じながらフンッと右手から飛び出させた。すると、体が右斜め前へぐらりと傾いた。突然のことに、私は何も出来ない。いや、余裕があったとしてもこの不自由な体では結局何も出来ないのだろうけど……。

 私は瞬きも出来ずに、タンスの上から落下する。あっと言う間に迫る床に、悲鳴も上げられない程の恐怖を覚えるが、結果として痛みはなかった。

 何も感じなかったかといえば、そうではない。落下の衝撃はあったのだ、なのに痛みは無い。あまりにも不思議な感覚だ、人間のままでは味わえなかっただろう。じゃあぬいぐるみとなって良かったかと訊かれれば、人間であることを引き換えにするような良い体験ではないんだけど。

 そんな未知の体験の余韻で頭が真っ白になっていると、部屋のドアが開いた。

「あれ、くまちゃん落ちてる?」

 ユアちゃんが帰って来たようだ。ユアちゃんは、落ちている私…というかくまのぬいぐるみを拾って元のタンスの上に置くと、「良い子にしててね、くまちゃん」と頭を撫でた。そしてベッドの上のうさぎのぬいぐるみも撫でて「ただいま」と言って、机に置いたランドセルからいくつかの物を取り出すと、部屋から出て行った。リビングで宿題をやるのだろうか。こうなると夜まで部屋に戻って来ないのは、ここ数日で知っていた。

 よしっと、綿しか入っていないお腹に力を込める。

 タンスから落ちた後だって衝撃的だったけど、私はその前のことだって忘れてはいない。何もなければ、ぬいぐるみのバランスが崩れることなんてないのだ。つまりバランスが崩れる何かがあったはず。

 私は逸る心を抑えながら、ゆっくり右手に力を込めて持ち上げる。

 間違いない。ぬいぐるみの右腕がゆっくり持ち上がる。動いた!

 興奮のままに立ち上がり、意味もなくその場でくるくる回る。ちゃんと私の意思のままに動く!

 そうとなれば、善は急げ。綿しかない体のバネを使って、タンスの上からベッドへジャンプする。思ったより飛行距離は出なかったけど、端とはいえベッドに載れたので問題はない。進み難いベッドを這うように枕元へ移動し、木製の所をよじ登り、そのまま隣接する机の上によじ登る。

 ここ数日、正面にあるタンスの上に座っていたから、私は知っている。ユアちゃんは窓の前に机が置いてある為に窓のカギに手が届かないから、窓に鍵をかけていないのだ。

私は網戸の無い方の窓の取っ手に手を押し付ける。綿と布で出来た柔らかい手が、指を引っかける所にデコボコとフィットする。そのまま横に力を込めると、カラリと窓が開いた。ここは二階の様で、地面を見下ろすと今は無い肝が冷える。

 でも大丈夫、タンスから落ちた時のことを考えれば痛みは無いはずと、自分を鼓舞する。

 開いた隙間に体をねじ込む。体はいいけど、頭がつっかえる。少しずつ隙間を広げながら頭も外に出す。開きっぱなしは不用心なので、しがみつきながら窓を閉める。とはいえ指の無いぬいぐるみがいつまでもしがみつけるわけもなく、窓を閉めきる前に、覚悟も決めぬまま地面に落下する。

 落ちる感覚に、お腹の綿がヒュッとなるけど、すぐに痛みのない衝撃が体を襲った。二度目とはいえ、相変わらず意味の分からない感覚だ。

 痛みはないから、すぐに動くことは出来る。短い手足に四苦八苦しながら立ち上がり、とりあえず垣根の下に身を隠す。

 今は昼過ぎ、これから夜にかけて家路につく人で人通りも多くなるだろう。ぬいぐるみの姿でうろつかなくてはいけにのだから、人通りは少ない方が良い。日が暮れて、人出が落ち着くまでは一先ず待つべきだろう。


 しばらくの後、日もすっかり暮れてユアちゃんのお父さんらしき人も帰って来て少しした頃。そろそろ住宅街の人通りは減っているだろうと、私は自宅を目指して動くことを決意する。

 そこでふと、丸いしっぽを引かれる思いが芽生える。「くまちゃん」と呼んでこのぬいぐるみを可愛がるユアちゃんを思い出してしまったのだ。

 とはいえ、私もいつまでもこのままでいたくはない。自分の体の所に行ったからといって、何とかなるのかは分からないけれど、少なくとも今のままでは事態の好転は無いだろう。であれば、動くしかない。

(ユアちゃん、ごめんね)

 私は心の中で謝って、街へと駆け出した。


 まずは現在地の確認と思って向かった幹線道路の近くで、ここが自宅と同じ市内の、隣の中学校区辺りだということが分かった。すると、大体向かうべき方向も分かる。本当は幹線道路を使えば道もハッキリ分かるのだけど、あまり人に見つかりたくはないので、幹線道路から離れすぎない辺りの、人通りの少な目の道を行く。

 さすがに人が通ることはあったけど、落とし物のぬいぐるみのフリをすればやり過ごせた。

 そして、一晩かけて夜明け前にはなんとか自宅近くに辿り着いた。

 さて、問題はここからだ。どうやって家に入ろう?

 ユアちゃんの家から出る時は鍵のかかっていない窓から落ちることが出来たが、うちにはそんな常時開きっぱなしの所はないし、この体で登れる高さは高が知れている。

 そんなことを悩んでいると、玄関のドアからガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえて、ドアの前の数段の階段脇に隠れる。するとドアからお母さんが空き缶の入ったゴミ袋を持って出て来た。どうやらゴミを捨てに行くらしい。

 なら、帰って来た時に滑り込めるかも⁉

 私はそのまま階段横で、お母さんが帰って来るのを待つ。

「あら?」

 やっべ。帰って来たお母さんが、バッチリ私を見付けてしまった。私はそのまま全力でぬいぐるみのフリをする。

「ぬいぐるみ? うちのじゃないわね」

 お母さんは私を拾い上げて、くるくる回しながら見る。

「誰かの落とし物が転がって来たのかしら? 

 でも、こんなに薄汚れてるなら、捨てても良いわよね?」

 そんな独り言を呟きながら、私を持ったまま家に入ると、台所の大きな蓋付きゴミ箱に私を入れる。

 なんと、家の中に入れてしまった。ゴミ箱の中でゴミに塗れるのはかなり嫌だけど、贅沢は言ってられない。正直、一晩の間でかなり薄汚れてしまったので、今更でもあるし。

 お母さんが台所から出て行くのをゴミ箱から伺ってゴミの上で立ち上がると、蓋の様に覆いかぶさっているゴミ袋の余った部分を掻き分け、頭で蓋を押し上げる。蓋付きとは言っても、しっかり密封する様なものではないから、簡単に顔を出すことが出来た。

 思った通り、台所にお母さんがいないのを確認すると、ゴミ箱から這い出す。

 後は勝手知ったる我が家である。人の物音だけ気を付けながら、二階の自室を目指す。

 階段をよじ登り自室の前に着いたは良いが、私はそこで困る。ドアノブに手が届かない。

 ジャンプしても無理。ノックするのも、私の体がどうなっているのか分からない以上恐いものがある。

 そんな「今の私の体はどうなっているのか」という不安を助長するものが、部屋の前にはあった。

 お盆に載った一人分の食事だ。

 少なくとも死んだ扱いではないことに安堵するけれど、昏睡状態とかであればこういう対応にはならないと思うんだよね。つまり()()()()()のだ、私の体は。

 例えば、ぬいぐるみに入ってしまったのが私の魂の一部で、残りが元の体で普段通り生活しているとかなら良いんだけど、部屋の前に食事が置かれているのは普段通りではない。

 私の不安を肯定する様に、自室から物音が聞こえて来た、しかも結構乱暴な。

 ダンダンッと聞こえてくる音に、私は筋肉の代わりに綿の詰まった顔をひくつかせた(なお比喩表現だ)。


 中から聞こえて来る物音に精神を削られながらも、何も出来ずに部屋の前で右往左往している間にも時間が経っていた様で、階段から足音が聞こえて来る。

 私は慌てて周りを見回し、階段を上がりきった所の手すりの横にあるスペースに身を隠す。そのスペースの端の方、なるべく影に隠れる様にと既に小さい体をさらに縮めて、していない息を潜める。

 二階に上がって来たのはお母さん、手には一人分の食事が載ったお盆を持っていた。

 お母さんは部屋のドアをノックして、中に話しかける。

「お母さんよ。ごはん持って来たんだけど、少しでも食べない?」

 中からの返事は、ない。

「ここに置いておくから、食べたくなったら食べてね」

 お母さんはそう言うと、下に置いてあった食事が、全く手つかずなのを見てため息を吐いた。

 お母さんに心配をかけているという事実に、申し訳なさが溢れてくる。

 お母さんが食事を入れ替える為に屈む。と、ふと動きを止めてこちらを向いた。

 まずい。今、私とお母さんの間には何も遮る物が無い、つまり丸見えである。

 私を見たお母さんは不思議そうに目を細め、そして驚いた様に目を見開いた、その目は分かりやすく恐怖に染まっている。

「どうして?」

 そう呟いたお母さんは、お盆を落としたことにも気付いていない様子でぬいぐるみ()を掴むと、「ゴミ箱に入れたのに、何で?」と独り言を言いながら、外へ飛び出した。

 そしてゴミ捨て場まで行くと、フライングで出されているゴミ袋にぬいぐるみ()を投げつける様に捨てて、そのまま走り去った。

 ショックがないかと訊かれれば、とてもショックだけど、正直お母さんの気持ちは理解出来る。

 ただでさえ娘のことで悩みを抱えている最中だというのに、ゴミ箱に捨てたはずの見知らぬぬいぐるみが、その娘の部屋の傍にあったのだ。どう考えてもただのホラーだ。

 とりあえず、このままここにいたら明日の朝ゴミ収集車に連れていかれてしまうので、とにかく家に戻って、鉢植えたちの影に隠れた。


 次の日の朝は、燃えるゴミの日なのに、お母さんはゴミを出しに行かなかった。もしかしなくても、(ぬいぐるみ)のせいだろう。

 そのまま様子を伺っていると、お母さんが庭で洗濯物を干しているタイミングで家に入れたが、やっぱり部屋の前で手詰まりになってしまう。

 そして、ごはんを持って来たお母さんに、隠れる場所も無い廊下で見つかってしまった。

 お母さんは、私も見たことが無い様な形相で、ぬいぐるみ()をビニール袋に詰め込んでゴミ捨て場に捨てた。

 一日かけて、またゴミ捨て場に逆戻りだ、しかも今度はビニールに詰められている。

 ……お母さんを恐がらせたいわけじゃない。とはいえ、自分の体を諦められるものでもないのだ。

 このもやもやを吐き出したいのに、肺の無い体ではため息も吐けない。

 気持ちを切り替えきれずに引きずりながら、それでもまずはこのビニールから出なくてはと藻掻く。

 とはいえ、指が無いとか以前に内側からでは口が縛られたビニール袋から出ることは難しい。暴れれば暴れるだけ、ビニールの結び目がきつくなっているのを感じて、私はジタバタするのを止めて考え込む。幸い、明日は何のゴミの日でもないので、収集車に連れていかれる心配はない。


 とか悠長に考えていたら、夜が明けてまた暮れそうだ!

 さすがにこれ以上ここにいるわけにはいかない。どうしようか…。

「カーッ」

 突然の鳴き声に、体をビクンッと震わせる。

 カラスだ、近くにカラスがいるらしい。しかしカラスって大きいわりに近いから、結構恐い。

 そんな風にビクビクしていたら、カラスが私の方に近付いて来る。そして、何を思ったか私の入っているビニールを突っついた! 私は突然のことに、ビニールの中で暴れる。腕、腕突っつかれた!!

 暴れ出した私に驚いてカラスは飛び去った、私は肺も無いのに、気持ちの上では息も絶え絶えだ。

 人の体だったら、上がった心拍数が落ち着いたくらいの間が空いて冷静になってみると、ビニール袋にはカラスが突っついた為に穴が空いていた。そこに腕を突っ込み力を入れる、柔らかい腕だけど、力を込めれば穴を広げられた。

 広げた穴から外に出ると、既に日が暮れている。

 人通りが無いうちにと、とっとと家に戻る。

 とりあえず表札の裏に座り込む。家に入るタイミングは昨日と同じ、お母さんが洗濯物を干している時がいいかなぁなどと考えていると、お父さんが帰って来た。

 ……お父さんは、大らかというか、鈍いというか、細かいことを気にしない人だ。もしかしたら、お父さんが開けた隙に入れるかもしれない。

 玄関は二階の廊下と違って、下駄箱とか傘立てとか隠れる場所もあるし。

 そう思い立つと、すぐに立ち上がって、お父さんの後頭部を見上げ視線に気を付けながら、少しの距離を空けてお父さんの後ろに続く。そしてお父さんがドアを開けて中に入り、まず小上がりに荷物を置いている間に玄関に入り、素早く下駄箱に下に体をねじ込む。

 そのまま下駄箱の下から見ていると、自重で閉まったドアに鍵をかけたお父さんが、靴を脱いでリビングの方へと歩いて行った。どうやら気付かれずに入れたらしい。

 しばらく待って、両親が寝静まった頃に下駄箱から這い出す。そして自室の前で中に入れるチャンスを伺うのだ。

 もう、本当にこの扉一枚なのに、どうしたら良いのかずっと考えているけど良いアイディアは浮かばない。

 ドアの近くに置いてある、今日お母さんが持ってきただろう食事を見て、それにしてもと考える。私が知っているだけでも三日間食事をしていないみたいだけど、私の体は大丈夫なのだろうか?

 そんなことを考えていたら、ガチャリとドアが開く音がして、私は弾かれる様にドアの方を見る。

 ドアが空いて、私の体が部屋から出てこようとしているところだった。

 こんな角度から自分を見るのは初めてだとか、小汚くてショックだとかが一瞬頭を掠めかけるけれど、その目を見た途端沸き上がった寒気と怒りが、そんなもの吹き飛ばした。

 私の体の中にナニカいる。

 返せよ、そこは私の場所だっ!

 私に気付いたナニカはドアを閉めようとしたが、そんなこと許すもんかっ! ドアが閉まりきる前に体を滑り込ませる、足が挟まったけど痛いわけでもないんだから、気にしない。

 そのままナニカに飛びついた私は、怒りのままにナニカを()()()()

 返せ、返せよ、そこはお前のいて良い場所じゃない。

 怒りに任せ、無我夢中でナニカを押し出していた私は、気付いたら元の体に戻って、ナニカはいなくなっていた。

 現状が理解出来ずに、キョロキョロと辺りを見回すと、少し前まで私だったくまのぬいぐるみが落ちていた。

 拾い上げると、汚れ塗れの傷だらけ、とてもユアちゃんに返せる様な状況ではない。まあ、縁もゆかりも無い大学生が、急になくなったぬいぐるみを持って来ても、ビックリさせるだけだしね。

 せめて洗って、繕って、私が大切にしよう。そう決めて、そっとぬいぐるみの頭を撫でた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ