0.初めてのおまじない
「おまじない…ですか?」
「ええ、きっとあなたのためになるわ」
お客さんとお母さんが、お話をしているのが耳に入る。
「勇気のメダルは、私の中に…」
そうおまじないを唱えて、絵本を閉じ、キッチンカーから駆け足で飛び出す。そのまま、そばにある丸いテーブルで、お話をしているお母さんとお客さんに駆け寄った。今日は、初めて私が考えたおまじないを渡すんだ!
「お客さん! これ! おまじない!」
あどけない声で言い、私は自分と同じほどの高さがあるテーブルに、自分で書いたおまじないを、見せつけるように置いてみせた。
「あ、あのね! このおまじないは、勇気が出るおまじないなのよ!」
緊張するな。受け取ってもらえるかな。
「大丈夫……きっと、できる?」
「そうよ! それを唱えると勇気が出るの! 私が書いたんだから!」
「そ、そうなんだ……あ、ありがとー」
受け取ってくれた! じゃ、じゃなくて。お、落ち着くのよ、私。お母さんみたいに、穏やかに振る舞わなくちゃ。
「い、いいのよ。頑張ってね!」
大きく開いた口を慌てて一文字に結び、私が思う穏やかさで、お客さんに激励を送った。
「ゆりか。あなた、お客さんが何に悩んでいるのか、分かっているの?」
「あ、聞いてなかったわ」
おまじないを渡せたことによる達成感に、浮ついていると、お客さんと対面で座っている、お母さんの穏やかな声で問われて、はっと、気づく。確かに私、お客さんの悩み知らないわ。
「ごめんなさい。お悩みを聞かせてくれない?」
私はお客さんのほうに向きなおし、しかられた犬のような顔で覗き込む。
「え、えー。ちょっと恥ずかしいなー」
頬をぽりぽりかきながら、お客さんのお姉ちゃんは、そっぽを向く。
「大丈夫よ。笑ったりしないから」
何を気にしているのかしら。気にしなくていいのに。
「こら。ゆりか」
「なに?お母さん」
「言い方」
声に穏やかさは少しあったけど、いつも柔らかい表情をしているお母さんの顔がすこし硬くなっていた。なにか、怒らせることをしたのかな。
「いいんです! 千里さん! うち全然気にしてないし!」
場を和まそうと、お客さんは、慌ててお母さんを宥める。
「ごめんなさいね、杏里ちゃん」
お母さんが謝るので、私もとりあえず「ごめんなさい」と謝る。するとすぐに、お客さんは手をふりふりさせて、「いいのいいの」と笑ってみせた。
「ところで、千里さんの、娘の……ゆりかちゃん?」
「そうよ! あなたのお名前はなんていうの?」
「うちは、北野杏里っていいます。よろしくねー」
「杏里お姉ちゃんね! 覚えたわ!」
ありがと、って笑うお姉ちゃんを、いまさらながら、しっかりと容姿を認識した。栗のような茶色がかった長い髪。それに加えて笑顔は、なんの濁りもなく、なんだかキラキラしていて、お母さんとはまた違う、親しみやすい雰囲気が彼女にはあった。もし、私にお姉ちゃんがいたら、こんな感じだったんだろうな。
「ゆりかちゃんは……うちの悩みを聞きたいんだよね?」
「え? あー、そうよ! 教えてちょうだい!」
見惚れていると話題が進行する。杏里お姉ちゃんの悩み…どんな悩みなんだろう。高校生?っていうの? 制服を着てて、そんな見た目のような気がするし、もしかしたら、恋の話かな。それとも、夢の話なのかも。
「うちの悩みは……悩みってほどでもないのかもしれないけど」
私が楽しみに耳を傾けていると、杏里お姉ちゃんが話し出す。
「うち、中学生の頃にダンススクールに通っていたんだけど――情けないことに、怪我をしちゃったんだよねー」
さっきまで明るかった顔。しかし、徐々に雲に隠れていくお日様みたいに、見えなくなっていく。それをお母さんは、真似っこしたような顔で、見つめていた。空気がなんとなく重い気がする。
「あ、でもでも! 足の怪我は、つい最近治ったんだよ!」
重たい雰囲気に逆らうように、軽い口調でお姉ちゃんは話す。
「だけど、なんだか前のように踊れなくって。また、怪我しちゃうんじゃないかって。そう思うと、ダンスも――楽しくなくて……辛いんだ。それで最近は、スクールもさぼり気味になっちゃって」
自嘲的な笑みを浮かべて、なんとか涙を、押しとどめようとしていた。杏里お姉ちゃん……辛そう……。私がお姉ちゃんを助けないと!
「杏里お姉ちゃん、心配はいらないわ。その悩みは、私のおまじないでちょちょいのちょいなんだから!」
そう、おまじないは魔法なんだ。願いを叶えてくれる。きっと杏里お姉ちゃんの悩みだって、解決してくれるんだから。私が小学校で初めて友達を作るときも、授業で自分から手を挙げて、問題に答える時も、勇気をくれて、私の願いを叶えてくれる。だから、おまじないはすごい魔法なんだ!
「どう……おまじないを使えばいいの?」
「それは簡単よ! 私が書いたおまじないを、ダンスするときに唱えるだけなの!」
「それだけでほんとにいいの?」
杏里お姉ちゃんは、労せず儲かるような話で眉をひそめた。
「それだけでいいの」
納得のいかない彼女を、お母さんが優しく諭す。さっきまでの、肩にのしかかった重い空気が、お母さんのたった一言で、緩やかになっていく。お母さんの落ち着いた喋り方、好きだな。
「お金は?」
「いらないわ。けど……」
「けど?」
次の言葉を、いつのまにか前のめりになって待っている杏里お姉ちゃん。それでもお母さんは、あくまで自分のペースで話す。
「経過を何回かお話しに来てほしい……それが条件かしら」
「え、それだけ?」
「それだけよ」
フクロウのように目を丸くし、固まるお姉ちゃんの顔、おかしくて笑っちゃう。でもまあ、無理もないね。近所の駄菓子屋だって、無料なんてないんだから。
「――で、でも店に来て話すっていっても、いつでも話しに来て……いい感じですか?」
「ええ、店が開いている時間ならいつでも」
「ま、まじなんだ……」
いつの間にか椅子から少し浮いたお尻を、杏里お姉ちゃんは、ゆっくりと椅子に密着させる。
「そう。そうやって話しに来て、私があなたを知って、さらにあなたを想えるようになって、その気持ちが、おまじないが、きっとあなたの支えになる。と、私はそう思うわ」
お母さんの澄み切った笑顔と、優しい声に、全身の力が自然とほどけていく。すさまじい破壊力だわ……。頭の中が、真っ白になっちゃった。何考えてたんだっけ。あ、そうだった。杏里お姉ちゃんに明日来てもらいたいって伝えなきゃ!
「杏里お姉ちゃん! 明日話しに来てくれる?」
「ん、え? あ、明日?」
「そう、明日!」
「あ、明日かー。明日はちょっと……」
「杏里お姉ちゃんならきっと出来るわ!」
顔を拳一個分近づけたら、甘い香りが一瞬、鼻先をくすぐってきたのに、お姉ちゃんは私が近づけただけ、顔を遠ざけ、においのする領域から私は外されてしまった。もう少し嗅いでいたかったけど、とりあえず杏里お姉ちゃんのこと、応援しなきゃ。
「ゆりか、さすがに明日は……」
「大丈夫よお母さん! おまじないがあるから!」
お母さんは、時々甘やかすんだから。逃がさないからね、杏里お姉ちゃん。ここで逃げちゃったら、もう好きなダンスを楽しめなくなっちゃうかもしれないじゃん。
「さ、お姉ちゃん。逃げちゃだめだから、しっかりスクールいってね!」
公園の出口まで、お姉ちゃんの華奢だけど重たい背中に手をあて、大岩を押すように頑張って運びきり、送り出す。
「わ、わかったよー」
観念したのか、溶けそうな表情でそう言い残し、トボトボ帰路につこうとした。
「また明日ねー」
お姉ちゃんの影でのびた、暗い背中に向けて、大きく手を振った。私のおまじないが、魔法としてお姉ちゃんを助けてあげて、笑顔で「ありがとね! ゆりかちゃん!」って、言われることを想像すると、明日がすっごく楽しみ。
「ゆりか、明日どんな結果でも杏里お姉ちゃんを受け入れてあげなさい」
「だ、大丈夫だよ。私はね、杏里お姉ちゃんを信じているから」
私とお母さんは、小さくなっていく杏里お姉ちゃんを見送り、店へと戻っていった。きっと大丈夫。私のおまじないがきっとお姉ちゃんを助けてくれるはず。
家に帰り、夕飯も食べ終え、なんとなく杏里お姉ちゃんの会話をすることなく、ベッドの中で一日を終えようとしている時、明日の来たる運命に眠れずにいた。明日が楽しみで眠れない。だけど何だろう。緊張もしているような気もする。あのお母さんの言葉……、どういう意味なのかな。そうやって期待と不安で、頭の中がしっちゃかめっちゃかになり、私はいつの間にか眠りについていた。
翌日。まだ空が青さを残している頃、私は、知らぬ間になくなった不安をよそに、ただただ杏里お姉ちゃんが笑顔で来てくれると、首を長くして待っていた。
「杏里お姉ちゃん、遅いなー」
パラソルで出来た影の下で、公園の出口の向こうから、栗色の髪が見えてこないかぼーっと眺めていても、お姉ちゃんがなかなか現れない。
「ゆりかー、暑いからキッチンカーの中で休んでいなさい。来たらママが教えるからー」
キッチンカーで何かしら作業をしてるお母さんが、私のことを傍目で気にかける。
「えー、もう少し待っとくー」
昨日眠れてないせいか、なんだかうとうとしてきたような。にしても、杏里お姉ちゃんが来ないってことなんかないよね。約束したし。
「あ! お姉ちゃんと同じ髪……い、ろ。のカツラつけたおばさんかい!」
公園のそでに植えられている茂みから、お姉ちゃんと同じ髪色が見えたと喜びも束の間、明らかにカツラだって分かるような違和感しかないおばさんが、ご機嫌で歩いていた。ああいうおばさんもいるのね……。紛らわしい。なんだか力が抜けちゃった。唐突に脱力感に襲われ、肩に力が入っていたことを、ここで認識した。日陰でも暑くなってきたし、おとなしく車の中で、涼しんどこうかな。
「お母さーん、私、車の中で休んどくからー。杏里お姉ちゃんが来たら教えてよー。絶対に!」
「わかったから、早く車の中に入りなさーい」
私は日陰から嫌々出ながら、両手を無気力にぶらさげ、だらしない姿勢で車の中に避難した。
車内は夏を感じさせない空間、いや、冷房のきいた屋内も、夏の醍醐味であると思える。暑さと、不確実な未来に対する緊張からの一時的な解放感に、身体は省エネモードになり、助手席に全身が沈んでいく。はあ、体が溶けちゃいそう。ここからしばらくは動けないかも。
「お姉ちゃんが来るまで――ちょっとだけ、眠ってても……いいよ、ね?」
冷気が私を優しく包み込む。公園の蝉の声でさえ、はるか遠くに聞こえてしまう。こうなると後は、目を閉じるだけ。そして私は、ゆっくりと眠りについた。最悪なタイミングで、起きてしまうことも知らずに。
杏里お姉ちゃんが来て、番組の合間に入る宣伝くらいの時間が経ったタイミングで、急かされるような感覚になり、私は目を覚ました。周りを見渡すと、まだ空は青く、そこまで時間は過ぎてないように思える。目が周囲の明るさに慣れ、キッチンカーのドアを開けようとした時、杏里お姉ちゃんの声を小耳に挟んだ。
「ゆりかちゃんには……会えない。うちはまだ何も変わっていないから。――だからさ、千里さん。ゆりかちゃんには、上手く言っておいてほしいなーって……」
「そんなことないわ。あなたの変化に、今は気づけていないかもしれないけど、あなたは少しずつ……変われている。だからそんなに気を落とさないでちょうだい」
お母さんと杏里お姉ちゃんの会話を聞いて、心臓が強く跳ねる。会えないってどういうこと?
頭の中が疑問符で埋め尽くされ、何も考えることができなかった。今、私はどうしたらいいんだろう。
「――ありがとうございます。でも、あの、伝えたかったことはこれだけなので。それじゃあ、うちは帰りますね。それじゃあね、千里さん」
ゆっくり、車窓から顔を覗かせるとお姉ちゃんは、眉間に皺を寄せ、今にも涙が目から溢れそうになっていた。それに気付く余裕すらないお姉ちゃんを見て、胸が痛み、息苦しくなった。私がそうさせたのかな。目の焦点が合わない。どうしよう、泣きそうだよ。やっとピントが合った時には、お姉ちゃんはお母さんに別れを告げ、だんだんと遠くなっていく砂利の音とともに、彼女の存在は消えていった。たくさん聞きたいことがあったけど、それでも私は、キッチンカーから出ることは出来なかった。なんでなんだろう。私のおまじないじゃ、杏里お姉ちゃんの願いを叶えることが出来ないのかな。お姉ちゃんのために、書いてあげたおまじない……。私の、初めてのおまじないだったのに。おまじないって何なんだろう。
私は、そこから石にでもなったかのように、動けなくなった。 しばらくして石化が解かれると、私はまた車窓から、外を見渡した。お姉ちゃんが忘れ物とかで戻ってきてないことを確認して、そっとドアを開ける。とにかく、お母さんには聞いていたことはバレないようにしなきゃ。
「お、お母さーん、杏里お姉ちゃんは来てたー?」
目をこすり、お母さんが見ているわけでもないのに、今起きました感を出して、外のテーブルで、優雅に紅茶を飲むお母さんに近づく。
「来たわよ。――けどすぐに帰っちゃったわ。起こせなくて、ごめんね」
「だ、大丈夫だよ、お母さん。……そ、それで、お姉ちゃんはど、どうだったのー?」
「――聞いていたのね」
「へ?」
予想外の返答に目が点になる。
「え? き、聞いてないよ! さっき起きたから何も聞こえなかったもん!」
「――ほんとうなの?」
「ほ、ほんとだよ!」
お母さんに心配をかけまいと、反射的に強がってしまい、後に引けなくなっちゃう私。そんな定番な振る舞いを見ても、お母さんはここまでがお決まりと言わんばかりに、私の言葉を、額面通り受け取ろうとはしなかった。
「聞こえていたんでしょ?」
私の目の裏側を覗き込むような視線。けれど私は、ブレーキが壊れたトロッコのように、強がることを止めることはできず、お得意の声量で押し切る作戦にでる。
「うう……そうだけど、私……別に気にしてないよ! 初めてだったし……仕方ないよね!」
まったくもう、と呆れた様子のお母さん。だけど、そこには厳しさなんてものは感じないほど、言葉に鋭さはなかった。
「いちおう話しておくけど、ゆりかのせいじゃないわ。杏里ちゃんには時間が必要だったの。さっきの杏里ちゃんを見たらわからないかもしれないけど、あの子だって、ほんとは悔しいのよ。」
「わ、わかってるよ!」
「……わかってくれたなら、杏里お姉ちゃんのこと、許してあげなさい。そしたらお母さん嬉しいわ」
「はい、お母さん……」
私の声量でゴリ押し作戦は、柳に風で、お母さんにうまく受け流されてしまった。分かってはいるんだけど、悲しいものは悲しい。自分にはお母さんのような、おまじないの才能がないんじゃないかと、それがどうしても頭の中を行ったり来たりしてしまう。
「さ、それじゃもう今日は、店じまいしましょ。ゆりか、手伝いお願いね」
きっとその時、お母さんは私が意味を理解してなかったことを、私の態度や表情なりを見て、察しただろう。けれどお母さんは、それ以上私を追及することはせず、自分が座っていた椅子から片づけ始めた。




