感情に人は騙される。
夫との出会いは…
私が二十歳の時、事務員として働いていた病院へ、忠志が患者としてやって来た。
忠志「あの、お願いします。」
「保険証をお預かりします。これに、ご記入をお願いします。」
忠志「あの…、右手が使えなくて、代わりに書いてもらえませんか。」
「あ、そうでしたか、分かりました。」
私達は、お互いの時間軸の中で出会っただけで、それ以上でも、それ以下でもなかった。
だから、二度目に出会ったあの日の出来事には、衝撃を受けた。
私は、恭子と映画館で待ち合わせをしていた。
時間にルーズな恭子を待つのはいつもの事だった。
だけどこの日は、恭子の遅刻よりも気になる事があった、それはチケット売り場の前で、周りの人から注目を浴びている男女がいたからだ。
ドラマさながらに、女性が
「いい加減にしてよ、もう無理。」
そう叫びながら、男性の右頬にビンタをくらわし、足早に女性はその場を去って行った。
男性は、ポップコーンを片手に持ち、天井を見つめていた。
あの男の人、何処かで見た…、そうだと、思った瞬間。
恭子「やるね、あの人。」
後ろから声がして、振り返ると、そこに恭子が立っていた。
「いつ来たの。」
恭子「ビンタくらわされた時にはいたよ。」
「そうなの、じゃあ行こうか。」
恭子「驚きだね。生ビンタ初めて見たよ。」
「聞こえるよ。」
恭子「だって気になるじゃん。」
「ならない。」
私も、ドラマ以外でビンタされるのを見たのは初めてだったけど、それよりもビンタをくらった男性が、この前、病院へ来た人だった事に衝撃を受けていた。
それから暫くして、また忠志と出会う事になる。
「小宮忠志様。」
忠志「はい。」
「本日のお支払いは、1320円になります。」
忠志「これでお願いします。」
「1500円お預かりします。180円のお返しになります。」
忠志「…。」
「お大事に。」
忠志「あの、この前、映画館にいましたよね。」
(え、ヤダ、気付いてたの。)
「…、お会いしましたか?」
忠志「僕がビンタされた日、いましたよね。」
「えっと…。」
忠志にじっと見つめられ、私は諦めた。
「ああ、あの日ですね。確かにいました。いましたが、小宮さんだったとは気付きませんでした。」
忠志「そうですか、お恥ずかしい所をお見せしました。」
(恥ずかしい事なら、知らないフリをすれば良いのに。)
「…、お大事に。」
忠志「どうも。」
木下「何、知り合いだったの。」
「いいえ、違いますよ。」
木下「へぇ、そうなの。」
私は、仕事の中で知り合った人達とは、仕事の外で会ったとしても、声を掛けないし、掛けられたくない。
何故なら、スタバの店員が、イケメンでスマートな対応をしてくれて、トキメイたとしても、店の外では関わりがなく、全く別人だったとしても何ら問題がないのと同じだ。
こちらが覚えていても、あちらは覚えてないと、いう事を忘れてはいけない。
この頃の私は、恋愛よりも女友達との遊びの方が楽しくて、中学から付き合っている正人との関係が希薄になっていた。
正人「明日、仕事終わりに、迎えに行くよ。」
「あー、ごめん。明日は、恭子と会う約束してて、ごめんね。」
正人「そうか、じゃあいつが良い。」
付き合いが長いからか、マンネリからか、正人よりも優先したい事があった。
その事を正人は分かっていた、でも正人が優しすぎて何も言い出せずにいる、その優しさに私は甘えていた、だから、私から終わらせてあげないと、正人の大切な時間を奪ってしまい、今よりも深く傷つけてしまう。
「今から会えるかなぁ。」
正人「…、良いよ。」
この時、私が何を言い出すのかを正人は知っていた。
「わざわざ来てもらってごめんね。」
正人「悪い話じゃなければ良いけど。」
そう言われても伝えなければ終わらない。
「ごめん、私達、友達に戻れるかなぁ。正人が嫌いになったとか、他に好きな人ができた訳じゃないの、ただ、今は恋愛を楽しめなくて、本当、勝手な事言ってごめんなさい。」
自分で言いながら呆れている、同じ事を誰かから聞いたら、そんな事言う奴とは、直ぐに別れろ、時間の無駄だと、腹を立てただろう。
だけど、正人は怒らなかった。
いつもの優しい正人がそこにいた、だから甘えてしまう。
正人「そっか、分かった。」
「ごめんね。」
正人「謝らなくて良いよ、もう気持ちがないって事でしょ、仕方ないよ。でも、僕は友達には戻れない。ごめんね。だから、別れよ。」
(そうだよね、綺麗事で終わらせるのは、卑怯だよね。)
「分かった。今まで有り難う。」
正人「こちらこそ有り難う。」
正人の優しさが、私を罪悪感で覆っていく、当然の事だ。
正人と別れても泣かなかった、いや、泣けなかったのだ。
恭子「あんた、バカだね。あんな良い男をフルなんて、本当、バカ。」
「分かってる。私はバカです。正真正銘のバカ。」
暫くして、風の噂で、正人が他の人と付き合っていると、聞いて、少し、ホッとしたようで、何故だか寂しかった。
私って、本当に自分勝手だ。
季節が一回り過ぎた頃、
山口「こんばんは、コイツら俺の同級生で、小宮、大西、山口です。宜しくね。」
恭子「私は、中野恭子です。で、秋山正恵と林美沙、宜しく。」
恭子に誘われて行った合コンで、忠志とまた会う羽目になるとは、こういう場合、どんな顔して話せば良いのだろうか、知り合い程の距離でもなく、初めましてでもない。
そんな事を考えていたが、お酒が入るにつれて、どうでもよくなって、いつの間にか、忠志の話に耳を傾けていた。
忠志「あの日、ほら、僕が彼女にビンタくらった日、僕、無職だったんだわ。夜に彼女の部屋へ忍び込もうとして、二階から落ちて、腕を骨折して、そしたら会社をクビになって、彼女に、いつまでフラフラしてるんだって、振られて、本当、最悪、そんな最悪な所を見られてたなんて、情け無いよね。」
(何だ、夜這いに行っで骨折した話してるのか?それとも、振られてビンタされた話をしてるのか?)
不幸過ぎる話に耳を傾けながら、私は、捨てられた犬のように、悲しげな目をしている彼に同情していた。
私は、愛がどんなものか知らなかった。
正人の事は、好きだったが、それが愛だったのか、今でも分からない。
だから、可哀想…という、この厄介な感情が、何なのか分からないまま、私は沼へと進んで行く事になる。