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公式企画

思い出巡り

作者: 夏月七葉

 姉が死んだ。


 土砂降りの雨が朝から一日止まなかった日の夜、仕事から帰宅して母親からもらった電話で安藤(あんどう)言子(ことこ)はそれを知った。

 一瞬、頭が空っぽになって何も考えられなくなった。五感が全て抜け落ちたみたいに何も感じられなくて、後になってみると〝虚無〟とはああいう状態のことをいうのだろうと思う。


 どうにか病院の名前だけを頭に入れて電話を切ると、すぐに家を出た。

 電車に乗って移動したと思うのだが、道中の記憶はない。覚えているのは、酷く響いていた雨音だけだった。


 病院で色のない姉の顔を見て、初めて涙が出た。それまでは、きっと何処かで信じられずにいたのだろう。悪い夢か冗談と思いたかったのだろう。生まれてからずっと傍にいた姉がいなくなるなんて、考えもしなかった。

 今更真実を実感して、降り頻る雨と一緒に地面に溶けてしまいたくなった。


   *


 警察の話では、姉――伝美(よしみ)は彼女の自宅マンションの屋上から落下したのだという。頭から落ちた為、即死だったそうだ。

 遺言状らしきものは見つからなかったが、状況からして自殺とされた。同僚の話によると直前まで関わっていた仕事が上手くいっておらず、そのストレスで自殺に至ったと考えられた。


 葬儀は小規模で行ったが、伝美と仲の良かった友人や会社の同僚、上司も少人数ながら駆けつけてくれた。皆、妹である言子や両親にも優しく声をかけてくれて、改めて姉は人の縁に恵まれていたのだと実感する。


 友人の中には、言子も一緒に遊んだことのある顔もあった。伝美の友人は気さくな人ばかりで、友人の妹という壁もほとんど感じることなく接してくれていたのだ。


 同僚の人達も会社での伝美の様子を教えてくれたり、良い人だったのにと漏らす瞬間も見せてくれた。

 上司だという男性も含めた年嵩の数名は葬式の経験も多いらしく、言子達を励ます言葉を幾つもくれた。「もっと彼女のことを見てやれていたら……」とか「もっと手伝えることもあったかもしれない」とか、後悔を滲ませる様子もあった。

 最近の変わった様子なども訊かれたが、家族と顔を合わせた時の伝美は普段と変わらないようにしか見えなかった。きっと、心配をかけまいと努めてそうしていたのだろう。


 その日の夜、そう距離も離れていないはずなのに一人暮らしの自宅に帰る気になれず、言子は久し振りに実家に泊まることにした。

 有給は明日まで申請していることもあって、少し実家で落ち着こうと思った。


 帰ってから母親が淹れてくれたお茶を飲んで一息ついた頃、不意に母が口を開いた。


「あの日の二週間くらい前、あの子ったらふらっと帰ってきたのよ。『ただいま』って笑顔で、会話も沢山して……その時はいつも通りに見えたけど、きっともう悩んでいたのよね……ああ、私が気づいていてやれたら……っ」


 泣き崩れる母を、言子と父も涙目になりながら宥めることしかできなかった。

 きっと、誰にもどうにもできなかったのだろう。そんな風なことを言いながら、自分にも何かできたのではないかと思ってしまって胸が痛んだ。


 母親が落ち着いた後、言子は一人で子ども部屋に向かった。

 姉妹で一緒に使っていた部屋だが、両親は勉強机やベッドもそのまま残しておいてくれていた。部屋の隅に置かれた段ボール箱は、言子と伝美がそれぞれ自宅から送った荷物だろう。


 自分の勉強机に近づくと、本立てに並んだ背表紙の中に伝美が昔勧めてくれた小説のタイトルが見えた。その時の楽しそうな姉の笑顔を思い出して、言子はここ数日何度目になるか判らない涙を目の端に浮かべた。

 その涙が零れようとした時、ふと不思議に思って首を傾げる。

 確かに言子は伝美にその本を借りて読んだ。しかし、一ヶ月ほどかけて読了した後はすぐに返したはずだ。

 それ以来借りた覚えはないから、その本が言子の机にあるのはおかしい。


 母親が掃除に入った時に間違えてこちらに仕舞ってしまったのだろうか。そう思いながら本を手に取ってパラパラと捲ってみると、ページの間からするりと何かが足許に落ちる。

 落ちたのは、封筒だった。シンプルな白い封筒だ。

 言子は拾って表を返して、目を瞠った。


 宛名のところに控えめに書かれていたのは、言子の名前だった。筆跡も見覚えがある。間違いなく、姉の字だ。

 二週間前に伝美が帰ってきていたと言っていた母親の言葉を思い出し、もしかしたらその時に遺書をここに置いていったのかもしれないと、一も二もなく封を開けて便箋を取り出した。


   +


 言子へ。


 突然の手紙でびっくりしたでしょう。

 ただ小さかった頃のことを思い出して、手紙を書いてみたくなったの。

 言子も思い出してみてくれたら、嬉しいな。


   +


 そんな言葉から始まった内容は、人生の後悔でも懺悔でも、誰かの恨みでも、悩みでもなく、ただただ幼かった頃を振り返るものだった。懐かしさを噛み締めて綴られた文字は終始穏やかで、荒れた様子もない。

 手紙の最後には、伝美のトレードマークのようなものだった笑顔を模した簡単なイラストが描かれている。昔から何かとこのマークを描くのが癖になっていて、封筒と同じくシンプルな便箋もそのお陰で少し明るい印象になっている。


 今はここが実家だが、その前に住んでいた家があった。その頃はまだ二人共小学生で、毎日無邪気に遊んでいたのを覚えている。

 そんな日々を綴った文章は優しく、温かく、とても死を意識している人間の書いたものとは思えなかった。


 言子は手紙を手に思い立つ。

 明日は、この手紙の場所を順番に回ってみよう。前の家があった場所はここからそう離れていないし、手紙にある場所も三ヶ所しかないから、一日あれば充分に行ってこられる。

 そう決心をしたら、その夜は意外にもすんなり眠りに入ることができた。


   *


 少しばかり期待していたのだろう。朝起きて、何も夢を見なかったことに淋しさを覚えた。

 無意識に、姉に夢枕に立ってもらいたいと思っていたらしい。夢の中でも良いからもう一目、元気な姉の姿が見たかった。


 チュンチュンと、昼下がりの静かな住宅街に雀の鳴き声が響く。

 そんな平和な空気の中、場違いなほど暗んだ心を携えて言子は歩いていた。昨日の今日である。すぐに元気になれというのも、無理な話だ。

 しかしながら、次第にそんな気持ちも薄れていくのを感じた。決して消えてしまわないが、目にする景色の懐かしさが微炭酸水のように少しの刺激と共に気持ちを落ち着かせていく。


 住宅街の真ん中、小さな公園の入り口に立った言子は手紙を広げた。


   +


 今の実家の前の家、覚えてる?

 あの家の近くに小さな公園があったでしょう。遊具はブランコと滑り台しかなくて、でもよく手入れがされていて。

 大半は広場になっていて、友達を誘ってよく鬼ごっこをしていたっけ。

 私達二人しか知らない秘密の場所、まだあるかな。あそこに拾ったどんぐりとか綺麗な小石とか隠して遊んだね。宝物を隠すみたいでワクワクしたなあ。


   +


 公園の様子は、昔とそう変わらない。手紙にあるように手前にブランコと滑り台があるだけで、後は広々とスペースを空けて子どもが自由に駆け回れるようになっている。

 言子の記憶と違うことといえば、塗り直したらしい遊具の色くらいだろうか。どちらもくすんだピンク色をしていたと思うが、今は明るいブルーだ。

 公園自体はもっと広かったような気がするが、それは言子が大人になったからだろう。


 平日の昼間とあってか、今は子ども達の影もなく静かなものだ。

 言子は手持ち無沙汰気に佇んでいるブランコの一つに腰を落ち着けた。昔はギリギリ足が地面につくくらいだったのに、今は寧ろ膝が少し上向く。

 膝を曲げ伸ばししてゆっくり前後に揺れながら、かつての景色を思い起こす。


 子どもの頃の記憶はどうしても色褪せて、多少覚え違いをしていることもあるだろう。それでも〝楽しかった〟という思いだけは鮮明で、それだけは記憶と相違なかったと断言できる。


 ふと、公園の隅に置かれた用具入れに目を留めた。

 雨風に晒されて薄汚れたそれは、中に掃除用具や花壇の手入れに使う道具が入れられている。普段は鍵がかかっていて開かないが、週に数度、地域のボランティアが公園の手入れの為に開けるのを見たことがあった。


 言子は暫し考えてから、立ち上がって用具入れに歩み寄った。裏側に立った木の枝が上を覆って、ちらちらと陽光を落とす。

 回り込んでその太い幹に近づいてしゃがみ込むと、記憶の通りに幹に小さな穴が空いていた。

 手紙に書かれていた、姉妹だけの秘密の場所である。


「まだ残ってたんだ……」


 ぽそりと呟き、穴の中にそっと手を入れてみる。もしかしたら今の子ども達もここに何かを隠しているかもしれないと、期待があった。

 成績の悪いテスト用紙でも出てきたらどうしようと思いながら、手に当たったものを引っ張り出す。


「……え?」


 出てきたのは、透明なビニール袋に入った小さな鍵だった。しかも、袋の端に姉のトレードマークがマジックで描かれている。

 古いものではない。明らかに新しくて、最近ここに入れられたものだと判る。


 言子はもう一度手紙を開いた。

 もしかしてこれはただ思い出を振り返るものではなく、何かを言子に伝えようとしているのだろうか。

 だとしたら、姉の伝えたいことをしっかり受け止めたい。

 言子は鍵を鞄に仕舞って立ち上がった。


   *


 小学校へは、一緒に通ったよね。登校も下校も手を繋いでいたから「姉妹で仲良しね」なんてよく言われて。

 お互いに友達も多かったから、そこからまた友達の輪が広がったりして。賑やかで楽しかったなあ。

 放課後は、用務員のおじさんを手伝って校内の花壇に花を植えたりもしたね。今も色とりどりの花が綺麗に咲いているのかなあ。


   +


 母校は、最後に見た時のままだった。

 古びた五階建ての校舎の前に校庭が広がり、正門の左右の花壇には季節の花が風に戦いでいる。


 今は給食も終わって、児童達は眠い目を擦りながら午後の授業を受けているのだろう。誰の姿も見えなくて静かなのに、子ども達の息遣いを感じる。


 当然のことながら正門は閉ざされて、既に部外者である言子は中に入れそうにない。

 もしかしたら公園の鍵のようにここにも何かあるのかもしれないと思ったが、これでは調べようもない。花壇の花をもう少し眺めてから、また放課後に出直してこようか。


 そう思っていると、校舎から誰かが出てくるのが見えた。その人はこちらに歩いてきて、途中で言子の存在に気づいたらしい。両手に持ったバケツをガタガタと鳴らして足早にやってきて、門越しに言子を見て目を丸くする。


「もしかして、コトコちゃんかい?」

「……おじさん?」


 その人は紛れもない、言子がここに通っていた時にいた用務員だ。

 当時はがっしりとした体格のおじさんだったが、今目の前にいるのはお爺さんに片足を突っ込んだような姿だ。僅かに腰が曲がり、白髪交じりの髪を簡単に一つに纏めている。

 そんな彼に月日を思い、言子は言いようのない感傷に浸った。

 彼はすぐに門を開けて出てきて、目を細めて言子を見る。


「懐かしいなあ。おじさんのこと、覚えてるかい?」

「勿論です!」


 言子が笑顔を浮かべると、彼も嬉しそうに相好を崩す。

 小学生の頃は、彼とよく話をした。彼は児童達を子ども扱いせず、一人の人間として目線を合わせてくれるから、人気者だった。彼の傍は居心地が良くて、担任の教師よりも相談がし易かったこともあるのだろう。

 手紙にも書かれているが、言子と伝美は彼を手伝って一緒に花壇の植え替えをすることが多かったから、彼の記憶にもよく残っているらしい。


 彼は持っていたバケツを脇に置いて「よいしょ」と花壇の縁に腰かけた。その隣を掌で叩くので、言子も遠慮なく腰を下ろす。

 視線は高くなったが、ここから見える景色は変わらない。吹いてくる風も当時のように柔らかだ。


「それにしても、本当に会えるとは。嬉しいねえ」

「え?」


 尋ね返した言子の声は小さくて聞き取れなかったらしい。彼は変わらぬ表情で続けた。


「お姉さんは――ヨシミちゃんは元気かい?」

「あ――」


 言葉が詰まる。真っ直ぐに彼を見ていられなくなって、言子は視線を足許に落とした。


「その……先日、亡くなったんです」

「――……そう、だったのかい」


 秘密を打ち明けるようにぼそりと告げると、驚きと残念さが入り混じった声が返ってくる。

 はっきりと誰かに真実を言うのは初めてで、現実は変わりはしないのに言葉にしたらその現実を本当に受け入れてしまうようで、少し怖かった。しかし彼に伝えたことで、僅かではあるが胸の中に広がっていた靄のようなものが薄れた気がする。

 晴れることはないが、気分が少しだけ楽になった。最初に話せたのが彼で良かった。


 暫くの沈黙を挟んで、彼がゆっくり口を開く。


「実はね、二週間くらい前にヨシミちゃんもここへ来たんだよ。その時は元気そうに見えたけどなあ」


 思いもしなかった言葉に、顔を上げる。

 もしかして、実家に帰省した時にここへも寄ったのだろうか。

 この辺りは住宅ばかりで他に行くところもないだろうから、わざわざ母校に来たということだろう。公園の件もあるし、手紙に関係することで来たのかもしれない。


「ヨシミちゃんとはあまり長話ができなくてね。また来てくれと言ったら、その内妹が顔を出すだろうからって。それから」


 言葉を切って、バケツの中からスコップを一つ取り出す。


「妹が来たら、スコップを貸してやってくれと言っていたよ」

「?」


 差し出されるまま、言子はスコップを受け取った。よく使い込まれていて綺麗ではないが、大事にされているのが伝わってくるほどしっかりとしている。

 しかし、これを借りてどうしろというのだろう。

 姉の思考が解らない。解らないが――。


(公園の鍵に、学校のスコップ。絶対、意味がないなんてことはない)


 その意味を見つける為に、やはり手紙にある場所を辿るべきなのだろう。

 残る場所は、あと一つ。


「おじさん、ありがとう。スコップ、借りていきますね」


 言子は手早く挨拶を済ませると、最後の場所へ向かった。


   *


 更地になっているのは、初めて見た。

 あの頃はまだ幼かったからか広く感じていたが、今こうして見ると随分と狭いものだ。

 そんな風に思いながら、言子は雑草が短く生えた敷地に足を踏み入れた。そして、改めて手紙を広げる。


   +


 今の実家にはないけれど、前に住んでいたところには桜の木があった。春になるとピンクの花弁が庭に絨毯みたいに広がって、とっても綺麗だったね。

 当時は太郎もいて、どっちが世話をするかって喧嘩したこともあったっけ。今では笑い話だけど、太郎が知らない内にお人形を桜の根元に埋めちゃって、庭で遊んでいる時に偶々見つけて悲鳴を上げたね。あの時はびっくりしたし、怖かったなあ。


   +


 手紙が最後に語った場所は、以前の実家だ。数年前に家屋は取り壊されてしまったので、正確には跡地である。

 今朝、土地の所有者に連絡をしてみたら、伝美から話は聞いているから、今日の内なら好きにして良いと言われた。

 そこまで話を通しているというのなら、間違いない。手紙を通して、伝美は言子に何かを伝えようとしている。


 角の辺りから数歩のところが玄関で、入ってすぐ右側に二階へ続く階段があった。階上には子ども部屋と両親の寝室、一階はトイレとお風呂といった水回り、キッチン、そして――。


「ここがリビング」


 家族が集まる温かな場所。かつてはリビングだった部屋の大きな窓があったところに立つと、目の前に一本の木が聳えている。

 昔から変わらないのはこの木だけなのに、こうして見上げているとあの頃の家の様子が鮮明に甦るようだ。

 季節が終わってしまったから今は緑の葉しか見えないが、もう少し早かったら綺麗なピンクの花弁が青空に映えていたのだろう。

 いつからここに立っているのかも判らない、けれど確実にここでの言子達の生活を見守ってくれていた桜の木だ。


 頬を流れた涙を拭って、視線を下ろす。

 言子と伝美は、よくこの木の下で遊んでいた。

 手紙にある太郎とは、かつて飼っていた柴犬のことである。ここを引っ越す前に虹の橋を渡っていってしまったけれど、まるで三人きょうだいのように過ごしていた。


 不意に風が吹いて、足許を太郎が駆け抜けていくのに似た感覚を覚えた。無意識にその先を目で追って、桜の木の根元に注意を留める。


 敷地内には、雑草が生えている。とはいえ定期的に手入れがされているようで、荒れている感じはない。地面も平らに均されて、小石も少ない。

 そんな綺麗な敷地の中で、桜の木の根元の一部だけ不自然に土が盛り上がっている箇所がある。よく見ないと判らないほどだが、最近一度掘り起こして埋めたという風だ。

 しかもそこは、昔太郎が人形を埋めてしまった場所――。


 言子は右手に提げていたレジ袋を持ち上げた。中から用務員のおじさんに借りたスコップを取り出し、袋は丸めてポケットに突っ込む。

 土が盛り上がっている場所にそっと近づいて、唾を飲み込む。そして、そこにスコップを突き立てた。


 土を掘り返し始めて暫くすると夕陽が差し始め、気づけば辺りは夕闇に沈んで敷地のすぐ外に立っている街灯の灯りだけが頼りになりつつあった。

 どのくらい掘ったのか、時間の感覚が曖昧だ。まだ幾らも経っていないような気もするし、随分掘ったような気もする。


 しかし、終わりは唐突だった。スコップの先がこつんと何か硬いものに当たる。

 周囲の土を除けて露わになったそれは、大きい缶だ。両手で持ち上げてみると、それなりに重量がある。傾けた時、コロンと中で何かが転がる軽い音がした。


 言子はそれを抱えて、街灯の下に向かった。土を手で払うと、のっぺりとしたシンプルな缶であることが判る。

 蓋に手をかけるが、開きそうにない。缶の側面を見てやっと、鍵穴があることに気がついた。

 昼間に行った公園を思い出して鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。思った通り、鍵はぴったりと合った。


 ゆっくり蓋を開ける。

 街灯に照らされた覚束ない視界の中、出てきたのは書類らしき紙の束だった。一番上には、USBが載っている。先ほど音がしたのは、これが原因だろう。


 USBを手に取ると、そのすぐ下に一通の封筒がある。宛名も差出人の名もないが、返した裏側に見慣れた笑顔のマーク。

 言子は封を開け、入っていた便箋に目を落とした。


   +


 言子へ。


 見つけてくれて、ありがとう。

 これを言子が読んでいるということは、私はどうにかなってしまった後なんだろうね。

 きっと急なことでびっくりしているでしょう。ごめんね。


 最後に一つだけ、言子にお願いしたいことがあるの。

 実は私の勤めている会社、とんでもない不正をしていたんだ。

 私は偶々それを見つけてしまって、上司にも相談したんだけど、その人も不正に荷担していた。上司を通して不正を知る社員として目をつけられてしまった私は、今は大人しく上層部に従うフリをしている。

 外部に漏れたら会社の存続にも関わることだから、私もいつ何をされるか判らない。


 でも、こんなことは許されない。許しちゃいけない。

 正義感、なのかな。だけど一番は、不正を働いている会社にいるのが嫌なだけかもしれない。


 ここに、私が少しずつ集めた会社の不正の証拠が入ってる。

 もしも私に何かあったら、言子、貴女がこれを公表して。

 言子やお父さん、お母さんが危険なことにならないように、匿名でも良い。会社の人達に何を訊かれても「知らない」で通せば、きっと手出しはできないと思う。それに、警察を頼れば守ってもらえると思う。


 こんなこと、言子に任せちゃってごめんね。

 でもきっと言子ならちゃんとやってくれるって、信じているから。


 今まで、ありがとう。

 お父さんやお母さんにもよろしく言っておいてね。

 私は言子のお姉ちゃんで良かったよ。

                        伝美


   +


 最後に書かれた姉の名前の上に、雫が落ちる。

 後半になるにつれて暗いのと涙とで上手く読めなくて時間がかかったが、姉の想いは痛いほどに伝わってきた。


 伝美は今までこれを一人で抱えていたのだろう。迷惑をかけたり、危険に晒したりしたくないから、家族や友人にも相談できなくて、ずっと恐怖と戦っていたに違いない。

 そして最後に、自分の身の危険を感じてこれを残した。


 危険だとしても、言ってくれたら良かったのに。そうしたら、こんな結果にならなかったかもしれないのに。

 もしかしたら、逆に今より悪いことになっていたかもしれない。だけど、そう思わずにはいられなかった。


 言子は缶ごと手紙を抱え込んで、声を押し殺して泣いた。

 ここ数日は沢山泣いたというのにまだ涙が残っていたのかと思うくらい、泣いた。


 どのくらい時間が経ったかは判らない。

 いい加減泣き疲れて顔を上げると、すっかり暗くなった空に場違いなくらい綺麗な星と満月が見えた。


   *


 暑い夏の空を爽やかな風が渡る。

 言子は顎に流れた汗を手の甲で拭って、一人墓前にしゃがみ込んだ。

 供えたばかりの花は瑞々しく、線香の煙が細く立ち上る。遠くで聞こえる蝉の声がいやに長閑に響いた。


 先ほどまで両親も一緒にいたのだが、新盆ということもあって住職に挨拶をしにいった。

 この季節は毎年家族で墓参りに寺を訪れるのが恒例で、例年景色もそう変わらない。

 なのに、今年は姉の姿がない。

 それが何処か不思議で、違和感で、落ち着かない。

 言子はぼんやりと墓石を眺めた。


 伝美が集めた不正の証拠は、あの後すぐに警察へ持っていった。事情を話し、再度調べてもらったところ、伝美は彼女の上司に突き落とされたという事実が判明した。

 不正の件で言い争いになった上司は伝美の自宅にまで押しかけ、屋上で話し合いをしたが揉めてしまい、その勢いのまま突き落とす形になったらしい。

 本人の言い分では故意ではないようだが、殺人を犯した上にそれを隠そうとしたことには変わりない。


 人を殺めておきながら平然と相手の葬式に顔を出した男を思い出すと、恐怖と怒りが滲む。言子達を励ます言葉をどのような気持ちで言っていたのか、その心情は解りたくもない。


 上司も不正に関わった人間も警察に連行され、引継ぎの当てもない会社は潰れるらしい。

 不正に関係のない他の社員は可哀想だが、あのまま野放しにしていたらもっと酷いことになっていただろうと思うと、これで良かったのだ。

 ひとまずは、これで一区切りというところである。


「とりあえず、終わったよ」


 ぽそりと呟く。

 直後、髪を撫でるように吹いてきた風が姉の返事のように思えて、言子は口元を波立たせた。


 本に挟まっていた手紙の最後が脳裏に甦る。


   +


 こうして振り返ってみると、小さい頃から色々あったね。

 お互い社会人になって忙しくなったけど今でもよく会うし、これからもずっと仲良し姉妹でいられたら良いな。


   +


 それは、もう叶わない願い。できることなら、生きて目の前で言って欲しかった言葉。


「言子、そろそろ行くわよ」


 母親に呼ばれて、立ち上がる。小指で目尻を擦ると、言子は踵を返した。


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― 新着の感想 ―
[一言] ミステリーの中に感動の部分もあって…。 とても深いお話であり、とても星5では表せないような、心に響いたお話でもありました。
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