番外編・三 こもれびホーム〜一身上の都合
今回は、三上さんが勤めていた、こもれびホームの施設長が語ります。
これにて、完結です。
一身上の都合、ということで、真面目に頑張ってくれていた三上沙羅さんがやめることになった。それを伝えてきたのは、ホーム長だった。彼は、困ったように顔を歪めながら、
「だそうです。本人の、強い希望で」
私には、それが真実とは思われなかった。何となく嘘くさいように思ったのは何故だろう。
結局、三上さんの退職を覆すことは出来なかったが、三上さんが配属されていた階に行くたびに、その日出勤しているスタッフに、それとなく話を聞いたりしてみた。
「あのさ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
施設長である私に声を掛けられたスタッフは、驚いたような表情になるものの、誰もが、「はい。何でしょう?」と言ってくれる。私は、その人と視線を合わせながら、
「三上さんのことなんだ。彼女は、何で辞めることになったのか、何か知っていたら教えてほしいんだけど」
多くのスタッフは、知りません、と言ったのに、二人だけ理由らしいことを教えてくれた。一人は吉田さん。三上さんと同じくらいの年の女性スタッフ。彼女は、「噂ですよ、噂」と言ってから、
「何か、三上さん、新人スタッフと付き合ってるって聞いたことがあります。その人は家族のいる人みたいで、つまり不倫? そんな感じだって」
「それは、ここでは皆知っていたってこと?」
「どうでしょう? 誰かから聞いたんです。誰だったかな?」
吉田さんが、とぼけたように言う。その話しぶりを聞いていて、もしかしたらこの人が噂を流したのではないか、と疑ってしまった。が、そんなことは勿論口にせず、
「じゃあ、三上さんは、それを苦にして辞めたのかな?」
「そうかもしれませんけど。わからないですね」
そう言って彼女は、「失礼します」と、私のそばから離れて行った。彼女の持っていた電話が鳴ったのだ。ご利用者の誰かが、彼女たちスタッフを呼んだようだ。
それから、もう一人。その人は、噂に出て来た張本人。新人スタッフの山田慎二さんだ。私が彼に、吉田さんにしたのと同じような質問をすると、ぎゅっと唇を噛み、拳を握った。
「あの……山田さん?」
何かに耐えているような姿を見せられて、私はつい疑問形で呼び掛けてしまった。
「施設長。さっき、吉田さんと話していましたよね。私と同じ内容ですか?」
「ああ、そうだよ。三上さんが急に辞めてしまった本当の理由が知りたくて」
私がそう言うと、山田さんは私を強い目つきで見ながら、
「噂ですよ」
「噂?」
また噂の話か、と思いながらも、彼が次に何を話してくれるのか、と、期待をしていた。
「噂……三上さんと、私が、付き合ってるって……」
山田さんは、そこまで言うと、目を伏せて、
「しかも、私は既婚者で、子供がいて、それでいて、三上さんと不倫をしている、と。私は既婚者ではありません。ご存じの通り、未婚です。そんな嘘、誰が言い出したのかはわかりません。ですが、こういう嫌がらせみたいなことって、こうなって、誰が得をするか、で、犯人がわかったりしますよね」
山田さんの言うことを頭の中で整理する。一体、誰が得をしているのだろうか。
「得した人がいます。施設長。考えてみてください。三上さんのポストが空いて、誰がその後に収まったか。あ……失言でした。失礼します」
山田さんは、私の前から逃げるように去って行ってしまった。
三上さんは新人教育を担当していた。その関係で、山田さんとも一緒に行動することが多かった。それを見て、面白くない人がいた。その人は……。
その瞬間に、噂を流したのが、やはりさっきの吉田さんだとわかった。三上さんがいなくなって、彼女が新人教育の担当になったのだ。
後日、吉田さんを施設長室に呼び出した。彼女は、何を言われるのかわかっているらしく、機嫌悪そうな顔をしていた。私は、あくまで落ち着き払って、
「吉田さんが噂を流したんだってね。何でかな?」
彼女は私の言葉に、不機嫌を隠そうともせずに、ぶっきらぼうな口調で、
「何でって、私、三上さんが嫌いなんです。介護の資格、何も持ってないし学校も行ってないし。そういう人が、学校出て資格も持ってる私より上にいるなんて、許せなかった。許せるわけありません。それで、ちょっとからかったんです。そうしたら、あの人、辞めることになって。いい気味だったわ。私、笑っちゃったわ」
そう言いながら、吉田さんは薄笑みを浮かべている。恐ろしい人だと思った。が、この人を裁くことは、私には出来ない。
ある時、吉田さんとホーム長が二人きりで何かひそひそと話しているのを見た。何気ない風を装って声を掛けると、二人は異様なまでに驚いていた。特にホーム長は、目を見開いて、今にも叫びだしそうな様子だった。私は、二ッと笑って見せてから、
「ホーム長。全部わかっていますよ」
低く言ってやると、ホーム長は私の腕にすがって、
「私は何もしていません。悪いのは、この吉田さんです」
仲間割れしたらしい。詳しいことは何も知らなかったが、たぶんホーム長が自滅するだろうと踏んで、全部わかっているという態度を続けた。
「付き合い始めたのだって、吉田さんの方から言ってきたんだ。私じゃない。家族がいるからって断っても、この人は……」
吉田さんがホーム長の腕をつかむと、ギッとホーム長を睨みながら、
「どの口がそんなこと言うのよ。あんたが誘ってきたんでしょう」
「施設長の前で、何でそんな嘘を言うんだよ」
そんな言い合いがしばらく続いた。私は微笑んだまま、
「二人とも、これからずっと病欠してもらいます。程よい時期が来たら、退職してくれますよね?」
これはパワハラか? と、思わなくもなかったが、二人は私を見つめた後、頷いてしまった。二か月後、二人は一身上の都合で退職になった。
二人を病欠で休ませている間に、三上さん宅に電話した。上品な感じの老婦人らしい声が、受話器の向こうから聞こえて来た。三上さんは外出中だったが、その日の夕方、折り返しの電話が来た。
私は、あの時何が起こっていたのか、全て正直に伝えた。三上さんは、「そうですか」と言った後、長い息を吐き出した。
「戻ってきてくれるかな」
私の問いに、三上さんは、
「少し考える時間をください」
落ち着いた声で、そう言った。私は、見えないと知りながら頷き、
「あなたを傷つけておいて虫がいいとは思うけれど、いい返事を待ってますよ」
「そうですね。とにかく考えてみます」
それから数日経って、三上さんは戻ると言ってくれた。
そして、戻ってきた今、三上さんは、前にも増してご利用者に丁寧に接し、新人スタッフの憧れの存在になっているのだった。
(完)