第十一話 バラ園
庭園まで行く途中で、伊藤が、
「ここのお屋敷、中に入れないんだよね。玄関はいいんだけど。年に何回か、一般公開するらしいけど。今度は、その日を狙って来ようよ。ま、火曜日じゃないと無理だけど」
笑った。沙羅は、何も答えず、ただ庭を見ながら歩いていた。懐かしい、という気持ちは、より強くなっていた。
緑に囲まれた空間。全くの異世界に迷い込んだような、そんな気分にさせられる。が、沙羅は確信した。
(私、ここを知ってる)
いつ、誰とここへ来たのだろう。思い出せない。何もかも、虚ろだ。実態が掴めない。
バラ園の敷地に入るとすぐに、バラの香りが風に乗って漂ってきた。伊藤が、目を閉じて、その香りを楽しんでいる。沙羅も、目を閉じた。香りが濃厚に感じられる。
「三上さん。このパンフレットにさ、いろいろ書いてあるよ」
先ほどチケットとともに渡された物を見ながら、伊藤が言った。沙羅が、パンフレットを広げようとした時、伊藤がそれを読んでくれた。
「この建物は、元々川野辺太郎氏の所有でしたが、生前の取り決めにより、氏の逝去後、市の所有となりました。氏は、バラ園を特に大事にされており、バラの品種改良も行っていました。そして、出来上がったバラが、『千尋』です」
そこまで読むと、伊藤は沙羅の方に目を向け、
「『千尋』だって。人の名前みたいだね。どの花なんだろう。見てみたいな」
伊藤は再びパンフレットを見ると、周囲を見回し、前方を指差した。
「この地図を見ると、こっちの方みたいなんだけど。行ってみようよ」
「うん」
そう答えながらも、沙羅は別のことを考えていた。
(『千尋』? おばあちゃんと同じ名前のバラ?)
千尋という名前は、そう珍しい名前ではないだろう。が、何か引っかかる。
「あ、この花だ。何だか、可愛いな。香りもすごくいいし。三上さん。もっとそばにおいでよ」
少し離れた所に立ち尽くしていた沙羅に、伊藤が笑顔で声を掛けてくる。沙羅は小さく頷くと、伊藤の隣に行き、花をじっと見た後、顔を寄せた。やはり、この香りを知っている。ここに誰かと来た。誰だったろう。
その時、頭の中で誰かの言葉が聞こえた。
(私は、ここから逃げたのよ)
いつかここで聞いた言葉。あれは……。
(おばあちゃんだ)
心がざわざわし始めた。沙羅は、まだ幼かった頃の自分と祖母が、ここへ来た日のことを思い出していた。