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第七部

 仕事を終えた広瀬は気怠そうにイスに凭れたまま伸びをした。

 そのまま顔をのけぞらせて壁にかけられた時計を見た。

 時刻は午後十時半過ぎを示していた。

 広瀬は立ち上がると、窓のそばへ寄ってネオンが輝く街並みを眺めてから真下の駐車場を見下ろした。

 二、三台の車が停車しているだけのひっそりとした駐車場だった。

(俺のほかにも残業している社員がいるのか)

 そう思うと多少気が楽になるのだが、今回ばかりはそうはいかなかった。

 田辺から放たれた言葉で受けたショックがまだ残っていたからだ。

 少しの間、広瀬は今後の立場を考えて憂鬱になったが、刻一刻と時を刻む時計の針を見てひとまず会社を出る準備に取りかかった。

 総務課を出た途端、静寂で支配された暗くて寂しい廊下が目の前に広がった。

 まるで今の自分の心を表しているようなどんよりした暗い廊下を歩きながら、広瀬はエレベーターに向かった。

 エレベーターに乗り一階に降りる。

 エントランスに向かう廊下を歩いているとき、広瀬の鼻孔を刺激的なヤニの臭いが突いた。

(誰かタバコを吸っているのか?)

 と、広瀬は思ったが誰かが近くにいる気配などなかった。

 不審に思った広瀬は臭いがする方へと歩き始めた。

 広瀬が立ち止まったのは、トイレの前だった。

 中へ入ると、火が消されてないまま煙を漂わせているタバコが洗面台に捨てられていた。

(全く、非常識なやつがいるもんだな)

 広瀬は舌打ちすると水を流して火を消し、ペーパータオルを使って吸殻を掴んだ。

 隅っこに置かれた汚物入れに捨ててから、広瀬はついでに用を足そうと個室に入った。

 それと同時に、彼の持っていたスマホが突然鳴った。

 見覚えのない電話番号だった。

 広瀬は一瞬躊躇ったが、便座の下りた便器に座ると意を決して出た。

「もしもし、広瀬さん?」

「その声は…」

「倉田です。経理課の」

 と、聞き覚えのある声が聞こえた。

「そこは『経理課の倉田です』だろう。社会人なら倒置法はやめたまえ」

 と、言ってから広瀬は新人教育のときの癖が出てしまった自分に嫌気が差した。

「…いや、待て。どうして君が私の番号を知っているんだ?」

「総務課の方から聞き出しました」

「『聞き出した』って?」

「はい。なにか?」

「せめて私に一言くらい言ったらどうなんだ?」

「ですから、こうして電話したんですよ」

 と、深雪が呑気な声で言った。

 広瀬はうんざりしながら顔に手をやったが、どうにか募るストレスを脇に追いやり、

「まあ、いい。それで、なんの用だ?」

「私、見ちゃったんです」

「なにを?」

「武下さんが今日、エントランスでタバコを吸っているのを」

「それは何時頃だ?」

 広瀬が反射的に立ち上がった。

「仕事が終わった午後五時過ぎです」

 広瀬はまたゆっくり便器に座り込んだ。

 てっきり、トイレで見付けた消し忘れのタバコが武下のかと思ったのだが、見当外れだったと分かったからだ。

「広瀬さん、気にされていたでしょう? 武下さんがタバコを吸うかどうか。だから、こうして電話で教えようと思ったんです」

「なるほどね、そりゃありがとう。だけど、武下秀則のことはもうどうでもいいんだ。今は全く関心もない」

「実はもう一つ、広瀬さんにとって衝撃的な事実が掴めたんです」

「衝撃的な事実?」

「実は武下さん、自前のライターをちゃんと持ち歩いているみたいなんです」

「なんだとっ」

 これには広瀬も思わず声を上げずにはいられなかった。

「これは間違いないと思いますよ。武下さんがタバコに火を点けたとき、ちょっと高価そうなライターを使っていたんです。あっちこっちで売っている百円ライターみたいなものじゃなくて、本当に高価そうな。あれは絶対にマイ・ライターですよ。喫煙者の武下さんが持ち歩いてないなんてことあるはずがありません」

 と、深雪が半ば興奮気味に言った。

(それじゃあ、俺はなんのために火を貸してやったんだ)

 と、広瀬は謎の後悔を抱いた。

 たかがタバコの火を貸してやったぐらいならたいした負担などないのだが、ことごとく武下秀則という男に弄ばれたような感じがしたせいだろう。

(とはいえ、もう彼のことはどうでもいいんだから、気にするのはよそう)

 と、広瀬は自分に言い聞かせた。

「面白い話をありがとう。でも、本当にもう武下の話題はいいんだ」

「新人君の教育には不必要になったんですか?」

「まあね」

「なーんだ、つまんなーい」

「悪いね」

「今日、残業だったんですか?」

 と、電話越しで深雪が突然話題を変えた。

「そうだよ。北原課長が無断欠勤を繰り返しているせいで、総務課にもその影響が及んでね。一人寂しく今まで仕事をしていたよ」

「お疲れさまです。やっぱり、そっちでも影響があったんですねえ」

「それなりにね。まあ、田辺総務部長の食事会に誘われるぐらいなら、まだ残業をしていた方がマシだがね」

「食事会?」

「そう。上司の田辺総務部長だけど、根っからのパーティー好きでね。会社が終わると皆を引き連れて、よく飲み会を開くんだ。で、未だに不思議なんだが、田辺総務部長が終業のチャイム後に窓の外を眺めたときは、何故か飲み会をやらないんだ。うちの連中は参加派と帰りたい派に分かれていてね。というのも、総務部長が招集をかけるときは決まって全員が定時上がりだからだ。帰りたい派の者はその度にホッと安堵しているよ」

「へー、面白いですねえ。私も総務課に入ればよかったなあ」

 と、深雪がうらやましそうな声で言ったので広瀬は自然と微笑みを漏らした。

 田辺から厳しい言葉を放たれ憂鬱な気分に陥っていた広瀬にとって、倉田深雪との何気ない会話は唯一のリフレッシュ法だった。

 途中からそう感じ、あえて自分から話題に花が咲くように会話を弾ませたのだ。

「でも、私は出来れば定時に帰りたいですねー」

「それは誰だって同じさ。私だって、出来れば早く家に帰ってビールを飲みながら好きな野球観戦をしたり、映画を観たりして寛いでいたいからね」

「こんなに遅くなると体にも応えますしね」

「全くな。×日みたいにもう少し早く終わる残業だったら文句はないんだがねえ」

 と、広瀬が笑いながら言った瞬間、妙な沈黙が流れた。

「もしもし?」

 不審に思った広瀬が電話越しに呼びかけると、少しの間を置いて深雪の声が聞こえた。

「×日って、今月の×日ですか?」

「そうだよ、まだ十日ほど前のだ。…どうしたんだ?」

「広瀬さん、さっきの話に戻りますけど構いませんか?」

「な、なんだい突然」

 今いる場所が不気味な静寂に包まれたトイレの個室の中だと改めて気付いた広瀬は、深雪の妙に真剣な言葉にわずかな恐怖心を抱いた。

「さっき、×日に広瀬さんは残業をしたとおっしゃいましたね?」

「ああ、そうだ」

「何人で?」

「私ただ一人だ。どうしてもその日に終わらせたい仕事があったものでね」

「何時間残業でしたか?」

「あれは確か午後八時かそこらに終わったから、およそ三時間ってところか」

「三時間…」

「なあ、倉田君。さっきからなにが言いたいのか私にはさっぱりなんだが」

「その日、武下さんと北原課長も残業してたんです。広瀬さんと同じく三時間」

「へえ、そう」

 と、広瀬がたいした反応を示さないと、深雪が語調を強めて、

「分からないんですか? これでますます可能性は高くなったんですよ」

「なんの? …ははー、さては君、私が北原課長殺害の決定的な目撃者だとまだ思い込んでいるな?」

「思い込みなんかじゃありません。確信を持っています」

「前にも言ったが、私はなにも見ていないんだよ」

「広瀬さんはそうでも、武下さんはそう思ってないかもしれないじゃないですか。三時間の残業を終えた二人が、誰もいない夜の社内で再び言い争いを始めた。ヒートアップした結果、武下さんは北原課長を殺めてしまった。死体をどうするかで途方に暮れていたところを、残業を終えて会社を出る広瀬さんに偶然見られてしまった。広瀬さんは気付かなかっただけで、武下さんは見られたと慌てたんじゃないかしら。だから、自前のライターを持っていながら執拗に広瀬さんにタバコの火をねだった。広瀬さんが果たして、北原課長殺しを目撃したかどうかを確認するために」

「ちょっと待ちたまえ」

 と、笑って聞いていた広瀬が真面目な口調で遮った。

「とすると君は、武下が口封じのために私の命を狙っているとでも言うのか?」

「充分考えられるじゃないですか」

「バカバカしい。そんなことがあってたまるか。そもそも、×日の夜に二人が言い争いをしたかもしれないというのは、あくまで君の推測だろう」

「それはそうですが…」

「まだある。以前、君は私に武下秀則という男について教えてくれたね。それを聞いた私の武下に対する印象は『責任感が強く計算高い男』だ。そう、『計算高い』だ。どんな内容の口論をしていたかは部外者の我々には分からないが、始業前に誰も出入りしない会議室で言い争っていたという時点で、聞かれてはまずい内容だったのは察しがつく。それは、武下にとってもそうだった」

「…つまり?」

「仮に、残業後に再び同じ内容の口論を発展させたとしよう。しかしその場合、会社に誰も人がいないという確信を得ていなければならないんじゃないかね。ところが、あの日私は三時間の残業で会社に残っていた。経理課と総務課は隣同士だから、武下も私が一人で残業をしていたのは気付いていたはずだ。そう考えると、二人が二度目の言い争いをした可能性は低いだろう」

「総務部長を見たのかもしれませんよ」

「どうしていきなり田辺総務部長が出てくるんだ」

「さっき聞いた話ですよ。田辺総務部長は根っからのパーティー好きで、頻繁に総務課の人たちを誘っては食事会を開いていた。でも、終業後に窓の外を眺めたときだけは開かなかった。何故か武下さんもそれを知っていた。ちなみに広瀬さん、×日に田辺総務部長は終業のチャイムが鳴った後、どうされましたか?」

「どうされましたかって、そんなの私が残業したんだから当然ーー」

 と、言いかけて広瀬はハッとした。

「広瀬さん?」

「…立たなかった」

「本当ですかっ」

「本当だ。あの日、田辺総務部長は勤務中に室内で足を挫いたんだ。きっと、それが原因であの日は窓の前に立たなかったんだろう」

「広瀬さん、経理課の窓から顔を出せば、総務課の窓側は余裕で見えます。きっと、武下さんはそこから田辺総務部長が窓の前に立つかどうかを確かめたんだと思います。問題の×日に、武下さんは田辺総務部長が窓の前に立っていなかったから、全員が定時上がりで食事会に出掛けると思った。誰もいないという先入観を抱いた武下さんは残業後に北原課長と朝の続きをし、そして殺した。ところが、動かなくなった北原課長の死体を運ぼうとした瞬間を、一人の人物に目撃されてしまった。それが、食事会のために既に社を出たと思われた広瀬さんだった。これが事実なら、タバコの一件も全て辻褄が合いますよ」

「し、しかしだね」

 と、広瀬が言い返そうとしたとき、突然ガチャッという大きな音が聞こえた。

「…広瀬さん?」

 と、深雪が呼ぶも応答がない。

 受話器の奥で、誰かと誰かがなにやら言い合っている。

 やがて、激しい物音と一緒に怒号と叫び声が聞こえた。

 深雪が反射的に口に手をやり硬直した。

 しばらくして、奥からはなにも聞こえなくなった。

 呆然と固まる深雪のスマホから物音が聞こえた。

「広瀬さん? 大丈夫…ですか?」

 しかし、聞こえたのは広瀬の声ではなかった。

「やあ、倉田さん」

 深雪の背筋に悪寒が走った。

「好奇心旺盛なだけでなく、ここまでおしゃべりだったとはね。幻滅したよ」

 耳にこびりつくようなしゃべり方で武下が言った。

 深雪は「あっ、えっと…ハハハ…」と、無意識に苦笑いを浮かべて誤魔化したが、電話の奥から聞こえたのは武下の冷ややかな声だった。

「恐らく君は、僕が広瀬さんにタバコの火を借りに行ったという事実を知り、興味本位で詮索する気になったんだろう。しかしね、あれは言わば企業で働くサラリーマンたちが親密になるための儀式みたいなものだ。互いに面識のない者同士が、共通の趣味を通じて知り合い、そして交流を深めるのと同じパターンだ。同じ社会生活を生きている者たちは、誰もがそう思って僕と広瀬さんを見ていただろう。しかし、どうやら君はそういう考えにいたらなかったようだから、社会人としてはまだまだ未熟のようだな。鋭い洞察力を披露してさぞ天狗になっているだろうが、こんな結果になってしまったのが自分の責任だと思い知るがいい。…さて、それじゃあ最後のひと仕事といくかな。しかし、会社から君の住むアパートが近くて助かったよ。おかげで問題なく君を送れる」

「送るって何処へ…ですか…?」

 震えた声で深雪が聞くと、武下が感情のこもらない機械的な声で、

「もちろん、北原課長と広瀬さんのいる場所へだよ」

 と、言った。

お読み頂き、ありがとうございました。

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