第六部
広瀬が激怒して以降、武下は彼の前に姿を現さなくなった。
昼休みにまた何食わぬ顔をして現れるだろう、という広瀬の予想に反し、武下は彼の目の前どころか、中庭にすら姿を見せなくなった。
廊下から経理課を一瞥すると武下が黙々とデスクで控えていたので、体調を崩して休んでいるという予想も外れた。
三度も火をねだるような無神経な男だから、また性懲りもなく火を借りに来るだろう、と広瀬は思っていただけに意外な気がした。
(あのときにキレた効果があったのかな?)
と、広瀬は思った。
ともかく、これで面倒事から解放された気がし広瀬は肩の荷が下りた気持ちになった。
一週間が経過した。
終業のチャイムが部屋中に響いた。
大きく体を伸ばしフーッと息を吐く広瀬のそばに、取締役総務部長の田辺が近付いた。
「広瀬君、ちょっと頼まれごとを引き受けてくれないかね?」
と、田辺に切り出され広瀬はギョッとした。
三度の飯より好きな食事会を田辺がまた開くのかと広瀬は身構えたが、
「経理課の北原課長が相変わらず無断欠勤を繰り返しているのは知っているね?」
「ええ、知っています。経理課はまだその余波でてんてこ舞いのようですね」
「経理課だけじゃない。進行すべき業務が滞り始めて、その影響で他の部署にも皺寄せが来ている。その結果、これまで以上に残業をしいられている社員も増えてきてね。自然と、彼らの就業時間を計算する業務を担う我々総務課も多忙を極め始めている。…で、申し訳ないんだが今夜、残業をお願い出来ないだろうか?」
と、田辺が遠慮がちに尋ねた。
食事会に無理やり出席させられるよりはマシだろう、と広瀬は内心で思いながら、
「ええ、構いませんよ。何人かで取り組めばなんとかなるでしょうしね」
「いや、悪いが君一人だけだ」
「なんですって」
「不満そうな顔はやめたまえ。これは君の責任なのだよ」
「私の責任? どういうことですか」
ますます理解に苦しんだ広瀬が不満を露わにして言うと、田辺が厳しい目で見下ろし、
「ここにいる皆が君の勤務態度に不満を抱いているんだ」
「え?」
「我々が知っている総務課の広瀬努は、その名前の通り努力家で仕事熱心、そして誰からも好かれる面倒見の良い仲間だった。若手の新入社員たちへの教育係として優しく、時には厳しく接する理想的な先輩でもあった。だが、先週頃からそんな君は鳴りを潜め、ずっと険しい表情を浮かべては些細なことで舌打ちをするようになってしまった」
「そ、それは…」
と、広瀬は言いかけて部屋を見回した。
総務課で親しく接していた彼らが、冷たい眼差しで自分を見ていた。
武下秀則に憤慨したあの一件以降、広瀬は自分がこれまで以上に人当たりの悪い人間になり下がってしまったのを自覚していた。当然、普段の広瀬さんじゃない、と不審に思う仲間もいただろう。
だが、まさかこうなってしまうまでとは思いもしなかった。
田辺は小さく吐息してから動揺する広瀬に顔を近付けた。
「君は信頼の置ける人間だ。きっと、それなりの理由があってのことかもしれない。だが、我々は常に一致団結して業務に励まなければならない。効率的に仕事を運ぶためには連帯意識が求められるんだ。それを一番よく理解している君が、チームワークを乱す態度を取ってしまったのは非常に残念だ。今夜の残業も、出来ることなら何人か一緒に手伝わせてやりたいが、彼らがそれを望まなくてね」
「………」
呆然とする広瀬をよそに、総務課の社員たちが次々と部屋から出て行った。
以前まで親しく会話していた村越も、広瀬から目を逸らせて部屋からそそくさと出て行った。
広瀬は彫刻のように固まったまま動かなかった。
最後に残った田辺もバッグを手にすると、ポンッと広瀬の肩に手をやってから静かに部屋から出て行った。