第四部
(一体どういうつもりだ?)
と、広瀬がかすかな怒りを滲ませて目の前の男を見上げた。
右手の指にタバコを挟んだ武下が、迫るように長身の体を前屈みにして広瀬の前に突き出していた。
「すみません。火を貸してくれますか?」
と、聞き慣れたセリフを武下は機械的に言った。
三度目の火の拝借である。
前まで「いただけますか?」と丁寧語だったのが「くれますか?」と砕けた感じになったのも広瀬の癇に障った。
(完全にナメられてる)
広瀬は聞こえよがしに深いため息を吐くと、渋々とポケットからライターを取り出し着火した。
当の武下は広瀬の気持ちなど察する様子もなく、相変わらず恐縮そうに会釈をしてからライターの火にタバコの先端を当てた。
あとはお決まり通りで、武下はタバコの煙を吐きながら中庭を見回し始めた。
広瀬は憮然とした顔で呑気にタバコを吸っている男を見つめた。
(さすがに三度も俺に火を借りに来るのは妙だ。一体なにを考えているんだ? なにか用があるわけでもなさそうだし。それとも、仕事以外の件で俺に近付いているのか? しかし、彼とは初対面だし可能性は低い。それよりも、タバコを吸うくせに何故ライターの一つも持ち歩いていないんだ?)
と、広瀬はひたすら考えた。もはや午後の業務に影響しないために日課としていた昼寝も忘れて考えた。
しかし、結局いたずらに悩んで頭を痛めただけだった。
俄然、タバコを灰皿に捨てた武下が踵を返した。
もはや会釈すらしない始末だった。
「ちょっと、君」
広瀬が大きな声で呼び止めた。
足を止めた武下が体をひねって、広瀬を見た。
後ろめたさも感じられないとぼけた顔だったため、広瀬は余計に腹が立った。
「どういうつもりか知らないが、いちいち私の所まで火を借りに来るのは、いい加減やめてもらえないかね。借りるぐらいなら自前のライターを用意するか、或いはーー」
と、言いかけたところで中庭に集っていた社員たちが一斉に社へと引き上げ始めた。
始業開始直前に差しかかったのだ。
広瀬が構わず説教を続けようとした途端、武下は自然な仕草で踵を返し、まるで元から広瀬の存在を認めていなかったかのような様子で他の社員たちと一緒に中へ入って行った。
広瀬の顔が真っ赤に染まった。
(あれで北原課長の代理だと? 笑わせるなっ)
もしもまた借りに来たら堂々と拒絶してやる、と憤慨しながら広瀬は決意した。
広瀬の怒りは中々収まらず、午後の業務中も無意識に険しい表情を浮かべていた。
総務課の面々が不安そうに見ているのも気付かないまま、広瀬は怒りの矛先を目の前の書類にぶつけるように、半ば力を込めてペンを走らせた。
「おい、広瀬」
村越に呼ばれ、広瀬はハッと我に返った。
途端に彼を見つめていた総務課の社員たちが慌てて目を逸らした。
「なんだ?」
と、広瀬が若干動揺しながら聞いた。
村越はなにも言わず、部屋の出入口を指差した。
広瀬が視線を移すと、一人のOLが立っていた。
経理課の倉田深雪だった。
広瀬は周囲を気にするように立ち上がると、深雪を連れて総務課から離れた廊下に移動した。
「どうしたんだ?」
「あの、確か広瀬さんって武下さんについて色々聞きたいとおっしゃっていましたよね?」
「ああ、言ったけど」
と、広瀬は言ってから眉をひそめた。
「まさか、そんな話をするためにここへ?」
「だって、新人教育をするために必要だとおっしゃっていたじゃありませんか? だから、なるべく早く教えた方がいいんじゃないかと思って来ました」
と、深雪は特に悪びれた様子を見せず言った。
業務中に持ち出す話ではないだろう、と広瀬は内心で頭を抱えたが、深雪はあくまで新人教育の一環と信じた上で来てくれたのだから叱りはしなかった。
「それはわざわざありがとう。…それで、武下君についてなにか新しい話でもしてくれるのかい?」
「役立つかどうかは分かりませんが、ちょっと面白い話を耳にしたんです」
「面白い?」
深雪が話したくてウズウズした様子で「面白い話」と口にしたので、広瀬はあまり期待をしなかった。たいした内容が聞ける気がなんとなくしなかったからだ。
「昨日、広瀬さんが武下さんのことを聞いてから、私なりに仲間から情報を集めたんです。その仲間によると、武下さんと北原課長がひと目につかない場所で口論していたらしいんです」
「武下君と北原課長が口論だって?」
「ね? 不思議ですよね?」
「なんで?」
「なんでって、どう考えても妙ですよ」
と、相手のリアクションがあまりにも薄かったため、深雪は多少ムキになりながら言った。
「君はそう言っても、私は総務課の人間であの二人のことはよく知らないんだ。だから、仕事の件かなにかで言い争いをしていましたなんて言われても、なんとも言えないんだよ」
と、広瀬が言うと深雪はムーっと頬を膨らませた。
無邪気な子どものように見え広瀬はおかしくなったが、気を取り直すと苦笑いを浮かべて持ち場へと戻ろうとした。
その背中に向かって深雪が続けた。
「その口論をしていたのが、北原課長が失踪する前日なんですよ」