第三部
「すみません」
声をかけられ、広瀬はハッと振り向いた。
例のごとく、あの武下秀則が指にタバコを一本挟んで立っていた。
「火を貸していただけますか?」
(これがデジャヴってやつか)
内心で苦笑を浮かべた広瀬はおもむろにライターを取り出し、火を灯してやった。
武下はタバコを咥えると、相変わらずウマそうに吸っては吐いた。
無遠慮に煙をまき散らす武下に喫煙者の広瀬は別段不快な気持ちは抱かなかったが、どうしても気になって仕方がない点があった。
(なんでわざわざ俺の所へ来て火をねだるんだ?)
その疑問が真っ先に広瀬の頭に浮かび上がった。
会社の中庭には広瀬が寛いでいる以外にも、いくつかベンチが設けられており、その隣には喫煙者のための屋外用灰皿も用意されていた。実際、今も他のベンチでは老若男女問わずこの会社に勤める社員たちが世間話や笑い話をしながら、優雅にタバコを吸っている。
にも関わらず、奇妙なことに武下は広瀬の所へだけ来ては火をねだるのだ。
(なにか俺に話でもあるのか?)
と、広瀬は考えもしたがその可能性は低い気がした。
火を灯してやってから、武下はただひたすら煙を吐きながら中庭を見回すだけで、広瀬には一向に見向きもしないからだ。
広瀬が年齢的に先輩だから緊張していて言葉がかけられないだけという推測も、すぐそばで堂々とポケットに手を突っ込んでいる様子から見てまず考えられないのは確かだ。
貴重な睡眠時間を削りつつも、広瀬は腕と足を組んで考えを巡らした。
が、結局、なにも見いだせないまま時間だけが経過した。
いつの間にか武下は姿を消しており、灰皿にはまだ消えて間もないタバコの火が弱々しい煙を漂わせていた。
その日の業務終了後、広瀬は(一応、田辺の様子を確認してから)総務課を出ると、隠れながら経理課の様子を窺った。
昼間、何食わぬ顔でタバコをくすぶらせていた武下が、相変わらず不愛想な表情で書類をカバンに仕舞っている最中だった。
席を立った武下が経理課から出て来ると分かると、広瀬は慌てて壁にかけられた「お知らせ事項」と記された紙を見るフリをしてやり過ごした。
武下の姿が消えたところで、広瀬は再び経理課を覗いた。
二、三人のOLが楽しそうに会話していた。
間もなくしてOLたちが一斉に経理課を出て来たところを広瀬は呼び止めた。
「いいかい? ちょっと尋ねたいことがあるんだがね」
広瀬が言うと、三人は不思議そうに互いの顔を見合わせていたが、そのうちの一人が「先に行ってて」と二人を促した。
二人の姿が見えなくなると、そのOLが再び不思議そうな目で広瀬を見た。
「私は総務課の広瀬という者だが、この経理課に武下秀則という社員がいるね」
「タケシタさん?」
と、OLは首を傾げてから、すぐに思い出したように大袈裟な反応を示し、
「北原課長の代理を任されてる武下さんね。知ってますよ」
と、明るい口調で言った。
バツイチの広瀬は思わず離婚した妻と一緒に離ればなれになった娘を思い出したが、今は思い出に耽っているときではないと言い聞かせ、軽く咳払いした。
「彼について知っていることを教えてほしいんだがね」
「武下さんについて、ですか?」
「そう」
「でも、広瀬さん…でしたっけ? どうして総務課の広瀬さんが武下さんのことを知りたがるんですか?」
と、「倉田深雪」という名前が書かれた名札をぶら下げたOLが聞いた。
当然の疑問をぶつけられ広瀬は困り顔で頬を掻いた。
ただ、タバコの火を借りにくるだけの人間について、詳しく知りたがるのも考えてみればおかしな話だった。タバコの火を借りるのは別に犯罪でもなんでもないのだから。
あくまで興味本位で武下という男のことを知りたいだけであって、具体的な理由など無いのだ。
「つまりね…。実は、教育中の社員から頼まれてね。模範にすべき北原課長が現在会社に来ていないだろう? だから、代理で課長職に就いている武下君を代わりに模範にしたいというから、教える立場の私がまず彼について知っておいた方が良いと思ってね。それで、彼のことを知りたいんだ」
「なーるほどー。そういうことでしたか」
と、倉田深雪が大層納得した様子でパンッと手を叩いた。
途端に深雪は武下秀則の勤務中の様子や人柄について饒舌に語り出した。
(責任感が強く計算高い)
これが一通り耳にした広瀬が抱いた武下の人物像だった。
深雪から聞き出した情報を頭にインプットしてから、広瀬はある質問をぶつけた。
「彼はヘビースモーカーなのかい?」
それに対して、深雪は少し間を置いてから答えた。
「分かりません」
「そうか…。いや、どうも、助かったよ。それから、私が色々と尋ねてきたこと、武下君には言わないでおいてくれるかい?」
「はあ、分かりました」
と、不審がる深雪を取り残して、広瀬はエレベーターへと向かった。