第二部
終業のチャイムが総務課に響いた。
広瀬は大きく伸びをすると、硬くなった体をほぐすように両腕を振った。それから、そっと部屋の奥で座っている頭髪の薄くなった田辺取締役総務部長に目を向けた。
田辺はヨッコラセと椅子から立ち上がると、窓の外をボーッと眺め始めた。
それを見て、広瀬はひとまずホッと胸をなで下ろした。
パーティー好きの田辺は、終業のチャイムが鳴ったと同時に「これから飲みに行くぞ」と、招集をかけるときがある。
田辺の意見に意気揚々と賛成する者もいれば、早く家路に着きたくて反対する者もいる。というのも、田辺が招集をかけるときは全員が定時上がりだから、折角の時間を行きたくもない飲み会で潰したくないからだった。
一応、田辺も良識を持っており強制はせず、帰りたい者だけは素直に帰らせてくれる。
ただし、広瀬だけは例外だった。
総務課随一の働き者である広瀬を気に入っている田辺は、是が非でも彼を飲み会に参加させようとしてくる。
広瀬は渋々付き合ってきたが、正直面倒臭くて仕方がなかった。が、当然上司の手前、そんなことは口が裂けても言えなかった。
しかし、今回はどうやら安心して帰れるらしい、と広瀬は安堵した。
というのも、妙なことに田辺が終業のチャイムが鳴った途端に窓の外を眺めたときは、飲み会に誘ってこないと知っていたからだ。
これは広瀬に限らず、総務課一同も田辺の奇妙な癖は周知の事実だった。ゆえに、田辺が窓の外を眺めたときには、つまらないなぁ…と、がっくり肩を落とす者もいれば、広瀬同様ホッと安堵の息を漏らす者で分かれている。
広瀬が総務課から出ると、彼の後を追うように同僚の村越が追いかけてきた。
「今日は付き合わされずに済んだな」
と、村越がにやにや笑いながら言った。
「ああ、さすがに何度も開かれちゃこっちの身が持たないよ」
と、広瀬は苦笑いを浮かべて、総務課の隣にある経理課に目を向けた。
歩きながら、経理課の社員たちが楽しそうに談笑しながら帰り支度をしている様子を見ていた広瀬だったが、その足がピタリと止まった。
冗談を言い合っている社員たちの輪から外れるように、例のタバコの火を借りに来た男が無表情で書類などをカバンに入れているのが見えたからだ。
「どうしたんだ?」
と、村越が不思議そうに尋ねた。
「あの男…」
と、広瀬がボソッとつぶやいた。
彼が見つめる先を村越は追った。
「奥にいる武下君か?」
「武下?」
「そう。武下秀則って社員だよ」
「経理課の人間だったのか」
と、広瀬は意外そうにつぶやいた。
昼間、火を借りに来たとき全く見覚えのない男で、結局同じ会社に勤めるサラリーマンだろう、という結論しか出なかったのだが、まさかすぐ隣の経理課に勤務しているとは予想もしていなかったからだ。
「それはいいから、さっさと行こうぜ。あんまりまじまじと見ちゃ悪いよ」
と、村越が広瀬の背中を押すように歩き始めた。
会社を出たところで、
「武下っていうのはどういう社員なんだ?」
と、広瀬が尋ねた。
村越は眉間に皺を寄せながらうなると、
「なんせ経理課の人間だからなあ、どんな男なのか俺も詳しくは知らないよ。ただ、勤務態度は真面目で余計なことは一切言わない、やらないってことだけは聞いてるよ。まあ、広瀬と似たり寄ったりな性格って感じかな。歳は一回り若いが」
「歳まで指摘することはないだろうが」
からかう村越に広瀬がムッとして答えた。
「冗談はさておき、なんで武下君のことを聞くんだ? なにかあったのか?」
「別にたいしたことじゃないよ」
「まあ、そうだろうね。彼みたいな人間が他人と問題を起こすなんてまず考えられないよ。なにせ、失踪した経理課長の代理をしっかりこなしているんだからね」
「そういえば、まだ連絡がついていないのかな?」
「っていう話だぜ」
「一体何処に行ったんだろうなあ、北原さんは…」
と、広瀬は夕闇が迫る空を見上げた。
現在、広瀬が勤務する会社ではある事件が起きていた。
それは、広瀬と村越が勤務する総務課の隣にある経理課の課長、北原順一が二日前から会社に姿を見せていないことだった。
北原順一は経理課に入社当初、慣れない仕事に右往左往し度重なるミスで上司にこっぴどく叱られてばかりいた。その上、引っ込み思案で自らの主張を貫き通せるだけの勇気も持ち合わせていなかったので、先輩の理不尽な要求や不始末にも言い返せず、酷使される日々を送り続けていた。
ところが、次第に仕事の要領を掴んだ北原は上司が目を見張るほどの働きぶりを発揮し、やがて社会生活で培った実力で経理課課長の地位を手に入れた。その際、昔の情けない自分とは永久におさらばした、と北原は自慢そうに言っていたらしい。
経理課長になってからも北原の活躍ぶりは順風満帆で、経理課のみならず会社全体でも他の部署の上司が北原課長を模範にしろ、と部下に謳うほどだった。
配属部署が異なる広瀬も面識こそなかったが、北原の存在は認知していた。総務課でも度々北原の話題は出て来るし、新入社員たちが入ると決まって北原経理課長を参考にするといいぞ、と田辺が言っていたのを覚えていたからだ。
その北原順一が、二日前から姿をくらませていた。
有給休暇でないことは広瀬も理解していた。というのも、失踪当日に経理課で不穏な空気が流れていたのを察していたからだ。
無断欠勤を疑う社員も現れたが、北原課長に限ってそれはないだろう、という意見が大半を占めていた。それだけ、誠実な男として周囲から認められていた存在なのだ。
ところが、二日も経つと雲行きが怪しくなり、北原が突然会社に嫌気を差して無断で辞めてしまったのではないか、と疑う者まで現れ始め、最終的に誰も北原のことを気にも留めなくなってしまった。
北原の突然の失踪で混迷を極めたのは、言うまでもなく経理課だった。
まとめ役であった北原課長の代理を誰に担ってもらうかという案件を解決しない限り、業務が円滑に進まなかったからだ。
そして白羽の矢が立ったのが、広瀬にタバコの火をねだった武下秀則だった。
「というのも、武下君があたかも入社当時の北原課長と雰囲気が似ているからっていうのが理由らしいよ」
「なるほど。多分だが、元々引っ込みがちな性格だった北原課長が、最後には経理課長の座に収まったんだから、似たような雰囲気を漂わせている武下君に期待したんだろう」
と、広瀬はさっき目の当たりにした武下の様子を思い出しながら言った。
そのとき、二人の横を話題の当人である武下が素通りした。
コツコツと足音を鳴らしながら歩く姿はまさに昼間見た後ろ姿と同じだった。
「部署は違うが、彼はよくやってると思うよ。いきなり北原課長の代理を任されて、普通なら戸惑いを隠せないはずなのに、しっかりと務めているんだからね」
と、村越が感心しながら武下の後ろ姿を見つめた。