第一部
「すみません」
突然、声をかけられて広瀬努は閉じていた目を開いた。
見ると、広瀬と同じ背広姿の長身男が目の前に立っていた。
右手の人差し指と中指の間に一本のタバコが挟まっている。
「なにか?」
広瀬が訝しそうに尋ねると、男は恐縮そうに会釈をし、
「火を貸していただけますか?」
と、尋ねた。
広瀬は一瞬、なんのことか分からずぼんやりしてから、ようやく相手の目的を察して「あぁ、どうぞ」と、自前のライターを取り出した。
「どうも」
男は再び会釈をすると、広瀬が差し出してくれたライターの火にタバコの先を当てた。
男はスーッと息を吸うと、フーッとウマそうに口から煙を吐いた。
気持ちよさそうな相手とは反対に、広瀬は憮然とした顔で腕を組み、再び目を閉じた。
広瀬は勤務する総務課の激務に追われたり、酒豪の田辺取締役総務部長が開く飲み会に付き合わされたり、同僚の愚痴大会に参加したりで、ろくな睡眠時間を取れていない状態だった。同僚たちだけで集う飲み会は断ることも可能だが、広瀬の仕事ぶりを気に入っている上司の田辺が主催する飲み会だけは中々そうもいかなかった。しかも悪いことに、田辺は大勢を囲んでの催しをなによりも好む性格だから、頻度もやたら多いのだ。
広瀬は自分が責任感の強い人間だと自覚していた。ゆえに与えられた業務は唯々諾々と取り組むし、新入社員の指導役に指名された際もテキパキと仕事のノウハウを教えながら教育に徹してきた。
だが、前述の付き合いもあってまともな睡眠時間が取れないことが多く、それが原因で一時期勤務中に居眠りしてしまう失態を犯してしまったことがあった。
少しでも業務に支障がきたさないよう広瀬は昼休憩時間を、社内の中庭に設けられたベンチに腰を下ろし、タバコを吸ってから仮眠を取るようにしていた。デスクで突っ伏して眠ることも出来るのだが、それをやると授業中に眠ってしまい担任に度々注意されていた学生時代を思い出してしまうため、広瀬はあんまり気が進まなかった。
広瀬はもうじきで五十路の坂にさしかかり、顔も年齢よりも老いて見える印象を抱いてしまうが、総務課での彼は人当たりの良さと、父性的な面倒見の良さから同性だけでなく、女性社員たちからも慕われていた。
最も彼が慕われる理由は、滅多に怒らないことだった。
だが、今の広瀬は貴重な睡眠時間を妨害された腹立たしさで、普段なら出さない表情を思わず出してしまったのだ。
広瀬は片目を開くと、チラッとそばで立っている男を見上げた。
眠っていた自分を起こした後ろめたさを感じさせない様子で、男は優雅にタバコの煙を口と鼻から吐いていた。
(何処の部署の社員だろう?)
と、広瀬は考えたが、それ以前にある疑問が彼の脳裏をよぎっていた。
(どうして俺が喫煙者だと知っていたんだ?)
タバコを吸う人間もいれば吸わない人間も必ずいる。この会社に限ったことではないが、どの企業にもタバコを肌身離さず持ち歩いているヘビースモーカーもいれば、煙の臭いだけでなくタバコを吸う姿さえ嫌悪の眼差しを向ける嫌煙家もいる。
広瀬も時々タバコを吸うが、ヘビースモーカーと言われるほどではない。
それにも関わらず、この男は広瀬が喫煙者であることを何故か知っていた。
考えられるとしたら、ベンチで眠る前にタバコを吸っていたところを目撃したからだろう、と広瀬は思った。
総務課の人間は、広瀬が喫煙者であることを知っている。しかし、少なくともこの男が同じ総務課の人間でないことはハッキリしている。常々一緒に仕事をしている仲間たちの顔を広瀬は覚えているが、その中にこの男は含まれていないからだ。
あれこれ広瀬が考えていると、
「ありがとうございました」
と、男が短くなったタバコをベンチ横の灰皿に捨てた。
広瀬も会釈すると、男は革靴をコツコツと鳴らしながら会社へと戻って行った。
後ろ姿を眺めていた広瀬はもう一度考えを巡らしたが、面倒臭くなりもうひと眠りしようと目を閉じた。
が、腕時計の時刻を見て小さくため息を吐いた。
午後の始業開始直前だった。