大虎
七月下旬、中宮歩氏の四十の賀まで三日と迫った日のこと、芮淑静の中宮歩氏への生辰(誕生日)の贈り物は順調に進んでいた。やや黄色みがかった絹地に、孫登らの描いた図案を下絵として写し、刺繍していた。陳表の亀が少し不思議な形になっていたが、芮氏は自分が描くよりずっと上手くいっていると思っていたので、そのまま下絵通り糸で象っていった。
子玉の竹の葉を散らした織物ももうすぐできあがりだった。カタンカタンと一定の旋律を刻んでいた機織り機が止まり、機械から生地を外すだけだった。
他の者も各自贈り物を作ったり、披露する芸事の練習に勤しんでいた。
昼近く、織室に若い宦官が飛び込んできた。
「大虎王女さまがお見えになるぞ!みな控えよ!!」
苛烈な性格で失敗には容赦しないという噂が流れている。大虎王女。
みなその場に座りこみ、深々と平伏した。
しゃらんしゃらんと涼やかな音色を立てて誰かが近づいてくる。その音が頭の歩揺からなのか耳飾りからなのか、腕の玉釧(たまくしろ、腕輪)からか、あるいは腰の佩玉(はいぎょく、玉の帯飾り)からなのかは確かめるすべを誰ももたなかった。
音が消え、立ち止まったことがわかる。えもいわれぬ薫香の香りがうっすらとあたりに漂う。
「免礼。面を上げよ」
孫魯班のかわりに付き従う侍女が声をかけた。
「みな、我が母、母后さまの四十の賀に興を添えてくれるとか……楽しみにしています」
孫魯班。
字は大虎。
まだ二十を過ぎたばかりの呉王孫権の愛娘である。
背が高く、全身を紫の衣と宝飾品で着飾り、色は白く顔は整い美しいが、どこか冷たく醒めた感じのした若い未亡人だった。大虎の字の通り孫家の女らしく眼光は鋭い。顔立ちは父の孫権にも似ているが、それよりも叔母の尚香や伯父の孫策にも似ていて臈長けた美しさを具えていた。
「母上に恥をかかせることはなさらないでちょうだいね」
口調は優しいが、目は見つめられたら凍り付いてしまいそうなほど冷たかった。
「母上を喜ばせたもの上位三名には褒美をとらせます」
褒美と言われても誰も心浮き立つこともなく、恐怖心のみが先に立つ。
変わらぬ口調で続けた。
「ただし、わたくしを失望させたものには笞刑(竹のむち打ち)三十です」
あたりを睥睨していた大虎王女のその目が一つ所に止まった。
「そこの娘、立ちなさい」
なんと声をかけられたのは子玉であった。
芮氏は彼女の分まで震え慄いた。
「あなた、わたくしの輿の後についてきなさい」
これはもう死刑宣告も同じかと、謝氏を始め数人は馬童さんこと子玉に同情した。ほかのものはただただ恐れて震え上がり、頭をひたすら低くして目立たぬようにしていた。
しゃらんしゃらんとまた音を立てて死神のような王女が去って行った。子玉を連れて。
涼やかな恐怖の音が消え去り、輿が持ち上げられ運ばれる音を、みな身を固くして耳を澄ませて聴いている。
大虎王女が去ったのを一番戸の近くにいた宦官が確認し、目配せした。
程女史がほっとため息を漏らす。
そして、わっと人が芮氏の周りに集まった。謝氏が口火を切った。
「いったいどういうこと?あの子何をやらかしたの?」
「わからないわ……心配でたまらないのだけれど、いったいどうしたらいいの?」
芮氏の疑問に答える術を持つものはいなかった。
魯班は輿を宦官達に担がせ、さらに青蓋をさしかけさせて、日光を遮っていた。後に侍女達が続き、さらにその後ろを子玉がとぼとぼと歩いていた。
後宮の建物でもひときわ立派な一隅に入ると、輿は下ろされた。
大虎は結婚時に、宮殿の外に自分の屋敷を父の孫権から拝領していたが、夫を失ってからは後宮の母の宮の側で過ごすことが多かった。
「香児、そのものに更衣を」
侍女に命じると大虎は奥へ入っていく。
香児と呼ばれた侍女に連れられて、子玉は大虎専用の広い浴室に連れて行かれた。すでに湯は沸かされて湯気の立つ表面には紅や黄色の薔薇の花びらを浮かべていた。
「お手伝いいたします」
香児は服を脱ぐのを手伝おうとしたが、子玉は断った。
「自分でできますから」
「これも大虎さまのご命令なので……」
香児は目線で「頼む」と訴えてくる。
上衣から脱がせていき、子玉が左肘にくくりつけていた小さな物を見つけて、香児はさっと青ざめる。その場に跪いた。
「ご、ご無礼いたしました……どうかお許しを」
「内緒にしてくれればかまわないわ。大虎さまにもね」
大虎は歩揺をはじめとする装身具をすべて外し、高々と結い上げていた髪も解いて楽な姿になると、寝室で芳ばしい新茶を楽しんでいた。
目当ての相手が入ってくると、素早く茶碗を置き、抱きついた。
赤く染められた爪の細い指先で、相手の顔をなぞる。さも愛おしげに。
「まぁ、なんて似ているの!ここまでそっくりになるとは思わなかったわ……」
故人の服を着せられ、瀟洒な冠をかぶせられ、香まで故人の好んでいた物を焚きしめられていた。
しかも、ささやかな胸には麻布を硬く巻かれて、ふくらみを潰されて。
「夫君……なぜあなたは早くわたくしを置いていってしまったの?こんなに深く愛していたのに、わたくしの心だけ奪っていくのは、ずるいわ……」
似ている相手を故人と思い込むことで、大虎は自分の世界に入っていった。
愛しい亡き夫を想った。
恨み言にせよ、愛の言葉にせよ、亡き人に向かって投げかけられる言葉はどこか虚しかった。
形代となった相手は黙り込んでいたが、抱きしめられながら、優しい手つきで大虎の滑らかな黒髪を撫で続けていた。
他人は大虎のせいで亡き夫が早死にしたと言うが、それは本当ではなかった。もともとが繊弱な体質で長くは生きられない人だったのだ。それでも大虎は妻になりたがり、相手も了承し、短いながらも幸せな結婚生活だったのだ。
夜、芮氏は眠れず、灯りをつけ、寝台に腰掛けて刺繍のつづきをしていた。もう少しで完成だ。
(遅いわね……子玉さん……)
パタンと戸が開く音がして、子玉が帰ってきた。
「子玉さん!大丈夫なの??」
「ええ、大丈夫よ……」
心なしかいつもの元気さもなく、子玉は顔を覆っていた。
「芮さん。今わたしひどくみっともない顔をしているから見ないでね」
顔を覆いながら子玉が言う。
「ええ、わかったわ。でも怪我があるなら傷薬をつけてあげるわよ」
「大丈夫。怪我はしてないわ」
子玉は衝立の陰に隠れて鏡台に向かっているようだった。
「本当に怪我はしてない?」
「ふふふ、虎に噛まれたりはしてないわよ」
ようやく笑いが漏れて、芮氏も安心した。
「芮さん。待っててくれたのね。ありがとう。おやすみなさい」
「おやすみなさい。子玉さん」
少女達の部屋の灯りは消されて夜の帳が降りた。