終章
「わぁ大きな船だ!」
「綺麗でかっこいい!」
「子玉の姐御の乗る船だ!」
呉の街の者達が、水路沿いに雲霞の如く集まってくる。楼船の豪華さにそれぞれ歓声を上げた。
黄武四年春、呉郡呉県の水路には巨大な楼船「飛雲」が乗り入れていた。飛雲は呉王孫権の御座船のひとつだが、今回呉の王太子孫登の花嫁を親迎するために使われた。このこと一つにしても、花嫁の生家周家に対する礼遇の厚さがわかる。
親迎船は五色の布と飾り紐で美しく彩られていた。太陽に照り映えている。
馬車から降りた花嫁の周妃は玄色に紅い縁取りを施した礼服を着ている。顔には赤い薄絹の蒙蓋頭をかけていた。
子玉はあれから背が伸びて、すらりとして乙女らしく成長していた。侍女に手を引かれてしずしずと進む。
側には次兄の周胤が親代わりに付き添っていた。
船から桟橋がかけられ中から、白髭のたっぷりとした老人が降りてくる。衣冠も整っており、粛然としている。
周胤と周妃が一礼する。老人もお辞儀をして名乗った。
「此度太常を命じられました太子太傅の程秉でございます。周家のみなさまにおかれましてはおめでとうございます」
周胤は普段のちゃらさはどこにおいてきたのか、しっかりと挨拶した。
「周徹の兄、周胤と申します。程太常におかれましては、なにとぞ妹のことよろしくお願い申しあげます。妹は向こう見ずなうえ世間知らずなので宮中でも恥をかくかと思うと不憫でなりません……」
程太常は優しく微笑む。
「周校尉、ご心配はもっともですが、大丈夫です。太子殿下が周妃さまをかならずや守ってくださいます……」
周胤は小さく呟いた。
「こんなとき……父上が生きていらしたら……妹には何不自由なくしてやれるのに……」
後ろで黙って立っていた周妃が兄の横に立って、その手に触れた。
「兄上、わたしは今でも充分幸せです。あれを見て」
周徹の指さす方向には楼船に付き従う中型船があった。その船達に次々と箱が運び込まれている。その中には呉の親戚のおばさま達(大喬、尚香、徐夫人ほか)が織ってくれた反物や一針一針縫ってくれた衣服がたくさん詰まっていた。
「?」
「あれはおばさま達が贈ってくれた品物よ。わたしは呉のみんなに祝われて幸せ者だわ」
周胤は妹を抱きしめると、こっそりと囁いた。
「相手が太子だからって遠慮するなよ。おまえを粗末に扱うならすぐにでも兄ちゃんが迎えに行ってやるからな」
「うん」
最後はふたりとも涙声になった。
「では、武昌でみなさまがお待ちでございますので、先を急がせて頂きます」
「程太常!くれぐれも妹をよしなに……」
「承知しておりますとも」
程太常は先導を勤め、花嫁を導いていった。周妃は兄の背中を軽くトントンと叩いて慰めると、侍女に手を引かれて桟橋に上がった。衣裳の裾が長く、そろそろとした歩みだった。
「子玉姐ちゃーん!」
「幸せになー!!」
「お幸せに!!」
どこからともなく子どもの声が上がると、大人達も呼応して叫び始めた。
「周妃さま千歳!!」
「周妃さま千歳!!」
我らが街の自慢のお嬢さんであり、亡き周郎の忘れ形見という周子玉が、いままさに太子に嫁ぐめでたい日なのだ。
子玉は振り返って、小さく手を振った。それでまた、歓呼の嵐が巻き起こる。
程太常と並んで楼船の舳先に立ち、周妃は呉の民の祝福を受け取った。
「お久しぶりです程太傅」
周妃が声をかけると、程秉は笑って応えた。
「お久しゅうございます。周妃さまがわたしの講義を目を輝かせて聞いておられたのが昨日のことのように思われます」
「この日がおそろしくもあり、待ち遠しかったわ」
不意に船には花びらが降り注いだ。子玉の子分(?)たちが水路の周りの屋敷の屋根に上がって風に乗せて花を撒いているのだ。
「わたしも待ち遠しゅうございました。そして、それはわたしだけではないのですよ」
船が出航して、太湖に入ると程秉は周妃を連れて船室に案内した。
船室の薄暗さに慣れると中には一人の背の高い青年がいるのに気づいた。
「子玉、陳哥が迎えにきたぞ」
子玉は蒙蓋頭の中で目を見張った。
「太子殿下!……ずいぶんと背が伸びたのですね」
「そなたもな……」
ふたりが久方ぶりの再会に見つめ合っていると、程秉は船室を静かに出て行った。
孫登はゆっくりと近づいて子玉の手を取った。あのときのように黒くはなく、白魚のように透き通る白さだった。
「微行して東部の様子を見聞することもできたし、母上にお目にかかることもできた。そなたのおかげだ」
孫登の声は少年の澄んだ声ではなくなり、青年の落ち着いた声となっていた。
子玉はくすくすと笑った。
「殿下、わたしの嫁入りはついでですか?」
「そんなことはない。もちろん一番の目的はそなたを迎えに来ることだ」
孫登は懐から手巾を取り出すと、包んでいた真珠の耳飾りを差しだした。
「約束通り大切にしていたぞ。着けてやろう」
蒙蓋頭を捲ろうとすると、子玉はすっと後ずさった。
「婚礼前ですから駄目です」
「散々見たのだからいいだろう」
「ダメです」
二人で押し問答の末、孫登がぴらっと覆いを捲り上げた。
「あっ……」
白磁のような肌をして赤い紅を塗った唇を薄く開け、柳眉をひそめた顔は本当にこの上ない美少女だった。
孫登は穴の空くほど周妃の顔を見つめ、惚れ惚れとした。
(なんと美しいのだろう。父上の後宮でもこれほどの美女はいなかった。黒目がきらきらとしたところがなかったら子玉だとは気づかなかっただろう……)
子玉は突然黙ってしまった太子に不安を感じた。
「もしかして、色の黒い方が好きだった?」
「……ううん、ぜんぜんそんなことはないぞ」
孫登は耳飾りを慎重な手つきで子玉の耳につけてやった。そして満足すると、また蒙蓋頭を降ろした。
「子玉、婚礼が終わるまで父上にも顔を見せるなよ。あと弟にもだめだ」
「わかったわ」
子玉が笑うので、孫登は愛おしさがこみ上げ、彼女を抱きしめた。
「わたしは呉国一の幸せ者だ!」
「気が早いんじゃない?」
子玉は孫登の胸に身をもたせかけながら疑問に思った。
「家族が増えるのだ。それも誰にも奪われたくないような大事な家族がな!」
孫登の手にぎゅっと力がこもる。
「家族が増えるのはいいことね……幸せだわ」
蒙蓋頭を染み通った暖かい涙が孫登の着物を濡らした。
黄武四年、春。王太子孫登は故周瑜将軍の娘周徹を迎え妃とした。
婚礼の日は一面の澄み切った青空だった。
同年六月、呉国では連理の枝の瑞祥が見られたという。
王太子夫妻の仲の睦まじさとの因果関係は不明である。