覇王別姫
子玉たちの芝居の幕が上がった。
鉦や打楽器の激しい音に琵琶や琴の音が重なる。音楽が大いに盛り上げたところに、黒い隈取りをした項羽が現れ、見得を切る。
すかさず敵が四方八方から襲い来る。
白く顔を塗った敵兵は子玉に白刃をもって襲いかかってきた。
(やだ、本物の剣じゃない!それにいつもの宦官の役者じゃないわ!)
子玉は打ちかかってくる敵を長い棍でいなしながら、相手を見極めた。
音楽の方は練習時と変わりなく演奏している。上手の陰に控えている芮氏達をちらと見たが変わりない。
問題の敵が潜んでいるのは自分の出て来た下手側のようだ。
本来敵の将軍役の丁虎娘が木刀を振り回しながら、子玉の元に駆けつけた。
子玉は一瞬警戒したが、丁氏は舞台の上でも味方だった。
(馬童さん!賊が混じっているぞ!それに台詞の太史くんもいなくなっている!)
二人は背中合わせになって小声で話した。
(丁さん、ここはしのぐわよ。わたしが全員気絶させるから下手に投げ飛ばして!)
(あいわかった!)
激しい音楽にあわせて、子玉の棍が敵の刀を弾き飛ばし、相手が怯んだところでみぞおちや脳天に一撃を見舞う。
倒れ込んだ敵を丁氏は怪力で次々と下手に投げ飛ばした。舞台から余計な物を取り除くように。
観ていた者達は驚きながらも、子玉の演じる項羽と丁氏の演じる将軍の強さに拍手喝采した。
(妹妹ったら、隈取りなんかして……可愛い顔が台無しじゃない……それでも、夫君にそっくりなのはなぜかしらね……)
大虎王女は菊酒を含みながら、肘掛けにもたれじっと劇を観ていた。
陳表は真剣に舞台を見つめている孫登を見やり、それから孫権の後ろで警護にあたっている兄の陳脩の方を見た。兄の方も異変を感じたらしく、陳表の方を見た。
(あの白刃は本物ではないか?舞台の演出としても異常に激しい闘いぶりだ……)
陳表はいつでも剣を抜けるように覚悟して孫登のもう少し近くに立った。
(あれが子玉の演技なのか?縦横無尽に相手を叩きのめしておる。鬼神の如き強さよ……あれが叔母上直伝なのか……)
孫登は感心して拍手していた。
一方、上手の謝氏は監督として、本来の脚本にない芝居にやきもきしていたが、飛んできた剣が目の前で舞台の床に突き刺さるのを見て事態を把握した。
(ほ、本物の敵なんだわ……でも、どうしてふたりとも舞台を中止して助けを求めないの?)
いつもと違った展開に虞姫役の芮淑静も侍女役の文啓妹もハラハラしながら舞台を袖から見つめていた。
謝氏は彼女らを見てなんとなくわかり得た。
(馬童さんと丁さんは最後まで舞台を演じきるつもりなのね。芮さんに虞姫を披露させてあげたいんだわ!)
孫権は隣の歩夫人に話しかけていた。
「のう。あの宦官どもをいともたやすく投げ飛ばしておる女子、まるで樊會(漢代劉邦のボディガード)の如き強さじゃ」
「お側にあれば心強いことでしょうね」
歩夫人も一抹の奇妙さを覚えながら返事をしていた。
十人近くの敵を全員昏倒させて始末すると、謝氏の合図で場面が変わった。
音楽も華やかなものになり、それに乗って黄色の菊花のように瑞瑞しい衣装を着こなした芮氏の虞姫が現れた。化粧も濃いめである。
芮氏は所作が繊細で、指先までも神経が通っていて花のように美しかった。
「大王さま」
虞姫が酒宴で傷ついた大王を労る。
「わたくしめが一献差し上げます」
侍女役の文氏から酒器を預かって、大王に酒を注ぐ。
項羽は酒を呷ってみたものの、憂いは晴れない。
大股で一歩前に踏み出す。嘆きのこもった詩を歌い上げる。
「力、山を抜き
気、世を覆う」
「少年の覇王か。くくく」
低くしても子玉の透明感のある声を聞いて、孫権から笑いがこぼれた。
隣の孫登は真剣に観ている。
「時、利あらずして
騅逝かず
騅の逝かざる
奈何とすべき」
項羽は顔を覆う、そして虞姫に手を伸ばす。
「虞や、虞や、汝を奈何せん」
そこで落ち込んだ項羽に、楚歌の音楽が追い打ちをかける。
健気な虞姫が言う。
「わたくしが一差し舞って大王さまをお慰めいたします」
音楽が悲しげな楚歌から楽しげなものへと変わる。
芮氏演じる虞姫は広袖を大きく振って、蝶のように自在に舞った。
青空の下、黄色の衣裳がよく映えていた。
他の妃候補達も、日頃目立たない芮氏の艶やかで、しなやかな女性らしい美しい舞いにうっとりとした。
「芮氏もなかなかやるではないか?」
と孫登が陳表を振り返った。陳表は返事をせず、剣に手をかけたまま真剣に舞台を見守っていた。
「文奥……」
「……殿下、なにか様子が変です……」
「……」
孫登はそう言われてから、目をこらして舞台を見てみた。項羽の衣装が所々切られてほつれた痕があった。
(真剣でやりあっていたのか!?)
項羽は虞姫の舞を観ていたが突然、杯を投げた。下手側で丁氏に押さえられているものの中に身じろぐ者がいたのですかさず杯をぶつけたのだ。
虞姫は知らず、舞いつづける。
大王のためか。
太子のためか。
それとも己のためか。
舞いが佳境に入り、いよいよ項羽の佩剣に手を伸ばして自害する最期に近づく。
(あぁ、自由に舞うのはこれで最後なんだわ……)
感慨を込めて芮氏が舞い、くるりと回った瞬間、後ろから首を絞められた。
「ひいっ」
「虞姫!」
大王が叫ぶ。
「大王さま、ほかの者もみな得物を捨てな。さもないとあんたらの大事な虞姫の命はないよ」
そう言って、芮氏の首を左肘で押さえ込み、右手で刃物を突きつけていたのは、文啓妹であった。
もはや侍女の役を演じてはいない。彼女が脇役から主役に躍り出た瞬間だった。