韓当
諸葛恪は丹陽の韓将軍を訪ねていた。
程普、黄蓋がこの世を去り、韓当は今では孫堅時代から仕える一番の古株の宿将となっている。
ちょうど丹陽郡で頻発していた山越の反乱討伐を終え、軍は郡治の宛陵に駐屯していた。
諸葛恪が訪問したのは、午後の時間で兵士たちは弓の考査をしているところだった。
弓や弩の命中率の成績がよければ出世できるので、兵士たちはごくごく真剣だ。
「どうかね。きみも少し試してみぬか?」
韓当は老人斑だらけの手で自分の弓を諸葛恪に渡した。
すかさず韓当の側近が矢の入った箙も運んでくる。
「ずっと船と馬に揺られてきましたので、体がまだ揺れております」
口ではそう言いながらも、負けん気の強い諸葛恪が断るわけがなかった。箙を背負い、弓の張り具合を確かめる。
「軟弱なことを申すな。程公が生きておったら殴り倒されるぞ。先代様なら『頭を冷やしてこいと』江に突き落とされるな」
韓当が笑うと、諸葛恪は拱手してから兵士たちと並んで的を狙った。
びしゅん!びしゅん!
韓当愛用の強弓を難なく使いこなして、諸葛恪は五本中四本を的に当てた。
諸葛恪は礼儀正しく拱手して、弓を返した。
「諸葛子瑜殿のご子息は、なかなかやりおるではないか」
韓当は弓を受け取ると自らも息もつかせぬほどの速射で五本中五本全て命中させてみせた。
「やはり弓の名人の噂には違いませんな。老いてますます盛んとはいにしえの馬援(馬超の先祖)と韓将軍のことですね」
諸葛恪がその凄まじさに感嘆すると、韓当は豪快に笑った。
「腕前は衰えておらぬが、肝心の発揮する場面がどうにもな……上に立つと将軍とはいっても刀筆の吏と同じで文書仕事ばかりよ。武人の本懐ではないな」
それから役所の執務室の中で、諸葛恪は茶を振る舞われた。
「それでわざわざ武昌から丹陽くんだりまで何用だ?太子殿下の側近が。太子殿下はお元気か?」
韓当は背筋を伸ばし白い顎髭を撫でながら尋ねてきた。
「はい。太子殿下はお元気です」
諸葛恪は微笑んだ。
「それでわしに聞きたい話というのは?」
「それがですね。先々代さまの馬童をしていたという者の娘が現在太子殿下の妃候補におりまして、吉子玉というのですが……」
「吉?はて、記憶にないのう。先々代さまは愛馬をことさら大事にしておられたから信頼できる者にしか世話をさせなかった。それゆえ馬丁をしていたものは皆顔見知りだ。だが、その名は知らぬ」
「そうですか……吉小五という名もご存じないですか?」
「知らぬのう」
「はぁ……」
諸葛恪は当てがはずれて、途方に暮れた。
(丹陽まで来て収穫なしとは情けない……どうしたものか……)
ふと韓当は白い髭をしごきながら、何かを懐かしむような笑みを浮かべた。
「そうそう、馬童といえば先代さまと周郎が初陣の時、『兵士たちの苦労も知るべし』と馬糞拾いや飼い葉やりをしておったな……ずいぶんとこれも古い話になるのう」
「先代さまと周郎が!?」
その瞬間、諸葛恪の頭の中でひらめくものがあった。
(周家だって!!なんてことだ、簡単な文字遊びとは……周の中には吉があり、子玉とは瑜の子じゃないか!おれとしたことが!)
諸葛恪は知り得た事実を一日も早く伝えたかったが、帰途は天候不順で重陽の節句には間に合わなさそうだった。
重陽の節句の前夜、宿舎の部屋で、子玉と芮淑静は衣裳と小道具を自分で畳んで箱に仕舞いながら、話をしていた。
「芮さんの虞姫はだんだん良くなってきたわね。明日は太子殿下の御前だからと言って緊張しないでね」
「そんな……どうしても緊張はするわ。それより子玉さんの項羽は勇ましいと見物していた他の組の女子がぽーっとなっていたわよ」
子玉はくすくす笑いながら芮氏を見つめた。
「虞や、虞や、汝は嫉妬してはならぬぞよ」
「もうっ、子玉さんたら!揶揄ってばかりなんだから」
芮氏もつられてころころと笑い出した。
「そういえば陳さん達にしばらく会えていないわね。明日は太子殿下のお供であの二人も来るのかしら?」
「さぁ、きっと来るんじゃないかしら。太子殿下付きって言っていたし」
子玉は芝居の衣裳と小道具を箱に全てしまい込むと、蓋を閉じ、紐で括った。明日、舞台まで運んでもらわねばならないのだ。
「明日は頑張りましょうね。芮さん」
「ええ、もちろん。子玉さん」
二人は明日に興奮しつつも、昼間の練習の疲れでぐっすりと寝た。夢も見ずに眠った。