新たな事件
八月に入ってから、急に秋が深まったかのように寒くなった。妃候補達には防寒用の綿の入った着物が支給された。
先日の間者騒ぎは表向き伏せられていたが、残った少女達の荷物改めや、侍女達も含めての身元調査などが、厳しく行われた。
機織り、各授業の時間が削られ、太子の生辰のための演し物や贈り物にかける時間が増やされた。
子玉や芮氏らの組は応援組の宦官の役者や楽人、衣装を縫うのを手伝う宮女たちと謝青蝶が書き上げた脚本を読みあわせしていた。
唐婆やのお手製のおいしい菓子を囓りながらなので、のんびりとした雰囲気となった。
「馬童さんの長靴は踵に三寸高くするよう細工してちょうだい。馬童さんは背が足りないから体を大きく見せるように棍を大きく振り回して!」
謝氏の指示が飛ぶ。
「はーい」
どことなく気の抜けたような返事。
「芮さんも虞姫の舞は動きを大きくして!せっかくの衣装が映えないし、虞姫はこの場面では女の英雄なのよ。項羽のほうが迷いがあって女々しいの。だから観衆は感情移入できる」
「はい!」
演出指導に熱が入る謝氏に、子玉が頼み事を言い出した。
「ねぇ、謝さん。脚本を読んでみたのだけれど、項羽の台詞のところが、どうしても低音が出ないの。宦官の役者さんに台詞だけ代わってもらっていいかしら?役者の太史さんはいい声だわ」
「仕方ないわねえ。でも台詞に動作を合わせるのは大変よ」
「その辺は任せて!」
芮氏は苦労しながらも、虞姫の舞を練習していた。家でも滅多に舞など披露した事が無いのに、太子の前で挑戦しようとしたのには、最後にできるわがままの機会だと感じたからだった。
妃嬪の一人となったなら、そんな芝居などする自由はなくなる。
だから、せめて一生に一度、子どもの頃に夢見た虞姫を演じてみたかった。
わいわいガヤガヤと広間で稽古をしていると、子玉のところの唐婆やがよたよたと走ってきて子玉の耳元で何ごとかを囁いた。
子玉はすぐに立つと、
「ごめんなさい。中座するわね」
と言い、婆やの手を引いて走って行ってしまった。
ほかのものは唖然とするしかなかった。
「いいわ、あの子抜きで練習しましょう」
謝氏が監督らしく、みなを統率していた。
子玉が唐婆やの手を手を引いてやって来たのは後宮の暴室だった。
そこまでの通路で、賄賂が利くところは婆やが払って突破した。
暴室の入り口で止められると、唐婆やは子玉の前に出て、交渉し始めた。
「張兵六!」
「な、なんだどうしておれの名を知ってる?」
長矛をもった衛兵が戸惑った。
「あんた、呉郡の生まれだろう。あんたの母さんのことはよく知ってるよ。ゴロツキの亭主が博打で負けてくる度、金を借りに来たもんさ。大酒飲みの兄貴の兵三、兵五もよく金を借りに来たよ」
「金貸しの唐婆婆!なんでここに!」
「借金の取り立てに遭いたくなきゃ、ここを通しな」
長矛をもった張兵六は気まずくなり、もう一人の兵士に合図して二人を通した。すかさず子玉たちは中に入ろうとする。
それを年かさの暴室令(暴室の責任者)が折悪く出てきて止めた。
「その制服は……妃候補のお方ですかな?ここになんのご用ですか」
「中に話を聞かなきゃならない人がいるの。通して下さい」
暴室令の役人は白髪交じりの頭を掻いた。
「お嬢さん。関係の無い者の立ち入りを禁じるのがわたしの役目なんです」
子玉は唐婆やの前に立ち、左腕をまくり上げ始めた。
「あなたも役儀があるように、わたしにも責任があるのよ」
(なんだ?この小娘は……?)
不可解に満ちた暴室令の顔は、子玉の左肘に絡まっているものを見た瞬間、驚愕に固まった。
「そ、それは……」
「ここで見たことは内密に。通してもらうわね」
固まったままの役人をその場に置き去りにして、子玉は袖を直しながら、婆やと中へ進んでいった。
薄暗い牢の中には罪人、病人、様々な年代の女達が押し込められていた。
人気の無い一番奥の一角に子玉と同じ制服を着ている少女が蓆の上で膝を抱いて泣いていた。
「黄さん!黄秋華さん!」
子玉に呼ばれるとビクッと体を震わせ、黄氏は頭を上げた。
「馬童さん、なんであなたが来たのよ……」
子玉は牢の側に座り込み、冷たい鉄の枠を掴んだ。
「話を聞きに来たのよ。事は一刻を争うわ。話して頂戴。なぜ巫蠱(ふこ、人形や虫を使った呪い)のまじないをしているなんて疑われているの?」
黄氏は荷物改めの際に、同室の娘から巫蠱の呪いをかけているという訴えで、暴室に放り込まれているのだった。
「知らないわよ!巫蠱なんて恐ろしいこと……」
と、ほつれた髪を振り乱しながら黄氏は叫んだ。いつもの勝ち気な美貌の陰もない。
「では、まじないの人形があったのはどうして?中宮さまの四十の賀ではあなたはお茶を献じたわよね。呪うなんてまどろっこしいことしなくても良かったじゃない。変だと思ったのよ」
黄氏は襟元を掴み締めながらぽつりぽつりと話し始めた。
「あれは巫蠱の人形なんかじゃないわ。……大事なものよ。大切な人からもらった浮図(仏教)の神様の像なの……」
子玉は目をぱちくりとさせて驚いた。
「浮図!それは普通の人形とは違うわね。どんな形なの?」
黄氏は急に泣き始めた。
「早く落第したいから、わざと反抗的に振る舞っていたのに……全然落とされないし……。実家に帰りたい……あの人に逢いたい……」
黄氏は演舞の組に入っていたが、反感を買いやすいふるまいで孤立気味だった。その実、落第したいがための態度の悪さだったのだ。
子玉は焦れながらも我慢して、なだめた。
「いいから話して頂戴。正直に話せば実家にも帰れるし、あなたの大事な人にも会えるわよ」
「わたしが話したら大事な人に迷惑がかからない?」
彼女らしくない気弱な声であった。
「巫蠱の人形なんかじゃなくて、浮図の仏像だと証明できればいいのよ。で、どんな形をしているの?」
牢の中を真剣に覗き込んでくる子玉に黄氏は、躊躇った。
「どうして助けてくれるのよ!馬童さんにはわからないわ、わたしの気持ちなんて」
子玉も叫び返した。
「わかるわよ!わたしも好きな人くらいいたわ!……ものの見事にすぐ振られたけど……」
黄氏はぐすぐすと泣いた。
「その人は……郡の下級役人なの。でも、そろそろ孝廉に選ばれそうだから、そうしたら迎えに来てくれるって……約束に浮図の神様の像をくれたの。幸運をくれるって……」
辛抱強く子玉は話を聞いていた。
「どのくらいの大きさなの?」
「手のひらに収まるくらいよ。握りながら『早く実家に帰れますように』って毎晩お祈りしていたの」
「木製?」
「いえ、銅製よ。きっとあの人のお給料では高かったと思うわ」
「他に特徴は?」
「座像で、ふっくらした男の人で、ゆったりとした服を着ているわ」
「浮図の像で間違いなさそうね。あとは証明してくれる人を探さなくちゃ」
子玉は懐から布包みを出して黄氏の前に差しだした。
「わたしの大事なおやつの芋よ。元気だして」
黄氏はひもじかったのと、少し張り詰めていた気持ちが緩んでまた泣き始めた。泣きながら芋を囓り始めた。
「どうしてわたしなんかを助けようとするのよ」
芋を囓りながら黄氏は尋ねた。
「あなたのためじゃないわ。孫家のために動いているだけよ」
そういうと子玉はにっこり笑った。
(同室の娘が怪しいわね。それと浮図に詳しい人を……あの方がいるわ!)
子玉は婆やの手を引きながら、走っていた。
子玉が訪れた一刻(二時間)後の夕方に、孫登と陳表も暴室を訪れていた。
時間差があったのは、最近孫登は父と臣下の者達との御前会議に出席しているからだった。魏の東部方面からの侵攻が予想され、毎日のようにその対策の話し合いがなされていた。孫登は口を挟むことは許されていないが、国政に参与し経験を積めるよい機会だと感じていた。
「巫蠱の疑いがあると聞いた。直接容疑者に話を聞かせてもらおう」
暴室令は困った顔をした。
「殿下、巫蠱は大罪でございます。それに暴室には病気の者もおります。万が一感染などなされたら一大事でございます」
「大事だからこそ調べるのだ」
押し問答をしていると、暴室の入り口近くの執務室から知り合いが出てきた。
「支老師!なぜここに?」
孫登が思わず声を上げた。
執務室からは支老師と簫公公が連れ立って出てきた。
支老師は二十代後半の青年で、名前を謙、字を恭明といい、祖父は月支(西域)から来朝した人である。痩せていて、浅黒い肌をしていて、漢人には見られない薄茶色の瞳をしていた。冠を着けず、頭巾を被っている。
「これは太子殿下。こんばんは」
支老師、簫公公二人ともに深く揖礼した。
「そなた達も調べておったのか?」
「はい。不思議な人物像が出てきましたが、博学の支老師に教えを乞うたところ、解決できそうです」
簫公公が微笑みながら報告した。
「支老師。話を聞かせてくれ」
「はい。殿下。ここは不浄ですので東宮府に戻りましょう。証拠の品は簫公公が持っておられます」
そう支老師が話すと、簫公公は頷いた。
東宮府に戻り、孫登の私室に入った。陳表が固く戸を閉じたことを確かめる。
簫公公が小さな布包みを開く。中からは銅の人物像が現れた。
「座っている男?」
孫登が首をひねった。巫蠱というから何かおどろおどろしいものでも出てくるのかと身構えていたのに、当てがはずれた様子だ。
「これは仏像です。巫蠱の人形ではありません」
そういうと、支老師は仏像を手に取り、袖で汚れを拭い、元の場所へと置き直した。目をつぶって静かに手を合わせて拝む。
「支老師が祈ると言うことは、浮図の像なのか?」
支謙は在家の仏教徒であった。
目をゆっくり開けて、薄茶色の瞳で孫登を見つめた。
「はい。そのとおりです。特徴がいくつかあります」
孫登と陳表が身を乗り出して、小さな仏像を見つめた。
「頭の中央に独特の膨らみがあります。これを肉髻といいます。髪の毛がくるくる巻いているのは螺髪といいます。眉間のぽつんとした点は白毫といいます。耳たぶのふくよかなのも仏様の特長ですね。あとは背中に丸い光背を背負っています。これらすべて仏が人とは違うことを示すものです。決して巫蠱の道具ではありませぬ」
孫登が疑問をもった。
「巫蠱というのは人形を痛めつけることで相手を呪うのだろう?これは銅製だな。溶かすくらいしか傷つけられないではないか」
博識な支老師が答える。
「殿下の仰るとおりでございます。昔の巫蠱の例は木製か布製の人形でございました」
孫登は深く頷いた。
「これは誣告だな。偽りを申した者を即刻取り押さえよ」
簫公公が頭を下げた。
「恐れながら目下捜索中でございます」
「そうか。廷尉や御史台を煩わせる必要も無いな」
陳表が小さく建言した。
「巫蠱だと言いふらした同室の女が怪しいですな。間者かもしれませぬ」
「う……ん」
孫登は深く考え込んだ。
そこに程女官が息を切らせて入ってきた。
「こんばんは。殿下、拝謁賜ります……」
息を切らせている。
「どうした?程女史?」
「黄秋華を誣告した同室の江紫瑞が芳林苑の池に身を投げて……。持ち物はただいま精査中でございます」
支老師が静かに手を合わせていた。彼にとっては御仏の前には間者も味方も関係ないのだろう。
孫登はじっと浮図の像を見つめていた。
支老師が話しかける。
「殿下。この仏様と殿下には共通点もあります」
「なんと!異国の神にわたしと似たところがあると?」
支老師は優しく微笑みながら語った。
「仏様は王子だったのです。でも民を救わんとして王位を捨てました」
孫登は驚いた。
「無責任ではないか!己の立場を放り出すとは」
「ある一面からすればそうかもしれません。ですが、仏様は己の国民だけではなく、世界の民の心の苦しみを解放したいと王位を捨て、家族を捨てて修業に出たのです」
「ふむ。王子というのは同じだが、わたしは太子の位を捨てようとは思わぬぞ」
「そこは違いますね。太子殿下は国の上に立つ者として慈悲深くあろうとなされています。このお優しいところが似ております。どちらも目指すところは民の幸せでしょう」
孫登が支老師の顔を見つめると、変わらず優しく微笑んでいた。
「大事な家族を捨てるなど……わたしにはとても無理だ。異国の神は違うな。いやその考え方は墨子と少し似ておるやもしれぬ……」
孫登が少し浮図に興味を持ったようで、支老師は内心喜んでいた。
(優しく有望な太子殿下が浮図の教えをこの国で興隆させてくれるやも……)
支謙は在家の信者だが六カ国語を操り、老荘の語を用いて、漢人にも親しみやすく格調高い仏典の翻訳に挑戦していた。
孫登を取りまく、太子の家庭教師のひとりである。
孫権は優秀な人物を太子の周りに据え、期待をかけていた。