絵と詩
八月に入っての休みの日のこと。
子玉は殺陣の稽古を丁氏と熱を入れてやり、芮氏も虞姫の舞の稽古に力が入った。午後は休もうということになり、だいぶ涼しくなってきた庭園の木陰で過ごしていた。
芮氏は衣装に飾り付けをしていて、子玉は絵巻物を眺めていた。
ぼんやりと眠そうな声で子玉が尋ねた。
「ねぇ芮さんは、なぜ虞姫がいいの?お芝居の美女なら西施や王昭君とかいろいろあるじゃない?」
芮氏は針を持つ手を止めた。
「そうねぇ。小さい頃に観て一番感動したからかしら……虞姫は女の中の英雄だとも思うのよね。それに江東では、やはり項羽は別格の人気よ」
「ふぅん。英雄かぁ……」
子玉がそのまま昼寝に突入しそうだった時、孫登と陳表がやってきた。二人とも宦官の格好である。
この間一方的に怒ったので、決まりが悪い。
「あ、こんにちは。陳哥、陳大哥」
ふだんとかわりなく子玉が挨拶した。
「こんにちは」
芮氏も声をかけた。
「こんにちは。その……美味かった。ありがとう」
菓子が入っていた箱を陳表が芮氏に差しだした。
「喜んでもらえてよかったです。子玉さんも手伝ってくれたんですよ」
「そうか。美味かったぞ」
孫登のぎこちない礼に、子玉はちらりと白い歯を見せて微笑んだ。
子玉の手に巻物があるのに気づいた孫登が尋ねる。
「いったい何を読んでいるんだ?」
「曹不興(呉の名画家)の写しよ。見る?」
まるでなんでもないことのように、子玉は眺めていた巻子を差しだした。
孫登は受け取って広げてみた。憮然となり、そして茹で上がったように赤くなった。
「しゅ、しゅ、春画じゃないか」
手からポロッと取り落とした。
「落とさないでよ。大事な嫁入り道具なんだから」
平気で拾い上げる子玉に、芮氏も陳表も腰が引けている。
抱き合う男女に、女の下に侍女が横になる絵図を見ていた。
「でもこれはエグいわよね。侍女が腰枕役で三人で致すなんて……宮中ではこんなことも日常茶飯事で、わたしたちも要求されちゃうのかしら?」
(しない、しない!)
孫登は心の中で叫んだ。
「忠誠心も見せておかなきゃ、実家にも迷惑がかかるし……」
(いったいなんの忠誠心なんだ!?)
「父や長兄が亡くなって、ウチも落ちぶれる一方だからなー」
(……)
「わたし……我慢するわ。多少のことは」
(え、えっ!?)
目を白黒させる孫登にこれ以上悪影響が及ばぬように、陳表は子玉から絵巻物を取り上げて巻いて紐を結んだ。
「もっと女らしいものを読んだらどうだ?詩とかそういう……」
子玉は手を頰にあてて考えた。
「詩ねぇ……。あ、曹公の詩は好きよ。迫力があるわ」
孫登が調子を取り戻して反応した。
「曹公の詩か!わたしも好きだ。『歩出夏門行の神亀寿なりと雖も』がいいな。そなたはなにが好きなのだ?」
聞かれて子玉は微笑んだ。
「『苦寒行』かしら。寒々しい北の荒野の風景が目に浮かぶようだわ。芮さんは?」
問われた芮氏は膝に置いた縫いかけの衣装を無意識につかんでいた。
「わたしは曹公の詩は正直あんまり……。曹子建の詩のほうが優雅で神秘的で好きだわ」
「芮さんらしい好みね。じゃあ陳大哥は?」
「わ、わたしか?詩経と楚辞は軽く学んだ程度だ」
「三曹には手を出していないの?」
「て、敵ではないか。読むつもりはない」
「でも、曹公は孫子の注釈も書いているし、詩も読んだ方が敵への理解になるわよ。敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず、というしね」
子玉の言葉に孫登はうんうんと肯き、賛同した。
「わたしが、お気に入りの所を少し暗唱して見せよう。
『老驥(ろうき、年老いた馬)櫪(れき、厩)に伏するも
志は千里に在り
烈士の暮年(ぼねん、晩年)
壮心已まず』」
陳表は孫登の暗唱を神妙に聞いていたが、パッと顔を明るくした。
「志在千里……いい言葉ですね。英雄の志だ」
「その英雄の鼻っ柱を折ったのが、烏林、濡須での我が軍の活躍だと思うとなおさら痛快ではないか!」
孫登は笑って見せた。
「曹公の詩、わたしも読んでみようと思います!」
陳表が元気に言い出した。
芮氏が小声で囁いた。
「東宮さま付きの宦官ともなると、ずいぶんと学が必要なのね……」
「うふふ……そうね」
戻り際、孫登が子玉を引き留めた。
「その、なんだ……この間は一方的に責めて済まなかった」
子玉は優しく微笑んだ。
「いいわ。あなたの立場なら怒って当然だもの。わたしも蚕は苦渋の策とはいえ、やり過ぎた自覚はあるわ」
孫登は素直に謝ることができて、ここ数日の胸のつかえが取れた感じがした。爽快な気分になった。
季節はすでに秋模様で、空は高く澄み切っていた。