水札占い 二
孫登が怒りがおさまらないまま戻ると、東宮府に客人が来ていた。弟の孫慮である。まだ成人はしていない。
「子智(孫慮の字)、何か用か?」
「兄上に一応お礼を申し上げておかなきゃと思って。なんですかその格好?」
孫慮は腰掛けていた欄干からひょいと飛び降りると、孫登にくっついてきた。
孫登は変装用の宦官の服を着ていた。
孫登はすぐさま脱ごうとして、側仕えのものに着替えを用意させる。
「昨日の中宮さまの生辰は楽しかったですか?」
「べつに……普通だ」
「ふーん。でも、妃候補の中に美女がいたそうではないですか。父上が思わず自分のものにしたくなるような」
「ああ、胡服で舞った娘か。父上が欲しがったから、『どうぞ』と申しあげた」
孫慮は呆れたような声を出した。
「兄上ったら無欲にもほどがありますよ。それとも父上に孝養を尽くしたおつもりですか?」
孫登はどこか孫慮との会話に上の空だった。頭の中に、先程のことが尾を引いていた。黙り込んだ子玉の哀しげな顔……。
「べつにそんな深い訳はない。興味がなかったから、そうしたまでだ」
「へー。では、笛を披露した娘は如何でしたか?」
思い出そうとして、孫登は首をひねった。
「ああ、笛はうまかったぞ」
「顔は?姿は?」
孫慮が身を乗り出す。孫慮は勉学ではきらりと才能を発揮していて、孫権にも気に入られていたが、ちょっと落ち着きがない。むしろ、こちらのほうが本来の孫家らしいのか。
孫登は昨日の笛の娘の顔を思い出そうとしたが、小麦色の肌をして黒曜石のように瞳をきらきらさせて笑う子玉のことしか思い浮かばなかった。頭を振る。
「確か小柄な娘だったな……」
「顔は覚えていないんですか!?」
孫登が衝立のなかで宦官に手伝われながら着替えをする間、孫慮は独りでしゃべっていた。
「父上によると、笛の娘は十三と僕の方が年が近いって。兄上の妃候補選抜からは外して、しばらくは魯育姉上の女官として育てて、それから僕に下賜する予定だと伺ったよ」
「ふぅん」
興味なさげに孫登は相づちをうつ。
孫慮は敷物に座っていたが、その場にひっくり返った。手足をジタバタさせ始める。
「ひどいなー。すごい美人だと思ったのに。兄上の記憶にも残らないような程度なのかよー。兄上に悪いと思って、せっかくお礼にまで来たのに」
孫慮は幼い頃は、孫登と一緒に徐夫人に養育されてきたので、とても仲が良かった。
着替え終わった孫登は、孫慮の側に座ると肩を叩いて起こしてやった。
「そう嘆くな。父上はおまえのことを考えて配慮なさったのだ。美人かどうかは二の次だ」
孫慮は起きながら泣きわめいた。
「兄上のところはさぞかし美女揃いなんでしょうね!こういうときだけは長男がうらやましいです!」
孫登は静かに呟いた。
「わたしは最近思うのだ。顔の美醜はあんまり関係ないのだとな……」
それを聞いて、側に控えていた陳表と諸葛恪は顔を見合わせていた。
簫公公の執務室の奥ではまた大きな水甕が置かれ、再び水札占いの用意がなされていた。
程女官、馮老師、韓老師もそろっている。
「では、始めようかの」
程女官が口火を切った。
「ご存じの通り、司馬媚娘は呉王陛下のお手が付き、後宮にてお仕えすることになりました。また、最年少の吾平児は幼すぎるとのことで、魯育さま付き女官として育て、その後、子智さまの側室にとの予定と陛下と中宮さまがお決めになりました」
他の三人は無言で頷いた。王とその夫人が決めたことなのだ、否などいえるわけがない。
「では、馮老師から伺いましょう。落第者はいますか?」
馮老師はしわの重なりの奥から目をぎらりと光らせた。
「全蕗芳はまったく答案の文章がなっておらん」
「それはなりませんね。妃も一種の官吏とも言えるのですから。文書作成能力がないのは不可ですね」
全蕗芳の名前を書かれた紙が除けられた。
「あら、今回も小篆で書かれたのですか?簫公公」
「このほうが雰囲気がでるじゃろう」
「うふふ。そうですわね。では、韓老師は?」
韓老師は一礼して述べた。
「朱英姫と張丹鳳から告白されました。その会話はわたしの助手の小武も陰で聞いています」
他の三人は呆れたように天を仰いだ。
「あら二人も。前回で少しは慎むことを知ったかと思ったのに」
「けしからんですな」
「韓老師の美貌が為せる業とはいえ、妃候補がまったく許されん!」
韓老師は俯いた。恥じ入るように目を伏せた顔もどこか麗しい。
二人の紙がはずされる。
「では、今回特別に……大虎さまから指示が……笞打ちは免じるが、陸桂季、任永紅、秦三娘の三名を落第とするように、とのことです」
「理由は?なにが大虎さまのお怒りに触れたのだ?」
程女官は困ったように眉をひそめる。
「中宮さまのお祝いの席での衣装のことです。不運にも中宮さまと色が被っていたのです」
「あぁ……」
他の三名はため息をついた。
程女官がおもむろに口を開く。
「……不運ではありますが、このような席では、身分の高い方々ならそれぞれ衣装をたくさんお持ちですので、前もって情報交換して色を被らなくするのが通例となっております」
「不運じゃな……だが、これで呉郡の陸氏と広陵の秦氏をおとせるのう」
簫公公は不運な三人の紙を横に除けた。
「では、最後に『あの方』からの指示でございます」
程女官が紙を取り出すと、他の三人が裾を払って跪いた。
「呉晴伶は使用人に対して過酷である。よって、上に立つものとしてふさわしくないので不可とする。蔣滋仙は外部との連絡禁止期間であるにもかかわらず収賄によって連絡を取ろうとした。よって不可とする」
程氏が紙をしまうと、ほかの三人はゆっくりと立ち上がった。
「よく見ておられますな。あのお方は」
馮老師が感嘆した。
「我々にも知らない内部の情報をお持ちのようですね」
韓老師も感心して頷いていた。
「あの優秀なところは血筋というほかあるまいな。さて蜜蝋を塗りますぞ」
簫公公は名前を呼ばれなかった少女たちの紙に蜜蝋を薄く塗り伸ばしていった。
それが乾くと、再び全ての名前の紙が水甕に降り注がれた。
蜜蝋を塗られなかった紙はすぐさま水を含み沈んでいく。
蜜蝋を塗った名札も二枚、甕の底へと沈んでいった。
「これで、呉会、丹陽、北来の豪族の娘達がかなり消えてさっぱりしたのう」
簫公公は満足そうに呟いた。他の三人も頷く。
二十名の少女が今回は残った。