序章 波瀾万丈の東宮妃選び!
美しく着飾った少女達が回廊を二列となってそろりそろりと歩いて行く。
高く結い上げた緑の黒髪には金銀宝石を鏤めた簪を刺し、肩には薄く織られた被帛をかけ、その身には意匠を凝らした衣を纏い、足には刺繍をされた絹靴を履いている。
遠目から観てもその華やかな様子は壮観であった。
まわりの庭園の夏の花々にも負けぬ色鮮やかさだ。
年の頃は十三から二十くらい。都の武昌を中心に各地から選ばれ、集められてきた美少女たちである。
役所が宮女募集をするのは何年かおきにすることであって、特に珍しいことではない。
だが今回は特別なことで選ばれた少女達である。
「東宮妃」選びのための候補となる少女達が集められたのだ。各地に派遣された宦官も人相見も力の入れようがちがうというもの。将来の東宮妃、さらには皇后となるかもしれない少女を選び出すとあって念入りに美少女を選りすぐってきた。
東宮の高楼から諸葛恪や張休ら、太子の四友とよばれる青年達が、少女達の色鮮やかな列をなすのを眺めていた。
「後宮の東の外れで妃選抜は行うのか……ずいぶんと派手なものだな」
張休が呟いた。
「戦つづきというのに派手に着飾ってのんきなものだよ」
皮肉げに諸葛恪が続ける。
「君たちの親戚の娘はいないのかい?」
顧譚が尋ねた。
「あいにくとうちの一族には妙齢の娘がいなくてね」
張休が少女達を眺めた目はそのままに顧譚に答える。
諸葛恪は突然笑いだした。
「妃選びなどとはいっても、本命はもうきまりだろう。他家の者が周家のお嬢様に勝てるわけがない。良娣候補選びと言った方が正確だな」
「元遜(諸葛恪の字)はそういうけれど、太子さまの好みだってあるだろう。ね、太子さま……あれ?」
顧譚が振り向くとさっきまでいた、太子と陳表が、いなかった。
「あれ?どこいったのかな?」
「近くまで見に行ったんだろう。日頃落ち着いている太子さまだって自分の嫁選びなんだ気にもなるだろうさ」
「文奥(陳表の字)が着いているんなら安心だな」
三人は太子を探しにも行かず、そのまま高楼の上から高みの見物を決め込んだ。
諸葛恪達が眺めていた後宮の東の外れに位置する宮では、呉王孫権とその夫人歩氏の二人による面接が行われていた。
二人の少女が御簾の前に進み出て、額ずく。
傍らで払子を持った宦官が声をかける。
「免礼。出身と名前を述べよ」
すらりとして色白で知的な面差しの少女がまっすぐ顔を上げた。
「会稽郡山陰県の謝青蝶と申します」
よどみなく答え、声もよく通る美しい声をしていた。
隣にいた少女も倭堕髻に結った頭を上げた。簪から垂れ下がる玉飾りがシャラシャラと涼しげな音をたてる。
「桂陽郡耒楊県の趙少栄でございます」
容貌の美しさこそいずれ劣らぬものであったが、趙氏の方が日に焼けていた分、白粉を多くはたいていた。
御簾の奥で二人が何ごとか囁き交わす。
孫権が指で宦官に合図を送った。
取り仕切る宦官が払子を振った。
「下がってよい。次の組のもの入ってよし」
武昌宮の東宮の南側では人知れず、かくれんぼが始まっていた。
「太子さまーお戻りをーお待ちください」
陳表が追いかける。
太子は無視して南の厩へ向かっていた。
(みんなわたしの意思なんか無視なんだから!魯班姉上なんて周家の小姐以外に手を出したら殺すとか勝手なことばかり言うし!逢ったこともないのに!妃選びなんて最悪だ!)
輝く夏空の下、ぷりぷり怒っていた太子がずんずん青瑠璃の瓦屋根の軒下の日陰を選んで歩いていると、コツンと頭にぶつかるものがあった。
「なんだ?」
太子、孫登が頭に当たったものを拾うと、それは靴であった。飾り気のない藍色の布靴である。木靴だったら孫登の頭は無傷では済まなかったかもしれない。
そのまま瓦屋根の上を見ると、少女が屋根の上で手を合わせて済まなそうにしていた。
「ごめんなさーい。わざとじゃないのよ」
「そなたそんな高いところに上って危ないではないか。梯子を持ってこさせるゆえ、そこでおとなしくしておれ」
孫登は屋根の上に少女がいるのに驚いたが、もともと温厚で優しい少年であったから、先ほどの怒りも忘れ、少女に親切に声をかけた。
向こうから追いかけてくる陳表に梯子を調達してくれるように頼むつもりだった。
だが。
「だいじょーぶ。飛び降りられるわ、このくらい。ちょっと向こう向いてて」
そう言うなり、少女はトンボを切ってくるりと飛び降りる。
孫登は呆気にとられて口をあんぐりと開けたままになった。
ひらりと舞った瞬間、紺色の裾がまくれてズボンと靴下の間のましろい皮膚が見えた。
それは十五の少年の孫登をドキリとさせるに十分な白さであった。
本来、女人の足元は秘めやかに隠す部分なのである。
音もなく着地する。
「あ、あ……」
降りてきた少女は、足こそ白かったものの顔や手は健康的に日に焼けて小麦色の肌をしていた。おまけに前髪が少し縮れている。
思わず明眸皓歯と形容したくなるような白い歯をちらりとと見せて少女は微笑んだ。
「靴をぶつけてしまってごめんなさい。痛かった?」
少女は太子の頭に手をやってこぶがないか確かめた。二人の背はまだ成長中で、孫登がやや高いくらいである。
孫登は今までそんな無礼な振る舞いをするものはいなかった(魯班を除く)ので面食らった。
「だいじょうぶなようね」
「そ、そなたなぜ屋根の上になどに上がっていたのだ?危ないではないか」
少女は胸元から押し込んでいた薄緑色の被帛を引っ張り出して見せた。
「これが屋根まで飛んじゃって引っかかったの」
「他の者に取らせればよかろう。女子がはしたないし、危ない」
少女は靴をはき直しながら言い訳した。
「あの程度、危なくないわよ。わたしは軽業は得意だし、劇団にも誘われたくらい身軽なんだから。母上は自分でできることは自分でしなさいって言うのよ。まぁ家訓のうちかしら?」
孫登は撫でられた頭に思わず手をやりながら、尋ねた。
「そなたはどこの家の者だ?」
少女は靴をはき直してふふふーんといたずらっぽく笑う。
「知りたい?」
「うん」
「呉郡呉県の吉子玉よ」
「……(あまり聞いたことのない姓だな……)そなたの父御は何の役目に就いている?」
子玉は被帛を懐から引っ張り出して肩にかけた。
「父様はいないわ。若いうちに亡くなったから出世もそんなにしてないし」
「そうか……悪いことを聞いてしまったな……」
「ううん。気にしないで」
子玉は服についた埃を叩いて払いながら言った。
「でも、一個自慢できることがあってね」
にゅっと人差し指を突き出す。
「なんだ?」
孫登は興味津々で身を乗り出すと、少女は気を良くして言った。
「父様はわずかな間だけど、先々代様の馬童をしていたのよ。ねぇ、すごくない?」
「す、すごいな」
何がすごいのかよくわからぬままに子玉に気圧されて頷く孫登。
「命を預ける愛馬を任されるって大任よね!」
少女はくるっと回って、被帛が巻き起こった風に乗って舞い上がる。
「子高さまー、子高さまー……」
背後から陳表の呼ぶ声が聞こえた。振り返っていると、子玉から声をかけられた。
「靴をぶつけてごめんね。じゃあね」
呼び止める暇も与えずに、少女は飛ぶように去ってしまった。
「子高さま、いえ太子殿下。一人歩きは危のうございます」
孫登より年長の分、背も高く体つきも武人らしく整った陳表が目線を下げて、忠言した。
「少し気分が悪かったのだ」
孫登は素直に反省の色をみせた。
「一人歩きはもう二度となさらないでくださいね。今どなたかとお話されていたようですが」
「うむ。馬童の娘だ」
「はっ?」
黄武三年夏の出来事であった。