アイリス編 2
朦朧とした意識のまま崩れる筈のない場所が崩れ、私は自身が落下している事を感じた。
落下時間から高い場所から落ちたと思ったが柔らかい感触が私を受け止めた。
どれくらい時間が経っただろう、敵にやられて朦朧としていた意識はそのどれくらいか分からない時間の経過によって回復していた。
「ぐっ……くっ」
痛みの残る身体で起き上がる。
そこは見覚えのない場所、何処かの洞窟の中で、クッションを何重にも敷き詰められた一区画に私は居た。
周囲を確認すると私と同じようにお嬢様がクッションの真ん中で倒れていた。
「シアン様!」
私はクッションの不安定な足場の中、お嬢様に駆け寄った。
「……っ……っ」
お嬢様は声も上げず、泣いていた。
「シアン、様……」
なんだか、見てはいけないものを見たようで、思わず視線を反らした。
視線を反らした先にはこの場を照らしているライト、そしてその下には紙がクッションの上で乱雑に散らばっていた。
「え……これは……」
気になるものを見つけて、その紙の束を取ってみる。
それはお嬢様の病気に対する研究資料。
先代のローモンド様……いや、それ以前からの研究成果と試作特効薬の制作過程……それにスカイ様が行ったとされる実際の研究成果だった。
「何でこんなもの……え?これ、お金」
資料に混じってお金があったと思った。
だが、それは混じったのではなく、資料と思われたものの一部はお札だった。
全部合わせると結構な額になる。
「……兄様の保険です」
振り返るとお嬢様が起き上がっていた。
「保険?シアン様は何か知られてるのですか?」
「……いえ、私にも兄様は教えてくれませんでした。ただ、兄様の事だからいざという時の事を考えていたのだと思います」
「それが、この場所ですか」
「兄様は防衛に万全を期してました。それでも、対処出来ない相手……今回のような敵が現れた時の事を考えていたのでしょう」
「……!逃走方法ですか」
「ええ、強固な要塞であればある程、脱出や逃走は難しくなる……他の侵入ルートがないように逃走ルートも正面玄関一つ。ならば、追い詰められた時に逃走用の一方通行の出口を作ろうとしたのでしょう」
「その為の場所……地下室、ですか」
「ええ……一方通行の落とし穴です。恐らくはこの家を建てる時から用意して作らせたのでしょう。パティさん辺りなら喜んで作って貰えそうだし、義理に厚い人だから口も固いですし」
「一方通行の落とし穴……スカイ様の魔法による、ですか?」
「そう……誤作動を起こさないようにスイッチは兄様が押せるように……でも、だからこそ今この場には私達二人しかいない」
「!!」
「兄様……あんな身体で無理をして……ううっ」
「で、では……スカイ様は二人で限界だった、と?」
お嬢様は何も答えず泣いていた。
それが何を意味するのか、私は思い知らされた。
「っ……!!…………行きましょう。スカイ様がそこまでしてくれたんです」
「……行けない。兄様が、あの人がいないんですもの」
その瞬間、生まれて初めてお嬢様に抱いてはいけない感情を抱いた。
「何を……言ってるんですか?そのスカイ様が作ってくれた逃げ道でしょう?」
「その兄様がいないと言ってるでしょう?」
「スカイ様は!……貴女の為に命を……」
「……違う。そうではないのです」
「へ?」
思わぬ返答に間抜けな声を出してしまった。
「ここに兄様がいないのは……兄様が残ったのは優しさとかではないのです」
「す、スカイ様は!シアン様に生きていて欲しいと……!」
「なら、何故ここにいるのは兄様ではなく貴女なのですか!」
ぴしり、と何かにヒビが入った気がした。
私はその言葉の意味を気付いてしまいそうになり、無意識に抗おうとした。
「真にシアン=ブルーの事を考えるのなら、優先すべきは貴女ではなく、兄様自身でしょう!」
その想いは叶わず、ヒビの入った何かは粉々に砕けた。
「あ……」
「私の、シアンの事だけを考えるのなら、どうしてブルー家の病、その治療法の第一人者である兄様が一番必要なのはわかりきってるではないですか!」
「スカイ、様は……私?私のせいで……?」
お嬢様は一瞬、驚いた顔をして、悲しそうに首を横に振った。
「……そうであったなら、救われました。でも、違う。きっと兄様は貴女でなくともあの場に他の誰かが居たならその人を優先していたでしょう。きっと、それが見知らぬ他人だったとしても……」
「そ、そんな、どうして……?」
お嬢様は一層悲しい目をした。
「そう……貴女も、貴女でさえも気付いてなかったのですね。お父様も亡くなる時までもそうだったのですから、無理はないのかも知れません」
「気付いて、なかった……?」
「兄様は……奴隷であった時の考え方から抜け出せないでいるのです。自分の事を考える事が出来ないんです」
「それって……どういう事ですか?」
「あらゆる事の勘定に自分を入れる事が出来ない。そう考える事が出来ないのです。今まで兄様は大抵の事を自分が負担する事でどうにかしようとしていたでしょう?」
「……!!」
「きっと、本能では生きようとしているのです。ですから、兄様は今日まで生きてこられた。でも、理性では自分の事を考えられない。奴隷時代に受けた弊害でしょう。兄様は……冷静に自分の事を考えたら、正気でいられない環境にいましたから……」
「……シアン様はその事を?」
「ええ、知って……気付いていました。家族……妹であり、妻ですもの」
思えば、お嬢様は今までスカイ様の意見に反発してもスカイ様の負担を軽減しようとしていた。それはスカイ様の事を一番理解していたから出来た事だったのだろう。
「……兄様はあんな状況でも、自分を優先出来なかった。シアンは……兄様を救う……いえ、それはおこがましかった。兄様を更生させる事が、出来なかったんです。シアンだけが、兄様を理解出来ていたのに……」
「っ……ま、まだです!まだ、スカイ様が負けたかなんて!死んだとは限らないでしょう!?」
「……そう。もし、そうならよかった」
「まだ、決まってません!」
「ええ、だから、シアンはその希望を抱いたまま、死にます」
「何を言ってるんですか!?シアン様はまだ生きておられて!そのシアン様が……最大の理解者で、命懸けで助けたシアン様が何を言ってるんですかっ!!」
「もう、限界なの、です、アイリス」
「え……!!し、シアン様、まさか魔法を!?」
お嬢様の病は魔法の行使により、進行が早くなる。
故に魔導士にとっては致命的な病だ。
だからこそ、ローモンド様はスカイ様を次期当主とし、スカイ様はお嬢様に魔法を使わせようとしなかった。
「兄様が、死ぬかどうかの、瀬戸際、ですもの……他に、選択肢なんて、あるわけが……」
「シアン様!分かりましたから、無理に喋らないで下さい!」
「……」
お嬢様は取り繕う余裕がなくなったらしく、息も絶え絶えになっていた。
「……シアン様、家に戻りましょう」
「!!」
「スカイ様ならきっと無事です。だから……スカイ様ならきっと、シアン様を!」
「…………アイリス、貴女」
「スカイ様を信じて下さい」
「……貴女も、殺されるかも、知れないのよ?」
「この身をブルー家に捧げる覚悟は当にしてます」
「アイ、リス……」
「行きましょう、シアン様!」
私はお嬢様の前に背を向けた。
お嬢様は迷った顔をしたが、やがて、その身を私の背中に預けてくれた。
背にお嬢様の温もりを感じ、それがひどく弱弱しいものだと思った。
これは命の灯だ。
この灯を消してはいけないと思い、私は先を急いだ。




