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涙の授業

作者: もにもに

中学校の頃のある先生に憧れて私が将来の目標が教師になっていた。

高校はそこそこの進学校に行き、地元の教育大学に進学した。

大学では熱心に勉強する学生ではなかったが、与えられた課題をこなし、さーくるかつどうやバイトで充実した生活を送っていた。自由な時間は友達と旅行に行ったり、いろんな馬鹿なことをして4年間を過ごしてきた。

そして、中学校の頃からの夢であった念願の教師になり、生徒が楽しめる授業をやるぞと息巻いていたが、忙しい毎日に追われながらなんとなく教師として数年間を過ごしていった。

退屈そうな視線がいくつもこちらに向けられる。自分の好きなことをしているときはあっという間に時間が過ぎるが、どうやらこの50分間はこの子たちにとってはそうは思えないらしい。

淡々と黒板に数式を書いては子供達がノートに写す。そんな業務的な授業に納得がいかなくて中学校の教師を目指して地元の教育大学に進学した。生徒を楽しませる数学の授業を考えると息巻いていた。

現実はうまくはいかないものだ。しかし一方的な授業にはしたくないと毎回理解しているか問題を生徒に解いてもらうことにしている。そのためかつまらないながらも子供達も授業に耳を傾けてはくれる。

「じゃあ、この問題を田口さん解いてください。」

自分が中学の頃は呼び捨てが当たり前だったが、今ではさん付けにしないといけないらしい。やりづらいなと感じながらもクラスでもトップクラスの成績の田口を指名し、当然答えられるだろうと黒板に答えを描く準備をする。

が、沈黙が続く。その間わずか10秒ほどだが気の遠くなるように長く感じた。なるほど、子供達はこの何倍もの時間を過ごしていたわけだ。子供達への同情と同時に、自分の授業力の無さを痛感する。

しかし、今はそんなことを考えてる暇はない。いや、考えてる余裕がない。思考を停止させる空間がそこには広がっていた。

「わかりません。」

そう答えた田口の目からは涙が流れていた。教室内がざわつく。こちらとしても予想外だった。

一旦田口を座らせ、誰かわかる人はいないかと問うが、1人として手をあげない。

まだ教師としての経験を積んでいない私には問題の答えを書いて授業を終わらせる他に対処方法が見つからなかった。


授業を終えて職員室に戻ると、

「浮かない顔だな、おかやま。」

と早々に授業がうまくいかなかったことを察し、声をかけられる。同期の阿部隆だ。ちなみに"おかやま"と呼ばれたがこれは本名の片岡大和の真ん中を抜き取ってつけられたあだ名だ。

「最後に問題を出したら生徒が答えられなくて泣き出したんだよ。

「それはご苦労様でした。」

「絶対に答えられるだろうと思ってたから、突然すぎてパニックだよ。」

「今時の子はそんなことでも泣いちゃうんだな。」

そう言いながらコーヒーを入れ、2人は自分のデスクに向かう。次の授業はもう少しうまくしなければと反省をし、教科書を開く。楽しく、わかりやすい授業をするためにはどうすればいいかを考えるべきだが、大学ではそんなことを一切学んでこなかった。

今考えれば大学生の時間があるうちに教材を研究していればと思うが、時間があれば遊びに使ってしまうのが大学生だ。先のことなんて考えてはいない。子供達が夏休みの宿題を後回しにして後半痛い目を見るのと一緒だ。

「阿部って大学生の時教材研究とかしてた?」

「なんだよ突然。してないに決まってるだろ。」

少し笑いながら答える。周りに先輩の教員がいるのになんかに笑いながら答える阿部に少しヒヤヒヤしたが周りもそんなに気にしてはない。おそらくみんな一緒なのだろう。

「だよな。」

そう答える自分にも自然と笑みがこぼれる。みんなと一緒なことに安心したことから出た笑みだった。人間は下と横を見て安心するのだと改めて思う。

「あの頃しておけばよかったなんて思うけどさ、どうせあの頃に戻ったってまた遊ぶだけだぞ。」

この阿部という男は普段から能天気な性格だがたまにこちらが考えていることを見透かしてくる。

「そんなこと考えてたって今が変わるわけでもないし、それより華金なんだからここはパーっとのんでまた来週から頑張ろうぜ。」

「阿部の場合は華金でなくても毎日パーっとしてるだろ。」

「俺は1日のご褒美として飲んでるんだ。明日頑張ればまた美味しいビールが飲めるぞって思えば毎日頑張れるだろ?」

この毎日の激務をビールだけで乗り切れるのは無類の酒好きが単なるバカのどっちかだろう。こいつに限っては両方な気もするが…。

ともあれ、今日はいつもよりも飲みたい気分ではあった。たまには阿部を見習ってなんも考えずにパーっとするのも悪くはないだろう。

そう思っていた時、授業を終えた国語の山崎先生が自分の元へ訪ねてきた。

「さっきの授業中何かあったんですか?」

何も考えずパーっとやろうとしていた自分にまた考えなければならないことが増えてしまった。


名古屋にある白鳥中学校。2年3組の教室では5時間目の数学の授業が終わろうとしていた。そして、1人の生徒が涙を流していた。出席番号18番の田口真由だ。

彼女は授業の最後に出された問題に答えられなかったのだ。

その後片岡先生によって答えが書かれ、授業は終わったのだが、教室内は未だ騒然としていた。

「大丈夫だよ真由ちゃん。私だって分からなかったよ。」

「そうだよ、あの問題は難しかったよ。」

周りの女子たちが必死に励ましているが、かけていい言葉が見つからないのか自分もできないということを教えて安心させようとすることしかできないようだ。

「あんなことで泣くなんてな。」

「問題解けなかっただけだろ。」

そんな男子の声に励まし隊の女子たちが牙を向ける。

「そんなこと言ったらかわいそうでしょ!」

「中学生にもなってたかだか問題の一つ分からなかっただけで泣いてるのが悪いんだろ。」

2年3組の教室では男子対女子の抗争が繰り広げられる。

もちろん全員が参加してるわけではない。どうでもいいと言わんばかりに本を読む人や友達と談笑する人など様々だ。

だが、女子は群れで行動する生き物であるがゆえ、少数の男子に大人数で襲いかかる。

女子に目をつけられてしまっては仕方がない。こうなってしまったらもう後には引けない。少しのいざこざが大きくなっていってしまった。

クラスの中には涙する者もいた。

この抗争が鎮まるためには10分という時間はあまりにも短すぎる。あっという間に休み時間が終わり、6時間目の授業が始まるチャイムがなる。

チャイムがなってから少し経って国語の山崎先生が教室のドアを開ける。

そこに広がっていた光景はとても今から授業を受けようとする生徒の姿が見受けられない。

抗争の中心に多数の女子と少数の男子。10分経って鎮まるどころか勢いはどんどん増していく。

さっきまで我関せずとしていた生徒たちも、さすがにやばいと思ったのか鎮静化させようと試みるもその声はかき消されるだけだった。

「何があったの!?」

山崎先生は一旦場を鎮めるが、教室内はピリピリしている。

ひとまず落ち着いたので授業を始めるが、子供達の様子は心ここに在らずといった感じで無駄のように感じられる50分を送ることになった。

この50分間は山崎先生にとってとても長く感じられたようで、何回も腕時計で時間に確認していた。

しかし、時計の針は無情にも己のペースを崩すことなく淡々と時を刻んでいた。

この日の2年3組は他の教室に比べて時の流れが遅かったようだった。


例によって片岡は阿部と名古屋の栄に足を運んでいた。せっかく何にも考えずに酒を飲もうとしていた矢先に飛び込んできた山崎先生からの不安を煽る情報。

とてもビールの良い肴になるとは思えない。

「考えてたって仕方ないだろ。ほら飲め飲め。」

阿部はいつもの能天気全開で次の一杯を頼もうとしている。この男はどんなことがあろうと大気中の窒素をつまみに変えることができるだろう。

「ほら、こういうときは飲んで忘れちまった方が気が楽だぞ。」

飲んで忘れることを勧める男が果たして本当に明日を頑張るために酒を飲んでるのだろうか。そんな疑問が浮かぶが、珍しく阿部の意見を参考にして今日はとことん飲もうと決めた。

今思えばそんな男のいうことを参考にした自分が愚かだと思った。よほど心が弱っていたのだろうか。

ひどい頭痛によって目を覚ますと、いつものベッドだ。

しかし、昨日の記憶がほとんどない。完全に二日酔いだ。

痛みを我慢しながら考えを働かせると色々と最悪な状況が思い浮かんでくる。

一旦思い出せる範囲の記憶で状況を整理した。


金曜日はいろいろなことがあって落ち込んでいたところを同期の阿部に見つかり飲みに誘われる。おそらく落ち込んでいなくても誘われてはいただろうがここでは関係ないことだ。

学校での仕事を早めに切り上げ、栄の居酒屋に行った。そこで阿部に勧められてどんどん酒を飲んでいく。

そこからの記憶はさっきのベッドの上につながっていた。どうしても思い出せないので、仕方なく阿部に電話してみる。

どうにか、何も起こしていないようにと神頼みしながら阿部に電話をかけると3コールもしないつながった。

「おう、生きてたか。昨日やばかったぞ。」

こっちの心配を気にもしてないかのような不安を煽る発言に二日酔いとは別の理由で頭が痛む。

いや、でもこいつは能天気なくせに人の心はすぐ見透かしてくる。わざとこちらの不安を煽るような発言をしてるのではないか?そんな無駄な思考にまで頭痛は付きまとってくる。

「まったく記憶がないんだけど、なんかした?」

「急に店の中で号泣するもんだから周りの客とか店の人からすごい心配されてたぞ。」

生徒の涙が原因で悩んでいたことを忘れようとして酒を飲んだら自分の涙で周りを心配させるとは皮肉なものだ。

「お前の周りには涙で溢れてるな。」

こいつにはデリカシーというものがないのか。どこかの歌手が歌にしてそうなフレーズも今の場合は美しいものでもなんでもない。

「まあ、その場はなんとか俺が収めたけど、あの後ちゃんと家帰れたのか?」

「阿部が家まで送ってくれたんじゃないの?」

「可愛い女の子でもないお前を家まで送るわけないだろ。自分で帰れるって言ってたしその場で別れたよ。」

頭の中で最悪の事態がいくつも思い浮かんでくる。自分にとってマイナスなことはなぜこんなにも多く思い浮かぶのか。

月曜日に学校へ行くのが怖くなってきた。悩みがどんどん増えていく。阿部のいうことなんか聞くんじゃなかったと後悔するがもう遅い。

「まあ、過ぎたことはどうしようもないし、今日もパーっといくか?」

「行かねーよ!!」

月曜日までの時間は驚くほど短く感じた。


あっという間に来てしまった月曜日。重い足を運んで学校へ行くと嫌な予感は的中した。

「片岡先生、ちょっといいかな?」

教頭の緒方に呼ばれる。

心臓をキュッと握られた気がした。果たして何の用だろうか。良いことではないだろうとは直感ですが分かった。おそらく金曜日に何かしらやらかしたのだろう。問題は何をしてしまったかだ。場合によっては懲戒免職ということもあり得る。緊張しながら教頭についていく。

教頭の後をついて行き、会議室に連れていかれた。

そこへ入ると、2人の姿が見えた。1人は自分も知っている人物。そこには田口真由が座っていた。

そして、もう1人の女性は見たことはないが2人並んだ姿を見るとどこか似ている。おそらく母親だろうと理解した。

と、同時にヒヤリとした。学校に親が来るということは大抵良いことはない。

その予想を後押しするかのように母親と思しき人物はこちらに強い眼差しを向けている。

「どうしてくれるんですか!?」

女性が声を荒げてこちらに問いただす。

どうしてくれるか?と聞かれてもどうして良いかわからない。状況からしてこちらが何か悪いことをしたのは明白だが、どうされたんですか?と聞ける状況ではない。

教頭は女性に頭を下げ、事情を説明し始めた。

「まず、こちらが田口真由さんの母親の田口理解さんです。先週の金曜日の数学の時間に田口さんが泣いてしまったことは覚えていますか?」

「はい…。」

「その後に一部の男子が田口さんを馬鹿にするような発言があったそうです。その発言に田口さんが心を傷つけられたそうです。」

「そうだったんですか。」

「そうだったんですかって、あなた他人事ですか!?」

「いや、そういうわけではないんですけど…」

「あなたのせいなんですよ!?」

頭の中に?が浮かぶ。

「あなたがうちの子に当てたからこの子は泣いて男子にバカにされたんですよ!」

あまりに話が飛び過ぎて理解が追いつかないでいると、追い討ちをかけるように言葉のマシンガンが打ち込まれる。

隣の田口真由の姿を見ると俯いたままなにやらボソボソとつぶやいているように見えた。

しかし、ここからでは何を言っているかは聞き取れなかった。隣の母親は自分の声で娘の声は入ってこないようだ。

「そもそも、わかるなんて一言も言っていない生徒に勝手に当てて答えさせるなんて非常識じゃないですか?」

「いや、僕は田口さんなら分かるだろうと思って答えてもらおうとしたんですけど…」

「あなたの教え方が悪いからうちの子も分からなかったんでしょ!つまらない授業でもしてるんじゃないの?あなたみたいな人にうちの子の才能の芽を潰されたくありません!違う人に教えてもらいたいです!」

まさに自分が思っていたことだったので言い返す言葉もなかったが、素人に言われると癪に触る。

そんな気持ちを押し殺し、さあませんと深々と頭を下げるほかなかった。

それで気がすむわけもなく、こいつに言っても無駄だと思ったのだろうか今度は教頭に矛先が向けられた。

教頭も頭を下げることしかできず、何回も同じことを言われる時間は30分ほどであったが、すでに一週間の仕事をしたかのような疲労感に襲われた。

なんとか怒りを鎮めてもらい、お帰りになってもらうことになったが、会議室を出るとき小さい声で田口の口から

「ごめんなさい。」

と言われた。

その瞳からは涙がつたっていた、


自分のミスで教頭まで巻き込んでしまい、申し訳なさを感じた私は教頭の元へ行き、

「すいませんでした。」

と詫びを入れた。

「仕方のないことです。このようなこともあるので、一つ一つの言動には最新の注意を払っていってください。あと、授業のことについてはこれからしっかり考えていって、良い授業ができるようにしていってください。」

教頭はそういうと、さっさと自分のデスクに行ってしまった。

週明け早々悩ませることが起こってしまった。

二日酔いはとっくに治ったというのに頭痛は前にもましてひどくなっているように感じる。

「大変なことになっちまったな。」

相も変わらず人が落ち込んでいるときにずかずかとプライベートスペースに入り込んでくるのはあいつしかいない。

「考えても仕方ないと思っていたけど、考えなきゃいけないことになってしまったよ。」

「まあまあ、落ち込んでても解決はしないぞ。こういうときはあれしかないだろ?」

こいつは酒以外で人を励まさないのかと呆れつつ、適当にあしらって教室に向かう。

教室に入るといつもと同じように連絡事項を話して1時間目の授業に移る。

田口はさっき見せた涙はもうなく、何事もなかったかのように話を聞いていた。

月曜日の1時間目はよりにもよって数学の授業だ。

さっきあんなことがあってすぐの授業は全く身が入らない。

生徒達はいつも通り身が入っていない様子だった。

ただ、1人集中した眼差しをこちらに向ける生徒がいた。田口真由だった。

自分の拙い授業のせいであんな目にあったのに集中して聞いてくれるのはありがたいが、心が苦しくもなる。

先週の反省を生かし、今日は問題を生徒に当てることはせずに、そのまま授業を終わらせた。

授業が終わると田口が自分の元へ来た。

「なんで今日は問題当てなかったんですか?」

「いや、なんでって言われても…」

「私は別に傷ついてなんかいませんよ。」

「え?」

「先生は私の涙の理由がわかってないでしょ?」

そういうと彼女は教室へ戻っていった。

「涙の理由…」

そのとき初めて自分は授業のことだけ反省していて田口の気持ちを考えてなかったと思い知らされた。


「なあ、阿部。今日飲みに行かないか?」

授業を終え職員室に行くと早々に阿部の元へ行ってたずねた。

「お前から誘ってくるなんて珍しいな。何か企んでるな?」

誘ってくるなんて微塵も思っていなかったのだろう。びっくりしたと同時に疑いの目を向ける。

「いや、色々と聞きたいことあってさ。」

「やっとお前もわかるようになったか。酒の場ってのは仕事の延長線上みたいなもんだぞ。」

阿部のいうことはよく分からなかったがご機嫌そうだったのでそのまま聞き入れた。このままいけば奢ってくれるかもしれないなと淡い期待を抱いたが

「最近飲みすぎて金あんまないからよろしくな。」

こいつはやはり人の心を見透かす能力に長けているようだ。

仕事を終えるといつもの栄の居酒屋に来ていた。

店の人はこの前のことを覚えていたらしく、

「大丈夫でした?」

と聞いてくる。

恥ずかしさと申し訳なさに軽く謝罪したあとそそくさと席に着いた。

「じゃあ、初片岡からの飲みの誘いにかんぱーい。」

2人しかいないテーブルでは忘年会かの如く盛大な乾杯がされた。

これ以上この店で恥を増やしたくはなかったが、連れてくる相手がこの男では無理な話だろう。

むしろ恥をかく店がこの店だけにしてあげるというプラスの方向に考えておこう。

「それで、聞きたいことってなんだよ?」

ただの酒好きかと思っていたが、目的を覚えていて少し驚く。

「阿部ってさ、どういうときに涙流す?」

突然の質問に阿部は少しビールを吹き出した。

「いきなりなんだよ。お前そんなこと聞くようなやつだったんだな。」

「良いから早く答えろよ。」

聞いといて自分でも恥ずかしくなってくる。

少し考えてから阿部は口を開いた。

「酒飲んでベロベロになったら号泣したりするんじゃないか?」

料理を運んできた店員が必死に笑いをこらえている。

「真面目に答えろよ。」

「わりぃわりぃ。でもその質問は答えるのが難しいな。泣く理由なんて人それぞれだ。」

「やっぱそうだよなぁ…」

「お前、田口がなんで泣いたかを考えてるんだろ?」

少しニヤニヤしながら聞いてきた。田口の一件は母親が学校に乗り込んできたこともあり、職員の間には広まっていた。

しかし、やはりこちらの考えてることを見透かす阿部には油断ならない。

「今日授業の後に田口に言われたんだよ。先生は私の涙の理由がわからないでしょ?って。それ聞いて俺はずっと授業の反省しかしてなくて田口のこと考えてなかったんだって思い知らされたんだよ。」

「ようやく考えるスタートラインに立ったってわけか。」

考えたって仕方ないと言ってたやつが調子のいいことだ。

「やっぱり恥ずかしかったから泣いたのかな…?」

「田口ってそういう子なのか?」

「いや、気丈な優等生って感じだと思ってた。だから泣き出したときビックリしたんだよ。」

「悔しくて泣いたんじゃないか?」

「悔しい?」

「普段から勉強もできるんだろ?解けなかったことが悔しかったとかじゃね?できる人ってなんかプライド高いイメージあるし。」

田口がプライド高いかどうかは知らないが、阿部の言ってることは納得がいってしまった。

「どうしても気になるなら本人に聞いてみたらどうだ?」

いつもはテキトーなこと言ってるやつがたまに親身に相談に乗ってくれると普段の行いが帳消しになるかの如く印象が上書きされていく。

今の自分には阿部という男は信頼できる男という印象に書き換えられていた。


火曜日になり、またいつものように1日が進んでいく。

唯一いつもと違うことといえば阿部への評価だろうか。

昨日飲んでから自分の中で阿部の株が急激に上がっている。こんな簡単に変わってしまうものかと自分でも驚くほどだ。きっとダメな男に引っかかる女はこういうことなんだろう。

「よう、昨日の記憶はちゃんとあるか?」

いつもの調子で阿部が話しかけてくる。

「あんなに真面目な話をして記憶なくしてたら流石に阿部相手でも申し訳ないな。」

「まあ、俺は寛大な心の持ち主だからな。俺はそう簡単に怒らないから安心しろ。」

この能天気な男には皮肉もポジティブに変換されてしまうらしい。こいつほど楽に生きてるやつはいないだろうと皮肉と感心の半々の感情が芽生える。どうせこれを口にしても感心の方の意味しか捉えられないだろうから敢えていうことはやめておこう。

「それよりどうするんだ?本人に聞くのか?」

「まだ決めてない。」

「そんなうじうじしててもなんも変わんないぞ。」

デリカシーのない阿部でない限りそんな簡単なかけることではないだろう。

結局決心できないまま教室へと向かった。


何事もなく1日の授業を終えて、職員室に向かう途中、

「あ、片岡先生。ちょうど先生のところに行こうと思ってたんです。」

田口に声をかけられた。

「何の用?」

「え?先生が私に用があるって阿部先生から言われたんですけど…」

「あの野郎…」

「なんか言いました?」

「あ、いやなんでもない。」

昨日上がった株は見事に大暴落をした。

「用ってなんですか?」

「いや、その…」

こんな状況になっては仕方がない。腹をくくって例の話題を切り出した。

「昨日行ってた涙の理由なんだけど、その…、解けなかったのが悔しかったから…とか?」

いきなりの話題に驚くかと思ったが、驚く様子は一切見せない。

それどころか、その話題を待ってましたと言わんばかりの顔をこちらに向けている。

「分かってたんですか?それとも阿部先生のおかげですか?」

ここにも人の心を見透かす人がいたか。おそらく嘘をついても見抜かれるだろうと踏んだ自分は

「阿部先生がそうじゃないか?って言ってたんだよ。気づかなかった自分が恥ずかしいね。」

と言って田口の顔を伺う。人は自分に都合が悪い場面では嘘をつくか自分を下げるかしてどうにか自分を守ろうとする。教師として後者を選んだのはまだメンツが保たれる行動であっただろう。

「その通りです。解けなかったのが悔しかったんです。それに、お母さんは勝手に当てるのが非常識だとか、私がバカにされて傷ついてるとか言ってたけど、私はそんなこと思ってなかったんです。」

「そうだったんだ…」

「いつもは先生の授業を集中して聞いてたんですけど、たまたまあの日は前日の夜に遅くまで本を読んじゃってて、授業中睡魔に襲われて…。それでわからなかったんです。」

「それは楽しくない授業をしてしまったこちらにも責任があるよ。」

「そんなことないですよ。それに、隣でお母さんが先生にあんなこと言ってるのに私は自分の思ってることを口にすることもできなかった。それも悔しくって…」

「先生なことは心配しなくてもいいよ。でも、クラスのみんなはまだこのことを知らないよね?」

「はい…。私のせいでクラスのみんながギクシャクしちゃって…。私が泣いたせいで…。」

「泣いたっていいんだよ。先生だって泣くんだから。」

「え?」

「いや、先生の場合は酔っ払って店で泣き出しただけなんだけど。」

自分からこのことを話すことになるとは。近くで阿部が聞いていたら後で笑われるだろうと心配したが幸いなことに近くにはいなかった。

「誰だって泣くことはある。でも、ただ泣くだけじゃその人の考えてることはわからない。だからみんなに知ってもらおう。」

「でも、どうやって?」

「授業をしよう。」


こうして、2年3組で涙の授業をすることになった。教科は道徳。実際にクラスで起こったことを元に授業をするので授業にもしやすいだろうという考えでやろうとなったはいいものの、いざ授業を考えてみると難しい。

なぜなら、どこに着地させればいいかわからないからだ。この授業を通して何を伝えればいいのだろうか。そもそも涙について考えると言っても要は人間の感情だ。クラスのみんなで一つの意見にまとめるとあうのは無理な話だろう。

どうしたものかと頭を抱えていると、

「今度はどんな考え事だ?」

と、まるで俺の出番だなと言わんばかりの表情で能天気野郎が声をかけてきた。

勝手に田口と話す機会をセッティングした罪は自分の中で大きく、大暴落した株は心の中で能天気野郎と呼ぶくらいにまで下がっていた。

「お前のせいでまた考え事が増えたよ。」

「っていうことは、田口に話したんだな?」

「言わざるを得ない環境だったんだよ。」

まさに俺のおかげだなという顔をしている。"お前のせいで"と言ったのが聞こえなかったのだろうか…。

「じゃあ、問題解決じゃないか。」

「田口だけはな。そのことでもめたクラスの方はまだ解決していない。」

「あー、そっちもあったか。」

「それで、道徳の時間に涙の授業をするって言っちゃったんだよ。」

「涙の授業ってなに?」

「それが今頭を抱えている原因のものだよ。言ったはいいけどなにをすればいいのか…。」

「そういうときはあそこだな?」

何かにつけて飲みに行こうとするが、最近飲みに行くことがありになっている自分がいた。


悩んでいるときに来る定番の場所となったこの居酒屋も、こんなに頻繁に来ればしっかり顔を覚えられていた。

当然、先週の金曜のことがあるからだろう。そのとき店にいたらしい人がビールを持って来る際に

「あの日大丈夫でした?」

と声をかけてきた。

「すいません、お騒がせしました。」

「大丈夫ですよ。たまには自分の感情を吐き出すのも大事です。」

そう言い残すと、別のテーブルへ注文を取りに行った。

「自分の感情を吐き出すか…。」

「あの店員いいこと言うなー。俺も今日は自分の感情吐き出しちゃおうかな。」

いったいこの男にこれ以上吐き出す感情があるのだろうか…。

しかし、自分の感情を吐き出すと言う言葉は自分の中でも気に入った。

やはり悩んだときはこの店に来るものだなと改めて思う。

「こちらお店からのサービスです。」

先ほどの店員がだし巻き卵を持ってきた。

「すいません、ありがとうございます。」

まさに迷惑をかけたのにサービスまでしてもらって、なんていい店なんだ。

「やっぱ今日もここにきてよかったな。」

いつになく調子に乗った顔はアルコールのせいもあるのだろう。

だが、サービスのだし巻き卵以上に収穫があった。きっと今は目の前にいる男よりも調子に乗った顔をしてしまっているだろう。

道徳の授業は木曜の5時間目。まだ明日も時間はあるので明日またゆっくり考えることとしよう。

いつもより上機嫌になった自分の姿を見て喜んだのか阿部は

「今日は俺が払ったるわ。」

と大口を叩いた。

「昨日金ないから奢ってくれって言ってなかったか?」

「お前のために貯金崩して払ってやるって言ってんだよ。素直に感謝しろ。」

まあ、勝手に貯金を崩して奢るって言ってるわけだが、ここは素直に感謝しといたほうが得だろう。

会計を済ませた後、しっかりとした足取りで2人とも帰路につくのであった。


木曜日の2年3組の5時間目の道徳の授業。この時間のために昨日は阿部の誘いにものらずに家でしっかりと授業案を考えてきた。

悩んでいたこの授業を通して教えたいことは考えてはいない。行きつけになった居酒屋の店員の言葉を思い出していたのだ。

"感情を吐き出す"

この授業では答えなんか出なくていい。みんなに感情を思いっきり出してもらおう。

迎えた道徳の時間。日直が号令をかけて授業が始まる。

「突然ですが、みなさんはどんなときに涙を流しますか?」

生徒たちは急な質問に戸惑いを見せる。数人の男子たちが田口の方を見ている。

その視線に気づいた女子たちが睨みを利かせている。

そして、ある1人の女子が

「自分の失敗を馬鹿にされたら泣くと思います。」

と牽制のジャブを繰り出した。

すると、ジャブを食らった男子は

「誰かを大人数で攻め立てたらその人は泣いちゃうんじゃないかと思います。」

と、カウンターパンチを繰り出す。

教室内は殺伐としていた。抗争の中にいなかった生徒たちは空気に耐えられないのか下を向いている。

田口の顔を一瞥するが、悔しそうな表情を浮かべている。また自分の意見が言えないことに対する悔しさだろうか?

しかし、そんな心配も殺伐とした空気も全てを壊すようにまっすぐ手が挙げられた。

「はい、田口さん。」

クラス中の視線が田口に向けられる。

「私は、悔しいときに涙を流すと思います。ちゃんと授業を聞いていれば答えられた問題に答えられなかった時。自分のせいでクラスが揉めてるときに傷ついてないよ、大丈夫って言えなかった時。親が違うことを言っているのに違うよと言えなかった時。そんな時私は涙を流します。」

教室に沈黙が続く。束の間の沈黙もこの2年3組の教室にいる誰もが長く感じたことだろう。

そして、その沈黙を切り裂くように1人が手を挙げる。抗争の中にいなかった先ほど下を向いていた人のうちの1人だ。

「私は友達が傷つけあってるのを見ると涙が出てきます。私はクラスのみんなが大好きなので、仲良くしたい欲しいなって思っています。」

そう言って着席すると同時に涙を流した。

今のクラスに深く突き刺さる一言だった。

他の数人も涙を流し始めたが、何も言わずとも涙の理由はクラスのうちに共有されていた。

「みんなが言った通り、悔しい時、悲しい時、辛い時、嬉しい時、寂しい時、痛い時、楽しい時、感動した時、いろんなときに涙を流すと思います。」

教室からはすすり泣く声が所々から聞こえる。

「じゃあ、次の質問です。泣くことは悪い事でしょうか?」

意見を言うものは誰もいなかったが、生徒一人一人の目を見ていくと全員が同じ意見を持っているようだった。

「涙って感情を表すものだと思うんだよね。感情は吐き出した方がいいんだ。でも、涙を見ただけじゃ何を思っているのかまでは伝わらない。だから、その想いに言葉を乗せて、きちんと相手に伝えることが大切なんだと思うんだ。今こうしてみんなは自分の意見を涙に乗せて先生に伝えてくれました。でも、本当に伝えるべき人は先生ではないとみんな分かっているはずです。涙も言いたいことも溜めておかないで吐き出していけるようなクラスにしていきたいなと先生は思ってます。みんなならできると信じてます。勇気のいることだけれど、思っていることを吐き出していってください。」

この授業に答えはいらない。答えは生徒一人一人が見つけてくれるだろう。この授業は自分にとっても学びの深いものであった。生徒たちにたくさん学ばせてもらった。

そう、やりきった思いが溢れてくると同時にチャイムがなる。

号令がかかり教室を出ると阿部が立っていた。

「なかなかいい授業だったじゃねーか。」

「みてたのか?」

「丁度授業なかったからな。やっぱ俺があの居酒屋に誘ったからこその賜物だな。」

せっかくの感動的な雰囲気もこいつがいては台無しだ。さっさと職員室に連れていくことにしよう。


職員室に戻ると、

「授業もうまくいったことだし、今日もいくか?」

やはりなと呆れる顔を見て阿部はさらに続ける。

「あの店員に感謝しないといけないだろ?感謝の気持ちを表すには店に行くことだ。」

それはあくまでも自分がいく理由であってこいつがいく理由にはならない。

要は飲みに行きたいだけだろう。

「しょうがない、阿部のおごりならいってあげてもいいぞ。」

「おいおい、また貯金崩さなきゃいけないじゃねーか。」

そう言いつつも表情はニコニコしている。どうやら今日もあの店に行くことになりそうだ。

ただ、道徳の授業がうまく行っても明日も数学の授業がある。当初からの目標である楽しくてわかりやすい授業を考えなくては。

教科書を開いて頭を悩ませていると、授業を終えた山崎先生が自分の元へ来る。

「さっきの授業で何かあったんですか?」

「え?」

一瞬ヒヤッとする。あのあと何か起こったのか?色々最悪を想像する。

「生徒がみんな涙流してたんですよ。」

「そうですか…。」

「でも、みんな生き生きした顔してました。どんな授業したんですか?」

ほっと胸をなでおろす。

すると、話を聞いていた阿部が

「知りたいですか?」

と会話に入ってくる。

「なんで阿部先生が知ってるの?」

「全ての答えが栄の居酒屋にありますよ。」

「どういうこと?」

疑問の目は阿部ではなくこちらに向けられた。

すかさず阿部が捕捉する。

「居酒屋に行けば全てがわかりますよ。山崎先生も今日どうですか?」

「他に誰か行くの?」

「おかやまも一緒に行きますよ。」

本当かしら?といった目を向けられたため小さく頷く。

「たまには飲みに行くのもいいかもしれないわね。」

「さすが山崎先生ですね。じゃあ、山崎先生のおごりってことでごちそうさまです。」

「もう、仕方ないわね。」

安堵の息を漏らす阿部を見て内心奢るといったことを後悔していたのだろう。うまく山崎先生に擦りつけたなとおもいつつ、一つ阿部に貸しが出来たなと思った。

仕事が終わり、いつもの店に着くとまるで自分の武勇伝かのように阿部が山崎先生に語り出した。

金曜日の5時間目。いつものように対して上手くもない数学の授業をしていた。

ところがいつもと違う点があった。生徒がみんなしっかりと話を聞いている。

授業は上手くなっている実感はない。みんなの意識が変わったのだろう。とてもありがたいことだ。生徒たちの意識が変わって自分の授業力が変わらないのは示しがつかない。頑張らないとな。そんな考えを持ちつつ、いつものようにみんなが理解できてるか問題を出して確かめる。

「じゃあ、この問題を解いてもらおう。」

1人の生徒が自信満々で私に当ててくれと行った視線を送ってくる。

「田口さん解いてもらおうかな。」

自信満々な彼女は模範解答を黒板に書いていく。

「正解です。ありがとう。」

席に着く彼女の表情は今まで見たことない輝きを放っていた。

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