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第三十八話 近江屋の茶会

 七月二十九日。江戸の装いが夏から秋に次第に変わってくる頃の話。小石川の行元寺で札差の近江屋主催の大きな茶会が開かれた。出席者は百五十人以上。芸者をあげての派手なものだった。

 虎之助も下男として、火を(おこ)したり、薪、炭、水などを運ぶ仕事をしたりしていた。

 茶会の客の膳を下げた時に、裏方を仕切る番頭に呼ばれた。

「虎之助さん、膳を下げたら日和下駄を探してくれ。漆塗りに、真っ赤な鼻緒の奴だ。満月と兎が描いてある、月読さんの日和下駄だよ」


「へえ、わかりやした」と返事をして、履物が並べてある場所に行く。

 該当する下駄を探すが、それらしい日和下駄はない。

「日和下駄がありやせん」と報告すると番頭が困った顔をする。

「派手な日和下駄だから、他人が間違えるはずはないんだよな。誰かが持っていっちまったのかな」

 番頭は弱った顔で去っていった。


「おい、そこの大きい人、湯を沸かしてくれ」

「へえ」次の仕事が言い渡されたので、汁器を洗うための湯を沸かしに戻る。

 そのうち宴も終わりとなり、お客が帰っていく。お客は帰る時に、近江屋の主人の忠右衛門が帰りの客に簡単に挨拶をする。


 忠右衛門の身の丈は五尺三寸(約百六十㎝)で線は細い。紺の紬を着た三十男で、髪は垂れ髪をしており、髷は結っておらず、顔付きは優しい。

 黒い生地に蝶をあしらった着物を着た芸者が、忠右衛門の元にやってくる。芸者は身の丈は忠右衛門と変わらないので高く、大きめの島田髪を結っている。顔も大人びており、きりっとした表情をしていた。

「えらく綺麗な芸者さんだな」


 近くにいた、年を取った下男が教えてくれた。

「あれかい。あれは月読さんだよ。旦那が贔屓(ひいき)にしている芸者だよ」

 月読が忠右衛門に悔しそうな顔で詫びる。

「ごめんよ。近江屋の旦那。せっかく買ってもらった高価な日和下駄。誰かに持っていかれちまったよ」


 忠右衛門は笑顔で宥める。

「客を多く呼びすぎたかねえ。ちょいと、悪戯坊主が混じったようだ。今日は店の者に代わりの草履を用意させたから、それでお帰り。日和下駄は、また買ってあげるから」

 月読が知性を滲ませつつも、媚びた調子で語る。

「もう、そんなことより、またお座敷に呼んでおくれよ。近江屋の旦那が呼んでくれないと寂しくて泣きそうだよ」


「よし、よし、また呼んであげるよ」

 月読は御付の禿(かむろ)を伴って帰って行った。

 忠右衛門が他の客が挨拶していると、今度は赤い着物に紫陽花の花をあしらった着物を着た芸者がやってくる。

 こっち月読と違い幼さがまだ残る顔をしており、身の丈も五尺と月読より少し低い。島田髷も小さめに結われていた。


 忠右衛門が芸者を見て、やんわりとした顔で声を懸ける。

「星姫も今日は楽しかったかい」

 星姫は甘えるような顔で、柔らかな物腰で語る。

「私は、こういう大勢の人が出ている席より、若旦那と二人っきりの席がいいな」


 忠右衛門はうんうんと頷き笑って答える。

「そうかい、じゃあ今度、またお座敷に呼んであげるよ」

 星姫は顔を輝かせて頼んだ。

「ねえ、近江屋の旦那。わたしもお強請(ねだ)りしてもいい」


「怖いねえ。なにをお強請りするつもりだい」

「わたしも、日和下駄がほしい。月読の姉さんより高いのがいいな」


「覚えておくよ、そのうちね」

 星姫は忠右衛門の答を聞くと、気分もよさそうに帰っていく。

(安い物でもないだろうに、金持ちだね。近江屋の旦那。もっとも、近江屋の旦那のような人が金を使ってくれないと、俺らにも回ってこないからな)


 手間賃に二百文を払ってもらって、長屋に帰る。昼に働いたので夜は休んだ。

 次の日はコハダ鮨を作って、地下御殿に売りに行く。

 コハダ鮨を売り歩いていると、胡蝶が現れる。

「胡蝶さん、今日はコハダ鮨があるぜえ。買っていくけえ」


 胡蝶が少しばかり弱った顔で切り出した。

「コハダ鮨は全て買うから、ちょいと簡単な頼みを引き受けてくれよ」

「簡単な頼みねえ。話は聞いてからだな」


「日和下駄を地上に持って帰っておくれよ。あとは持ち主に返すなり、どこかに売るなり勝手にしてくれていいから」

(これまた、変わった頼みだな)

「いいぜ、それは、どんな日和下駄なんでぇ」


「なら、従いておいで」と胡蝶は命じる。

 胡蝶に従いて堀端に行く。身の丈五尺で着物を着て泣いている日和下駄の妖怪がいた。

 胡蝶が困った顔で囁く。

「昨日からずっと泣いているのさ、辛気(しんき)臭くて堪らないよ」


 日和下駄は合わさった状態で着物に包まれて泣いていた。

 胡蝶が日和下駄の妖怪に告げる。

「ほら、満月。お前を地上に持って帰ってくれる人間を連れてきたよ」

 満月にはお多福のような顔が付いていていた。

「わっちを、地上に戻してくれるのけえ」

(日和下駄は満月って名前けえ)


「ああ、いいぜ。俺が地上に連れて帰ってやる。そんで、どこに行きたいんでえ」

「できれば、月読のところに帰りたい」


「あんた、もしかして、月読さんが失くした日和下駄が妖怪化したものけえ」

 胡蝶がうんざりした顔で告げる。

「そうだよ。大切にされなかった物が地下御殿の気に当てられると、化けて出るんだよ」


「大切にされなかったって、月読さんの日和下駄は誰かが持っていっちまったんだよ」

 満月が首を横に振る。

「違うよ。月読はわっちを禿に命じて捨てさせたのさ」


「なんでえ、そんなもったいねえ真似を、あんたを売れば、一朱や二朱にはなる下駄だろう」

「元は三両の日和下駄だよ」とむっとした顔で満月が言い直す。


「それにしても、もったいねえ。三両を捨てるなんて信じられねえぜ」

 胡蝶が渋い顔で告げる。

「私にはわかるね。その月読って女。三両の日和下駄を捨てることで、それ以上の日和下駄をまた買ってもらえるか、男を試したんだろう」


「俺には、わからねえな。俺が三両の日和下駄を贈った男なら、いつまでも大事にしていてもらったほうが嬉しいけどなあ」

 胡蝶が冷めた顔で告げる。

「男女の駆け引きの機微は、虎之助にはわからないかね」


「そうかねえ」と満月を見ると、満月も曇った表情で頷く。

「月読は星姫と近江屋の旦那を取り合っているから、負けたくないのさ。どっちが、より高価な物を買ってもらえるかで、愛情を計っているのよ」

「そんな馬鹿な真似していたら、地下御殿で妖怪化して、泣く妖怪が増えるだろう」


 胡蝶がうんざりした顔で説明する。

「値が張るも物ほど、職人の気が籠もっている傾向にある。そんな職人の気と地下御殿の気は相性が良くてね、妖怪化がすぐに進むのさあ」

「まいったね、そりゃ。でも、意地の張り合いは、どっちかが折れるしかねえ。でも、どっちも折れねえとなると、どうなるか、わかりゃしねえな」


 満月はぽんと音を立てると、一足の汚れた日和下駄になった。

 虎之助は地上に帰ると、日和下駄を綺麗に洗ってその日は眠る。


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