第三十五話 火付けの現場
江戸の町に戻ってくると、まだ夜四ツ前だった。
尾張徳川家下屋敷から長屋に帰ろうとすると、提灯を持ち、手拭を被った男とすれ違った。
そのまま歩いて行くと、三十歩ほど後ろを、前の男を尾けるようにして歩いて行く男がいた
(なんでぃ、ちょいと気になるねえ)
虎之助は迷ったが、追跡している男の後を尾ける。
夜も暗いこともあり、角を曲がって四辻の辺りで人を見失った。
(あれ、見失っちまったか)
男たちがどっちに行ったかわからなくなったので、帰ろうとする。
何かが焼ける匂いがする。天秤棒を投げ捨て走り出すと、角を曲がった場所が明るくなっていた。
炎に照らされて、一人の男が浮かび上がる。男の身長は五尺五寸(約百六十五㎝)で痩せ型。服装は町人の格好をしていた。顔は手拭で見えなかったが、男は板塀に着いた炎を前にしていた。
「火事だー」と虎之助は叫んだ。
虎之助の声を聞いて男が、虎之助がいる場所と反対方向に逃げ出す。
虎之助は男を追うことより、まだ小さい火を消そうとした。
「天水桶、天水桶はどこだ」
辺りを見回すと、半町ほど離れた場所に天水桶があった。
男が逃げた方角から、「待て」と声がする。暗い通路の先で争う物音がする。
(なんだ、助けに行ったほうがいいのか。でも、火を消さないと大事になる)
虎之助は、水が一杯に入った天水桶を持って、走りながら叫ぶ。
「誰か、誰か、来てくれ。火事だ。火事だ」
すぐに、商家から人が飛び出してきて天水桶へと走っていく。
「水だ、天水桶の水を使え」と消火活動を始める。
火を消す人間が現れたので、虎之助は争う音がした闇に駆け出す。
暗闇の通路に一人の男が伸びていた。男の身長は五尺(約百五十㎝)と小さく小柄な体をしていた。
顔は丸顔で少々窶れており、髪は小さな本多髷を結っていた。
服装は黄八丈の着流しに黒い羽織を身に着けており、腰には二本の刀を差していた。
「大丈夫ですけえ。お武家さん」
虎之助が男を起こすと、武士は気を取り直す。
「ああ、すまねえ、弥彦の奴を逃がしちまったか」
(弥彦、火付けの犯人は弥彦っていうのけえ)
武士が真剣な顔で頼む。
「拙者は柿崎忠助と申す。火付盗賊改方の同心だ。すまぬが、番所まで走って、火付けを知らせてきてくれ」
「わかりやした」と虎之助は走って番所まで行く。番所は九尺二間(間口二・七m、奥行き三・六m)の小さな建物だった。入口の腰高障子を開けて、中にいた二人の番人に声を掛ける。
「火付だ。火付盗賊改方の同心の柿崎忠助様が助けを求めている」
「わかった。すぐに市中を見回っている他の火付盗賊改方にも連絡する」
番人の一人が駆けていった。残りの番人と現場に戻ると、火は大きくなかったので消し止められていた。仕事が終わったと思ったので、天秤棒を担いで長屋に帰った。
今日は仕事を一晩、休もうかと考えていると、御隠居が武士と一緒にやってきた。
武士の身長は五尺七寸(約百七十㎝)と高く、がっしりとした体格をしていた。年は三十過ぎで、綺麗な本多髷を結っていた。服装は黒い羽織に、灰色の平袴を穿き、雪駄を履いていた。武士の背筋がぴんと伸びて、顔も凛々しく精悍な印象を受けた。
(はて、この立派なお武家は誰でい)
御隠居が虎之助に尋ねる。
「虎之助や昨日、火付の現場を見たんだって。そのことで、火付盗賊改方与力の村上様が話を聞きたいそうだ」
「へえ、暗がりの中、炎を前にした男を見やした」
ご隠居が人相書きを差し出す。
「その男とは、この男か」
人相書きには銀杏髷を結った、目つきの険しい若い男が描かれていた。
「手拭で顔を隠していたので、顔はよく見えやせんでした」
侍と御隠居が顔を見合わせる。村上が尋ねる。
「本当に顔は見ておらぬのか?」
「へえ、本当でさあ、それが何か」
村上が難しい顔をする。
「柿崎は犯人の顔を見たと申告している」
「それは、おかしいですね。あの暗がりで、手拭をしていたら、顔は見えねえ」
御隠居が腕組みして意見する。
「刀で切りかかった時に手拭が切れた。ないしは、格闘になった時に手拭が外れたとは考えられねえかい」
虎之助は現場を思い返すが、落ちている手拭を見た記憶はない。
「現場に手拭なんて落ちていやせんでしたぜ。柿崎さんも、手拭を手にしていやせんでした。それに、柿崎さんは刀を抜かずに倒れていましたぜ」
村上が考え込む。
「ふむ、柿崎の話とは細部が違うな」
御隠居が帰る時に虎之助に声を掛ける。
「伊勢屋の羊羹を買ったから、ご馳走するよ。従いておいで」
村上とは長屋の前で別れてから、御隠居の家に行く。
御隠居は座敷に虎之助を上げると、尋ねる。
「人間の火付けの犯人の調べは進んでいる。妖怪のほうは、どうでえ?」
「へえ、妖怪の世界でも火付けは火炙り。それで、調べを進めていますが、舞火なる妖狐が怪しいとわかってきやした」
「そうか。人間と妖怪、どちらの仕業にしても、火付けは止めないとね。火事は、惨事に繋がるからねえ」




