第三十四話 狐火の舞火
七月二十日。その日は夜四ツ前に鮨が完売したので、長屋に帰ってきていた。寝ようとすると、火事を知らせる鐘の音がした。家の外に出て音のした方角を見るが火の手は上がっていない。
「音からするとだいぶ近いようだが、伝通院の方角だな」
見にいこうかと思ったが、そろそろ夜四ツの鐘が鳴る。
(木戸が閉まって動けなくなったら、間抜けすぎらあ)
虎之助はそのまま寝た。
翌朝、コハダ鮨を作っていると、御隠居がやってきた。
「虎之助や、ちと話がある。手が空いたら、家に来ておくれ」
「へい、わかりやした」
コハダ鮨の仕込を終えて御隠居の家に行くと、座敷に通された。
「虎之助や。ここ最近、夜に不審火が多発している話は、知っているけえ」
「すいやせん。夜はほとんど地下御殿なので、知りやせんでした」
「そうだろうと思ったよ。どうも、その、不審火なんだがね。付近で人がいないのに火が灯る。狐火を見たという人間が、何人もおるんだよ」
「まさか、妖怪が御府内に火を付けようとしているんですか」
「妖怪の仕業だとは思えないが、最初からこうだ、と決め付けて調べを進めると、事件を見誤る危険がある。一つ、調べてみちゃくれないか」
「わかりやした。同じ市谷に住む者としちゃ、黙っちゃいられねえ。調べてみます」
夜になると、屋台を担いで地下御殿に下りていく。客に狐の妖怪がいたので尋ねる。
「最近、市谷で狐火が出るって聞いたんだが、詳しい事情を知る奴は、いねえか」
狐の妖怪が機嫌よく教えてくれる。
「それなら、稲荷番に聞いたらいい。稲荷番ってのは、江戸と地下御殿を繋ぐ妖怪専用の小さな入口を管理している狐の妖怪たちさ」
「これは、話の種のお代で」と酒を一合タダにする。
狐の妖怪は気分もよさそうに饒舌に語る。
「江戸には百六十七の稲荷神社があるだろう。その全てが、江戸と地下御殿を繋げているのさ。ほら、市谷に愛敬稲荷があるだろう」
場所を聞くと思い当たる場所があった。
(あの愛嬌稲荷が地下御殿と江戸を繋いでいるとはねえ。地下御殿って不思議な場所だ)
地下御殿側の愛嬌稲荷の場所に行く、そこには高さがが七尺(約二百十㎝)ほどだが、立派な鳥居がある小さな神社が建っていた。鳥居を潜ろうとすると、高さ五尺の青白い炎の塊が現れて、行く手を阻む。
炎から男の声がする。
「人間よ、ここはお前たちが通っていい場所ではない。即刻に立ち去れ」
「すいやせん。ここの稲荷番に会いたいんでさあ」
「会ってどうする。ここは通さぬぞ」
炎からは、静かだが確固たる意志の強さを感じた。
「ちょいとばかし聞きたい話がありやして、江戸に出る狐火のことでさあ」
「駄目だ。駄目だ。話す内容なぞ何もない」
(おっと、これは、何か知っている感じだね)
「では、酒と鮨を備えたいんですが、いいでしょうか」
炎が揺らいで、幾分か柔らかな物腰になる。
「まあ、供え物をしたいと申し出るのなら、受け取ってやろう。だが、何も教えぬぞ」
「へえ、わかりやした」と売れ残ったコハダ鮨と酒を供える。
「時に相談です。今日はコハダ鮨の屋台ですが、やはり、ここに供えるのなら、稲荷鮨のほうが御利益あるんでしょうかね」
男の声は軽い口調で応じる。
「そうだな。コハダ鮨より、稲荷鮨のほうがいいな」
「数はどれくらいあれば、御利益がありますかね」
男の口調が、いささか不機嫌になる。
「お主、私を手懐けしようとしておるのか?」
「そんな、私曲だなんてとんでもない。ただ、世の中、魚心あれば水心ありとも申しやす。話のわかる方には、それ相応の役得があってもよいかと思いますが」
「失礼な。私を乞食と一緒にするな」
「物乞いだなんてとんでもない。ただ、話をするのが不正でない以上、お勤めをきちんと果たしている方が報われねえのは、世の中としてどうかと思いやして」
炎が逡巡するかの如く揺らめく。
「本当に、話を聞きたいだけなのか?」
「それは、もう」
「なら、百貫もあれば、稲荷神にお心も届こう。酒もあると、なおよい」
(これは、付届をすれば、話が聞けるね)
「わかりやした。では、また、明日」
翌日、稲荷鮨を百二十貫作り、酒も用意する。さらに、綺麗に洗った銭の三緡を布に包んだ物も準備する。銭は鮨の横に添えておく。
夜になると、鮨の入った桶を天秤棒で担いで、地下御殿側の稲荷神社に行く。
稲荷神社の鳥居の前で桶を下ろす。すると、何もない空間が揺らぎ、身の丈が五尺(約百五十)の狐が現れた。狐は白い着物の上から浅黄色の袴を穿いていた。
狐が尊大ぶって挨拶をする。
「我の名は捨丸。この稲荷神社の稲荷番だ。この度は稲荷神への供え物に感謝する」
捨丸が手を叩くと、白い着物を着た子狐が出てきた。子狐が確認のために桶を開ける。
子狐が頭を振り振り鮨の数を数える。
「捨丸様。稲荷鮨ですが、百二十貫あります」
捨丸がじろりと虎之助の顔を見る。
虎之助は業とらしく謝る。
「あっしとしたことが、数を間違えて持ってきやした。余りの稲荷鮨は捨丸さんのほうで処分してくだせえ」
子狐が尻尾をふりふり捨丸に訊く。
「捨丸様。余った分は食べていい、ってことですか?」
「まあ、そうなりますね」
「やったー」と小狐が喜ぶ。小狐が桶の中にある布に気がついて開ける。
「捨丸様、こっちには銭が入っています」
捨丸が眉間に皺を寄せて胡散臭そうに虎之助を見る。
「そっちは、まあ、捨丸さんへの手間賃ってことでさあ」
捨丸は、なかば呆れた顔で尋ねる。
「袖の下ではないのですか」
「饅頭代というか、お茶代みてえなものでさあ。額が小額なので、貰っても問題ねえかと思います」
捨丸は澄まして顔で尋ねる。
「小賢しいですね。でも、寄進には感謝いたします。それで何を聞きたいんですか」
「市谷で火事騒動があり、狐火を見たとする者がおりやす。この件について、何か知っている話があれば教えてくれやせんか」
捨丸が人差し指を立てると、小さな赤い炎が灯る。
捨丸が悠然と構えて語る。
「さあ、その炎を掴んでみなさい」
そっと手を近づけて炎を掴む。熱さを感じたので、すぐに手をどける。
「炎を握った掌を見なさい、火傷はしていないはずです」
虎之助が掌を見ると、確かに、水ぶくれには、なっていなかった。
「一般的な狐火は温度が低く、触ったくらいでは火傷もしない。もちろん、木や紙を燃やすことすら、できません」
「つまり、狐火では火事にならねえ?」
「普通はそうです。ただし、稀に炎を操る術に長けた狐なら火事を起こせます。ですが、江戸の妖怪にとって火付けはご法度。ばれれば市中引き回しの上、火炙りです。江戸にも地下御殿にも居場所を失うでしょう」
「てえことは、狐による火付けは、ねえ、と?」
捨丸は難しい顔をして語る。
「これは話してよいか迷ったのですが、お話します。実は火付け騒動に関与している疑いがある妖狐が一頭います」
「嫌疑人がいるんですかい。それは誰ですけえ?」
「名は舞火といいます。舞火は炎を操るのがうまく、化けるのもうまい。それでいて、人間に敵意がある。舞火なら火事騒動を起こせます」
「では、舞火を捕まえないと大火事になりやせんか」
捨丸は困った態度で告げる。
「私たちも舞火の行方は気にしています。また、舞火を見つけたら、捕えて事情を聞くように、稲荷神より命令されています」
「捕まらないんですかい」
「むこうも、こちらの看視の網を熟知しているようで、うまくいかないのです」
(これは、まずいかもしれねえ。江戸の町に危機が迫っていらあ)




